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第2話

屋敷を出てから、エリアナはほとんど声を出さなかった。


 出せなかった、と言ったほうが正しい。喉の奥が熱を持ち、唾を飲み込むだけで針を刺されるように痛む。昨夜まで何度も祝歌の下練習をさせられていたせいだ。父は「本番では幕の裏で一曲だけ」と言ったが、その一曲のために何十回も歌わせるつもりだったのだろう。


 王都の朝は早い。露店の布屋が軒を出し、パン屋が焼き窯を開ける。エリアナは財布の中身を確かめた。銀貨一枚、半銀貨二枚、銅貨が少し。


 貴族令嬢としては少ない。家を出た人間としては、もっと少ない。


 蜂蜜パンを一つ買うと、店主の妻が彼女の喉元を見て眉をひそめた。


 蜂蜜パンは小ぶりだったが、外側が香ばしく、中に薄く蜜が塗ってある。いつもなら味わう前に飲み込めたはずの柔らかさが、傷んだ喉には重かった。エリアナは少しずつ噛み、薬草茶でふやかしてから飲み込む。


 食べることにも時間がかかるのだと、初めて知った。家では歌う前に水を飲めと言われ、歌った後は次の予定があるからと控え室へ追われた。自分の喉が食事を求めているか、休息を求めているかを、誰も尋ねなかった。


「お嬢さん、声を使いすぎたね。水だけじゃなく、温かいものを飲みな」


 返事をしようとして、声がかすれた。


「……ありがとうございます」


 それだけで咳き込み、目に涙が浮かぶ。店主の妻は黙って、小さな陶杯に薄い薬草茶を注いでくれた。


 エリアナは礼をする。言葉の代わりに深く頭を下げると、首筋が痛んだ。


 行く先は決めていない。親戚は父の支配下にある。王宮の聖務院へ駆け込めば、家の問題として父に戻されるかもしれない。


 だから、人通りの少ない西側へ歩いた。


 西礼拝堂は、王都の外れにある古い聖堂だった。侯爵家の大礼拝堂のような華やかさはない。石壁には雨染みがあり、入口の扉も何度も修理した跡がある。けれど、朝の光が差し込む窓はよく磨かれていた。


 その前で、少年が泣いていた。


「鐘が鳴らないと、妹が見つからない」


 十歳ほどの少年が、小さな女の子の靴を握っている。礼拝堂の下働きらしい少女が困っているが、どうにもできない様子だった。


 エリアナは歩みを止めた。


 少女が事情を説明する。


「迷子の合図に、小鐘を三回鳴らす決まりなんです。でも今朝から、王都中の鐘が調子を崩していて。西礼拝堂の小鐘も音が出なくて」


 王都中。


 エリアナの胸が冷えた。ベルフォード家の祝鐘は王都鐘の調律基点だった。声名札を外したことで、侯爵家だけでなく、関連する鐘の響きが乱れ始めている。


 父はきっと怒るだろう。だが、自分の名を消して使おうとした結果だ。


 少年は泣きながら言った。


「妹、耳が弱いんだ。鐘の音なら分かるのに。人の声だと、通りの音に混じって聞こえない」


 エリアナは喉元を押さえた。今、歌うべきではない。これ以上使えば、声が本当に潰れるかもしれない。


 けれど小鐘を鳴らす合図なら、大声はいらない。響きの筋を探すだけでいい。


 彼女は筆談用に持っていた小さな石板を取り出し、少女へ見せた。


『小鐘を見せてください。長くは歌えません』


 少女は驚きながらも、扉を開けた。


 礼拝堂の内側は、外観よりずっと清潔だった。古い木の長椅子に朝の光が落ち、祭壇には野の花が飾られている。小鐘は祭壇脇の低い塔にあり、紐を引くと揺れるが、音が出ない。


 エリアナは鐘に触れた。


 沈黙の中に、細い震えが残っている。完全に死んだ鐘ではない。ただ、どの声を基準に鳴ればよいか分からず、迷っている。


 鐘にも癖がある。古い鐘は高音に急ぐ。新しい鐘は響きを誇りすぎて、余韻が散る。西礼拝堂の小鐘は、臆病な子どものように最初の音を探していた。エリアナはそれを聞き分け、喉ではなく息で支える道を選んだ。


