第四十九話 声名簿の空白に、私は休む日の丸をつける
結婚から一年後、エリアナは声名簿講堂の二冊目の台帳を開いた。
一冊目は、発声記録、休声記録、代替手段、講習記録でほとんど埋まっている。ミレーヌの休声日、王宮礼拝堂の試験導入、花市場の小鐘式、メリッサの朗読司会、ベルフォード家祝鐘の私的葬送。どれも、かつてなら大きな物語にはならなかった小さな記録だ。
だが、その小さな記録が、王都の鐘を少しずつ変えた。
今では、式典依頼書に発声者名を書くのが当たり前になりつつある。休声日を理由に代替を立てても、怠慢とは呼ばれない。見習いたちは自分の声名札を本人保管箱に入れ、鈴印や星印を選ぶ。
エリアナは二冊目の最初のページに、自分の名を書いた。
『エリアナ・ローヴェ旧姓ベルフォード。契約詠唱士。本日、休声日』
今日は歌わない。
大きな式がないからではない。歌えるのに、予定として休む日だ。以前なら、空白にしていたかもしれない。何もしていない日として、記録から消したかもしれない。
今は違う。
休声欄に丸をつける。
それは、歌う日の丸と同じ濃さで書いた。
講堂の窓の外では、ミレーヌが新しい見習いに説明している。
「痛い日は、ここに書くんです。怖くても。書けば、代わりを探せます」
花市場の親方は小鐘の点検に来ている。メリッサは婦人会の朗読依頼の合間に、見習いたちへ目録の読み方を教えている。アレクシスは王宮と西礼拝堂を行き来しながら、玄関の休務札を以前よりきちんと使うようになった。
ベルフォード家の祝鐘は、王都の基点には戻っていない。
けれど、冬の朝や私的な葬送に、無理のない音で鳴る。父からの手紙は相変わらず短く、棘が残っている。それでも、母の木札は表に掛かったままだ。
完璧な和解はない。
完全に消える痛みもない。
だが、消えない痛みを理由に、未来の欄を空白にする必要もない。
夕方、エリアナは自宅へ戻った。玄関には休声札と休務札、その下に小さな鐘。アレクシスが台所から顔を出す。
「今日は完全休声でしたね」
エリアナは石板に書く。
『はい。よく休みました』
「素晴らしい業務成果です」
真面目な顔で言われ、エリアナは笑った。
小鐘を一度鳴らす。
りん。
その音は、王都十二鐘ほど大きくない。ベルフォード家の祝鐘ほど由緒もない。けれど、エリアナにとっては、自分の家の祈りを始める十分な音だった。
かつて父は、妹の名前で祝歌を歌えと言った。
エリアナは家の祈りから自分の声を外した。
その時は、すべてを失うと思った。
けれど外へ出た声は、西礼拝堂で仕事になり、王都十二鐘を分け、母の名を戻し、妹の朗読を支え、見習いたちの休む日を守り、アレクシスとの小さな家に鐘を掛けた。
声は、誰かの名で使われるためにあるのではない。
私の声は、私の名で。
歌う日も、休む日も、私の記録として残る。
エリアナは二冊目の声名簿の写しを机に置き、休声日の丸をもう一度見た。
空白ではない。
そこには、明日も声を持って生きるための、静かな祝福があった。




