第四十五話 初めての夫婦喧嘩は、筆談で長引いた
初めての夫婦喧嘩は、結婚から十日目に起きた。
原因は、アレクシスの休務札だった。
王宮礼拝堂の試験導入が忙しく、彼は三日続けて帰宅後も譜面と規則案を開いていた。エリアナの休声時間には厳しいのに、自分の休務札は一度も掛けない。
エリアナは夜の食卓で石板に書いた。
『明日は休務札を掛けてください』
アレクシスは譜面から顔を上げた。
「明日は王宮礼拝堂の会議があります」
『帰宅後です』
「少し確認するだけです」
少し。
その言葉に、エリアナの中で小さな鐘が危険を告げた。一曲だけ、明日だけ、少しだけ。言葉が違っても、限界を越える入口は似ている。
彼女は筆圧を強くした。
『少しだけ、は危険です』
アレクシスは疲れた顔で言った。
「あなたの喉と違って、私の仕事は多少無理ができます」
その瞬間、空気が冷えた。
言った本人も、すぐに失言だと気づいた。エリアナは石板を握りしめる。喉と違って。多少無理ができる。その理屈で、どれだけの人が自分を削るのか。
彼女は声を使わなかった。
代わりに、喧嘩規定どおり筆談へ移行する。ただし、筆談は長引いた。
『無理ができるものは、無理をしてよいものではありません』
「分かっています。ですが、王宮の規則導入は今が大事です」
『だからこそ、導入する人が休務できないのは矛盾です』
アレクシスは反論を書き、消し、また書いた。
エリアナも書いた。父と同じにしないでほしい、という言葉は飲み込んだ。彼は父ではない。だが、だからこそ同じ入口に立ってほしくなかった。
夜が深くなり、二人とも疲れた。
喧嘩規定の最後の項目が発動する。
翌日に持ち越す場合は、水を飲んで寝る。
エリアナは水杯を二つ置いた。アレクシスは苦笑し、飲んだ。
「規定に救われました」
翌朝、彼は玄関に初めて休務札を掛けた。
『王宮会議後、譜面確認なし。湯を飲んで寝る』
エリアナは石板に書く。
『記録します』
彼は深く頭を下げた。
「昨夜の言い方は、あなたの傷に触れました。すみません」
エリアナは少し考えた。
『謝罪を受け取ります。私も、父と同じ入口に見えて怖くなりました。あなたを父と同じと決めつけないよう、気をつけます』
夫婦喧嘩は、甘い抱擁で終わらなかった。
謝罪、修正、休務札。
けれど、エリアナにはそれでよかった。喧嘩しても、記録して、飲み水を置き、翌朝に直せる。
それは、声を守る結婚生活の、最初の本当の練習だった。
その日から、二人は週に一度、互いの札を点検することにした。
エリアナの休声札は、使いすぎて角が丸くなっている。アレクシスの休務札は、まだ新しく硬い。彼はそれを少し恥ずかしそうに見た。
「私は、休ませる側に慣れすぎていました」
『休む側にも、練習が必要です』
「あなたが言うと説得力があります」
『痛み込みの説得力です』
書いてから、エリアナは少し手を止めた。痛みを冗談にできる日が来るとは思わなかった。笑いで消したのではない。記録し、補償を受け、制度に変えたから、ようやく軽く持てる部分ができたのだ。
アレクシスは札の裏に小さく日付を書いた。
『初使用』
エリアナはその下に追記した。
『再発防止のため継続』
二人の喧嘩は、札の裏にも記録された。恥ではなく、次に同じ入口へ立った時の目印として。




