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第五十二話 私の声は、私の名で、休む日まで響いている

 物語の始まりを思い出す時、エリアナはいつも礼拝堂の冷たい石床を思い出す。


 父に命じられた夜。妹の名前で祝歌を歌えと言われた夜。元婚約者が優しい顔で、家のためだと告げた夜。喉は痛み、指先は冷え、膝に力を入れなければ立っていられなかった。


 あの時、声名札の紐を切らなければ、何も壊れなかったかもしれない。


 婚約式は華やかに行われ、メリッサは笑い、カインは面目を保ち、父は家の由緒を誇っただろう。エリアナの名だけが消え、喉の痛みだけが記録されずに残った。


 だから、壊してよかった。


 壊したのは祈りではない。名前を消してもよいという仕組みだった。


 今、エリアナは声名簿講堂の窓辺に座っている。今日は休声日。玄関の小鐘も、王都十二鐘も、ベルフォード家の祝鐘も、彼女の声を求めずに鳴っている。


 机の上には、いくつもの記録が並ぶ。


 母セシリアの休声木札の写し。契約詠唱士の認定証。アレクシスとの結婚誓約。メリッサの朗読料金表。ミレーヌの鈴印。ユーレンの木札奉納記録。ベルフォード家祝鐘の修復報告。


 どれも、声を奪われた夜には想像できなかったものだ。


 アレクシスが湯を持ってくる。


「休声日の仕事は順調ですか」


 エリアナは石板に書く。


『はい。何も歌っていません』


「優秀です」


 彼は真面目に言う。エリアナは笑った。声は出さない。けれど、笑いは伝わる。


 夕方、メリッサから手紙が来た。


『次の朗読式で、歌えない花嫁のために非発声祝福を使います。ユーレンに相談します。お姉様の声は借りません』


 エリアナは返事を書く。


『必要なら設計を手伝います。料金表を添付してください』


 姉妹のやり取りは、ずいぶん変わった。甘えと沈黙ではなく、依頼と返答でつながる。それでも、冷たいわけではない。正しい距離の中に、ようやく温かさがある。


 日没、王都十二鐘が鳴った。


 音は空へ広がり、一つの家にも、一人の喉にも戻ってこない。たくさんの名、たくさんの手、たくさんの休む日を抱えて響いている。


 エリアナは手帳の最後のページを開いた。


『私の声は、私の名で』


 そう書いてから、もう一行足す。


『私の沈黙も、私の名で』


 かつて沈黙は、罰だった。幕裏で黙ること。父に逆らわず黙ること。婚約を奪われても黙ること。


 今の沈黙は違う。


 喉を休め、次に歌う日を選ぶための沈黙。声を持たない人の祝福を聞くための沈黙。誰かの名を消さず、空白を空白のままにしないための沈黙。


 エリアナは窓を開けた。


 遠くの鐘が鳴っている。


 彼女は歌わない。


 それでも、今日の休声欄に丸をつけた手帳の中で、彼女の声は確かに生きていた。


 私の声は、私の名で。


 歌う日も、休む日も。


 もう二度と、誰かの名前で消えたりしない。

 その夜、エリアナは母の木札の写しを手に取った。


 セシリアの字は、今見ても柔らかい。休声日の日付の横に、小さな丸や三角がある。丸は完全休声。三角は短い発声のみ。母もまた、迷いながら自分の喉を守っていたのだろう。


 エリアナは自分の手帳の丸を見比べた。


 親子で同じ記号を使っていることに、胸が温かくなる。父が隠した木札は、娘の手帳の中で続いている。母の声はもう聞けない。けれど、休む日の記号が受け継がれている。


 アレクシスが静かに言った。


「明日も休声ですか」


 エリアナは頷いた。


『明後日は、ミレーヌの講習で少し話します』


「では、明日はよく休む日ですね」


『はい。母と同じ丸をつけます』


 その一文を書いた時、エリアナはようやく、休むことを母への報告として受け取れるようになった。


 歌うことで母を継ぐのではない。


 休む日を消さないことで、母のいちばん大事な教えを継いでいる。

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