 本当なら、こういう小さな調律が好きだった。大きな式で誰かを飾るより、迷子の合図や病室の祈りのように、必要な場所へ必要な音を届けるほうが、自分の声に合っている気がした。


 彼女は声名札を掌に乗せ、ほんの短く息を震わせた。


「ん……」


 歌ではない。言葉でもない。喉を痛めないぎりぎりの、息に近い響き。


 小鐘が、りん、と鳴った。


 少年が顔を上げる。


 エリアナはもう一度だけ、息を落とした。


 りん。りん。


 三回目の音が礼拝堂の外へ抜けた時、通りの向こうから小さな女の子が走ってきた。泣きながら兄に飛びつく。


「聞こえた。お兄ちゃんの鐘、聞こえた」


 少年は妹を抱きしめ、何度も礼を言った。エリアナは返事をしようとして、声が出ず、代わりに微笑んだ。


 その時、背後から拍手が一つだけ聞こえた。


「見事な調律です。ただし、今の喉で二回以上やるべきではない」


 黒髪の青年が、祭壇奥から現れた。年は二十代後半。簡素な礼服を着ているが、袖口の刺繍は聖堂楽師長のものだ。


「私はアレクシス・ローヴェ。西礼拝堂の楽師長です。あなたの声名札を見た。ベルフォード家の方ですね」


 エリアナは身構えた。父へ連絡されるかもしれない。


 アレクシスは彼女の警戒を見て、両手を下げた。


「戻すつもりはありません。というより、喉を見れば戻してはいけない状態だと分かる」


 彼は近くの机に紙と筆を置いた。


「声を使わなくていい。書いてください。食事は取れていますか。寝る場所はありますか。医師に診せる金は」


 矢継ぎ早の問いなのに、命令ではなかった。エリアナは石板に小さく書いた。


『ありません。少しだけあります。でも仕事が必要です』


 アレクシスはうなずいた。


「西礼拝堂では、朝夕の小祈りと鐘の調律を担当する臨時詠唱士を探していました。あなたに任せたい。ただし、一日三節以上は歌わない。今日と明日は筆談のみ。報酬は日払い。部屋は二階の空き室。これでどうでしょう」


 エリアナは驚いて彼を見た。


『私がベルフォード家を出た理由を聞かないのですか』


「仕事に必要になったら聞きます。今必要なのは、あなたの同意と喉の手当てです」


 同意、という言葉を聞いた瞬間、エリアナは筆を持つ手を止めた。家では一度も問われなかった。歌えるかではなく、歌うのが当然かどうかだけが決められていた。喉が痛いと言えば、誇りが足りないと言われた。疲れたと言えば、侯爵家の娘として恥ずかしくないのかと叱られた。


 ここでは、歌う前に同意が必要だと言われる。休むことが仕事の条件に含まれている。エリアナはその事実を理解するまで、何度も同じ文を読んだ。


 その言葉に、胸の奥が緩んだ。礼拝堂の長椅子に座っていなければ、膝が崩れていたかもしれない。


 アレクシスは薬草茶を用意し、蜂蜜を少し入れてくれた。エリアナが両手で杯を持つと、温かさが指先から戻ってくる。


 杯の横には、小さな砂時計が置かれた。アレクシスは「一口飲んだら、砂が落ちるまで黙っていてください」と言った。命令ではなく、喉を守るための手順だった。


 エリアナは砂が落ちるのを見ながら、自分の沈黙が罰ではない場所に来たのだと、少しずつ理解した。


 その頃、ベルフォード侯爵家では、婚約式の開始時刻が迫っていた。


 花は飾られ、客は集まり、メリッサは白い衣装で震えていた。けれど祝鐘は沈黙し、誓約紙は白紙のままだった。


 王都聖務院の記録官が、父グラードに冷たく告げる。


「声名札の登録者不在です。このままでは婚約式を正式記録できません」


 父の手の中で、杖がきしんだ。


「エリアナを連れ戻せ。今すぐにだ」


 だがエリアナは、西礼拝堂の二階で、初めて誰にも名を奪われない沈黙の中、温かい薬草茶を飲んでいた。

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