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第四十三話 家の祈りから外した声は、私たちの鐘になる

 結婚式の朝、エリアナの喉の熱は引いていた。


 完全ではない。手帳の分類では「注意」から「軽度注意」になっただけだ。医師は一節なら可能、ただし直後に休声、長い挨拶は禁止と診断した。


 エリアナは診断書を読み、深く息を吐いた。


 歌える。


 だが、昨日までの自分とは少し違う。歌えたから勝ち、歌えなかったら負けではないと知った上で、歌うことを選べる。


 西礼拝堂には、朝から多くの人が集まっていた。声名簿講堂の見習いたち、婦人会、花市場の職人、薬師広場の家族、王宮礼拝堂の使者、セラフィナ記録長、カイン、メリッサ。父グラードの席は空いていた。


 だが、式の直前、リディアが一通の手紙を持ってきた。


 父からだった。


『出席しない。祝鐘を鳴らす。名義はエリアナ・ベルフォード。発声依頼ではない。こちらの鐘が勝手に応答するだけだ』


 短く、不器用で、相変わらず素直ではない。


 エリアナは読み終えて、少し笑った。


 出席しないことを自分で決め、祝鐘を勝手に応答させると言う。命令でも謝罪でもない。父なりの距離なのだろう。


 彼女は石板に書いた。


『記録してください。ベルフォード家祝鐘、任意応答。発声依頼なし』


 セラフィナはうなずいた。


「記録します」


 式が始まる。


 メリッサが朗読台に立った。今の彼女は、もう借り物の祝歌を求める妹ではない。朗読係として、自分の仕事の服を着ている。


「本日の誓約は、本人同意、本人名義、発声上限確認済みとして行います」


 会場が静かに頷く。


 アレクシスは祭壇の前で待っていた。王宮楽師長補佐の礼服ではなく、西礼拝堂の簡素な礼服に、エリアナが選んだ銀の留め具をつけている。


 彼が手を差し出す前に、エリアナは自分から手を取った。


 以前は、誰かの手が自分をどこかへ連れていくことが怖かった。今は違う。手を取るのも、離すのも、自分の選択だと知っている。


 誓約文は短かった。


 互いの仕事を尊重すること。休声札と休務札を家に掛けること。喧嘩を翌日に持ち越す時は水を飲むこと。相手の名で勝手に署名しないこと。


 参列者の何人かが、最後の条項で小さく笑った。


 セラフィナが確認する。


「エリアナ・ベルフォード。アレクシス・ローヴェ。両名、同意しますか」


 アレクシスが答える。


「同意します」


 エリアナは喉の状態を確かめた。


 痛みはない。少し緊張している。けれど、昨日作った歌わない案が、心を支えてくれている。歌わなくても消えないと知っているから、歌う声が無理をしない。


「同意します」


 誓約箱に二人の名が浮かぶ。


 そして、祝歌。


 エリアナは声名札を掌に置いた。銀札の隣には、母セシリアの休声木札の写しがある。歌う日と休む日。どちらも、ここにある。


 息を吸う。


 一節。


 その歌は、かつてベルフォード家の礼拝堂で求められたような、華やかな見栄のための祝歌ではなかった。王都中に自分を誇示するためでもない。自分とアレクシスの名を、同じ名簿の別々の欄に、無理なく結ぶための音だった。


 西礼拝堂の小鐘が鳴る。


 王立施療院の鐘が柔らかく応じる。


 花市場の小鐘が明るく続く。


 遠くで、ベルフォード家の祝鐘も鳴った。


 以前のように王都の基点として先んじる音ではない。少し遅れて、控えめに、けれど割れていない音で応じた。


 エリアナは歌い終え、すぐに水杯を受け取った。


 拍手は起きない。


 式次第に従い、参列者は静かに頭を下げる。彼女の喉を守る沈黙。祝福が、音の大きさではなく、配慮として広がっている。


 メリッサが記録を読み上げた。


「祝歌、エリアナ・ベルフォード本人名義。発声一節。過負荷なし。西礼拝堂、王立施療院、花市場、ベルフォード家祝鐘、任意応答。休声へ移行」


 エリアナはその一文を聞き、目を閉じた。


 家の祈りから自分の声を外した日、彼女はすべてを失う覚悟で扉を開けた。名前を奪われ、婚約を奪われ、妹のために幕裏で歌えと言われた夜。喉は痛み、足は震え、未来は見えなかった。


 けれど、外した声は消えなかった。


 西礼拝堂で小鐘を鳴らし、王都十二鐘を分け、母の木札を戻し、妹の朗読を聞き、見習いたちの鈴を記録し、アレクシスと暮らし方を書いた。


 声は、家のものではない。


 誰か一人のものでもない。


 本人の体に宿り、本人の同意で、必要な場所へ渡されるものだ。


 式の後、エリアナは休声札を首から下げたまま、アレクシスと庭へ出た。彼は何も言わず、手を差し出す。


 彼女はその手を取る。


 声は休んでいる。


 それでも、伝えたいことはあった。エリアナは石板を取り出し、一行を書いた。


『私たちの家にも、小さな鐘を置きましょう』


 アレクシスは読んで、微笑んだ。


「休声札と休務札の下に?」


 エリアナは頷く。


 家の祈りから外した声は、もう誰かの名前を飾るために鳴らない。


 これからは、二人で選んだ小さな家で、歌う日も、休む日も、同じ名簿に残していく。


 遠くで王都十二鐘が春の時刻を告げた。


 その響きは、エリアナの喉へ戻ってこない。


 たくさんの鐘へ分かれ、たくさんの名と手に支えられ、空へ広がっていく。


 エリアナはその音を聞きながら、静かに笑った。


 沈黙していても、彼女の名は消えない。


 もう、誰の名で歌うかを問われても迷わない。


 私の声は、私の名で。


 そして、私が選んだ人たちと響かせるためにある。

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