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第四十四話 新居の小鐘は、休声札の下に掛かる

 エリアナとアレクシスの新居は、西礼拝堂から歩いて七分の小さな家だった。


 一階には台所と食卓、二階には寝室と二つの仕事部屋。大きな屋敷ではない。だが、玄関脇に休声札と休務札を掛けるための釘があり、窓辺には喉を冷やさない厚手の布がかけられ、台所には二人分の湯器が並んでいる。


 引っ越しの日、リディアが小さな鐘を贈ってくれた。


「玄関用です。お二人が、呼ぶ時に声を張らなくていいように」


 鐘は手のひらほどの大きさで、花市場の親方が余った金具で作ったものだという。音は大きくない。りん、と短く、部屋の端まで届く。


 エリアナは石板に書いた。


『休声札の下に掛けたいです』


 アレクシスは工具箱を開けた。


「高さは?」


『私でも、あなたでも、背伸びしない場所』


 釘を打つ音が、小さな家に響く。エリアナはその音を聞きながら、かつてのベルフォード家の大礼拝堂を思い出した。高い天井、届かない鐘紐、幼い自分の踏み台。あの場所では、鐘に届くために背伸びが必要だった。


 この家の鐘は、背伸びしなくても鳴らせる。


 それだけで、胸が熱くなった。


 引っ越しの荷物には、声名札、母の木札の写し、喉の手帳、契約詠唱士の認定証、アレクシスの譜面、休務記録帳があった。二人はそれぞれの仕事机へ、自分のものを置く。


 エリアナはふと気づいた。


 同じ家に住んでも、机は別々だ。


 共有する棚もある。けれど、全部を混ぜない。それが寂しいのではなく、安心だった。


 夜、初めての夕食は簡単な野菜の煮込みだった。アレクシスは料理が下手ではないが、塩を慎重に入れすぎる癖がある。エリアナは筆談で「少し薄い」と伝えた。


「次回、調整します」


『次回という記録があるのですね』


「結婚生活は、毎日が試作です」


 その言い方に、エリアナは笑った。声を出すと喉に響くので、肩だけを震わせる。


 食後、二人は玄関の小鐘を一度鳴らした。


 りん。


 西礼拝堂の小鐘よりも、ベルフォード家の祝鐘よりも、ずっと小さい。だが、今のエリアナにはこの音がいちばん家に近かった。


 手帳の新しいページに書く。


『新居初日。休声札、休務札、小鐘。背伸びしない高さ。塩は少し薄い』


 最後の一文を見て、アレクシスが眉を上げた。


「記録に残るのですか」


『改善のためです』


「厳正に受け止めます」


 新しい家の小鐘が、二人の笑いを静かに受け止めた。

 翌朝、エリアナは新居の台所で、二つの湯器にそれぞれ札をつけた。


『喉用』

『耳用』


 アレクシスは二枚目を見て首を傾げた。


「耳用とは」


『あなたが王宮で音を聞きすぎた日に、温かいものを飲むためです』


「耳は飲みませんが」


『喉も札を読みません。でも役に立ちます』


 彼は少し考え、真面目に頷いた。


「では、耳用として使います」


 そういうやり取りができること自体が、エリアナには新鮮だった。家では、冗談は機嫌を損ねない範囲でしか許されなかった。ここでは、薄い塩味も、湯器の札も、二人で直せる生活の材料になる。


 小さな家は、完璧ではない。床は少し鳴り、窓の隙間から冬の風が入る。だが、鳴る床には敷物を足せばいい。隙間には布を詰めればいい。問題は叱責ではなく、修繕の入口だった。

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