第1話
「エリアナ、明日の婚約式の祝歌は、メリッサの名前で記録する」
父の言葉が、礼拝堂の高い天井に冷たく跳ね返った。
ベルフォード侯爵家の私設礼拝堂は、夕暮れの金色に沈んでいた。祭壇の左右には、百年続く祝鐘が吊られている。洗礼、婚約、葬送、旅立ち。家の大事な祈りはすべて、この鐘の響きで記録されてきた。
その鐘を鳴らしてきたのは、エリアナの声だった。
ベルフォード家の祝鐘は、ただ美しい音を出す飾りではない。鐘の響きは婚約を記録し、洗礼名を名簿に刻み、葬送の日には残された者の祈りを王都聖務院へ届ける。貴族たちはその仕組みを「侯爵家の由緒」と呼ぶが、実際には、朝ごとに喉を整え、鐘の癖を聞き、微かな音の濁りを直す歌い手がいなければ成立しない。
エリアナは、雨の日も、熱のある日も、父の客が泊まった翌朝も歌った。誰もいない礼拝堂で一節だけ声を出し、鐘が澄めば、その日の家の祈りは滞りなく始まる。滞りなく始まるものほど、誰も支えている手を見ない。
「お父様。メリッサの名前で、とは」
エリアナは喉元を押さえた。歌う前ではないのに、声帯が細い糸で縛られたように痛む。
父グラードは祭壇前の椅子に腰掛けたまま、当然のように言った。
「明日はメリッサとカイン卿の婚約式だ。花嫁となる娘が、自ら祝歌を歌ったと記録されれば、王都の評判はさらに上がる」
「カイン卿は、私の婚約者だったはずです」
「過去の話だ」
その一言で、胸の内側が薄く裂けた。
カインは父の隣に立っていた。整った顔に困ったような微笑を浮かべている。優しい顔をして、いつも肝心なことは父の言葉に任せる人だった。
「エリアナ、君の声は素晴らしい。だからこそ、家のために使うべきだ」
「私の名前ではなく、メリッサの名前で」
「君は人前に出るのが苦手だろう。メリッサは華がある。二人で一つの祝福を作るのだと思えばいい」
妹メリッサは白い婚約衣装の試着姿で、祭壇の影に立っていた。泣きそうな顔をしているが、指にはもうカインから贈られた真珠の指輪が光っている。
「お姉様、ごめんなさい。でも、私が歌えないのは皆が知っているでしょう? お姉様が幕の裏で歌ってくれたら、式はうまくいくわ。お父様も、カイン様も、王都の皆も喜ぶの」
王都の皆。
エリアナはゆっくり息を吸った。吸った息が胸の途中で止まる。
彼女は七歳からこの礼拝堂で歌ってきた。冬の夜明け、凍えた使用人の子に洗礼を授ける時も。疫病で亡くなった領民の葬送で、泣き崩れる母親のために鐘を鳴らした時も。父が王都の貴族へ「我が家の祝鐘は曇らない」と誇るたび、その裏で喉を枯らしたのはエリアナだった。
歌い終えた夜、喉が熱を持って水も飲めないことがある。血の味がすることもある。それでも、祈りの名簿に自分の名が残るなら、まだ耐えられた。
名簿に残る文字は小さい。客席の誰も見ない。式のあと、父が褒めるのは花嫁の美しさや、招待客の格式ばかりだ。それでもエリアナは、礼拝堂の奥で自分の名を指でなぞるたび、今日の祈りは自分が届けたのだと思えた。
メリッサが社交で称賛され、カインが彼女の笑顔に見とれても、その小さな名だけは奪われなかった。だから黙っていられた。だから笑っていられた。
けれど明日からは、その名すら妹のものになる。
「私の声名札はどうなりますか」
父は眉をひそめた。
「細かいことを。祈祷台の記録上、しばらくメリッサの札に繋ぎ替えるだけだ」
「しばらく、とは」
「婚約式が終わるまでだ。必要なら婚礼まで。子の洗礼まで使うこともあるかもしれん。家の名誉に関わる」
エリアナは足元が沈むような眩暈を覚えた。
しばらく、は終わらない。明日だけ、婚礼まで、子の洗礼まで。最後には、死ぬまで。
「……私の声は、家のものですか」
「侯爵家に生まれた娘の力は、家のためにある」
返事は明確だった。
エリアナは祭壇へ歩いた。膝に力を入れないと倒れそうだった。白い石の祈祷台には、歴代の歌い手の声名札が納められている。小さな銀札に、声の持ち主の名と祝鐘の響きが結ばれている。
祈祷台の前に立つと、足元の石が冷たかった。ここで何度、式の前に一人で立っただろう。客席に誰もいない時間に声を慣らし、祝福の音が揺れれば直し、終わる頃にはメリッサが着飾って現れる。華やかな場面はいつも妹のものだった。
エリアナは、その順番をもう受け入れないと決めた。
自分の札は、母が生きていた頃に作ってくれたものだ。
『声は贈り物だけれど、あなたの喉はあなたのものよ』
母はそう言った。父はその言葉を嫌った。
「エリアナ、何をしている」
父の声が鋭くなる。
エリアナは祈祷台の蓋を開けた。銀札に触れると、夜明けの鐘の微かな震えが指先に伝わる。何百回も歌った祈りが、胸の奥でかすかに鳴った。
「エリアナ・ベルフォードは、本日をもってベルフォード家の祈りから自分の声を外します」
銀札の紐を切った。
礼拝堂の空気が、一瞬で重くなった。
左右の祝鐘が、音もなく揺れる。鳴らない。揺れているのに、響きがない。祭壇の燭火が細く青ざめ、婚約式用の誓約紙に浮かんでいた金の縁取りが、白く消えていく。
控えの間から、式係の侍女が悲鳴を上げた。明日のために調律していた小鐘が、次々に舌を落としたのだ。鐘そのものは壊れていない。だが、鳴るべき声を失った金属は、ただ冷たい器に戻っていた。
祭壇下の誓約箱も沈黙した。カインとメリッサの名を書いた紙が、登録前の白紙へ戻る。家の名誉のために消そうとしたエリアナの名前が、消えた瞬間に式そのものを連れていった。
「鐘が……」
メリッサが震えた。
カインは誓約紙を手に取り、顔色を変えた。
「誓約登録の欄が空白になっている。グラード侯爵、これは」
「エリアナ、戻せ!」
父が立ち上がる。杖の先が石床を打ち、乾いた音がした。
「明日の式が成立しない。王都の貴族が集まるのだぞ」
「メリッサの名前で歌うのでしょう。私の声は必要ありません」
言葉を出すたび、喉が焼ける。けれど、今黙れば二度と自分の声で話せない気がした。
メリッサが涙をこぼした。
「お姉様、ひどいわ。私の幸せを壊すの?」
「私の婚約を壊したのは、あなたたちです」
初めてそう言った。
カインが眉を寄せた。
「エリアナ、君にはもっと穏やかでいてほしかった」
「穏やかに黙って歌えば、満足でしたか」
カインは答えなかった。
エリアナは声名札を胸元にしまい、礼拝堂の扉へ向かった。足が震える。喉の奥に血の味がにじむ。けれど、扉の外へ出るまでは崩れたくなかった。
途中で、幼い頃に使っていた踏み台が目に入った。背が足りず、鐘紐に届かなかった日のものだ。母が「届くまで待たなくていい。今の声で鳴る鐘を探しなさい」と笑った。エリアナは踏み台から目を離し、今の自分の声で言える最後の言葉を選んだ。
「出ていくなら、二度とこの家の鐘は鳴らせんぞ」
父の怒声が背中に刺さった。
エリアナは扉の前で振り返った。
「鳴らせないのは、私ではありません。私の名を消してまで鳴らそうとした、この家です」
礼拝堂の外へ出る。
王都の夕鐘の時刻だった。いつもならベルフォード家の祝鐘が、他の鐘に先んじて澄んだ音を響かせる。
だがその日、侯爵家の鐘は沈黙した。
鐘楼の下で、式係たちが顔を見合わせる。原因を問われても誰も答えられない。彼らが知っているのは、毎朝エリアナが来て、歌い、鐘が鳴るという結果だけだった。結果だけを当然にした家は、理由を失った瞬間に立ち尽くすしかなかった。
エリアナは自分の声名札を握りしめ、初めて誰のためでもない沈黙を選んだ。




