第四十二話 結婚式の前夜、私は歌わない選択も持っている
結婚式の前夜、エリアナの喉は少し熱を持った。
痛みというほどではない。だが、手帳に書けば「注意」に分類される状態だった。春祭りの婚約式から一年。声の管理には慣れている。だからこそ、彼女は小さな違和感を見逃せなかった。
明日の式では、祝歌を一節歌う予定だった。
本人名義、発声上限一節、直後に休声。すべて書面にある。けれど、喉の熱が強まれば、歌わない選択をしなければならない。
エリアナは手帳を前に、動けなくなった。
自分の結婚式で、自分の名で祝歌を歌う。
それは、長い道の先に置いた報酬のようなものだった。父に妹名義で歌えと言われた夜から、何度も想像した。いつか、自分の名で、自分のために歌う日を。
それを、喉の熱で諦めるのか。
胸が苦しくなる。
アレクシスが練習室へ来た。彼は彼女の顔を見て、すぐに水杯と砂時計を置いた。
「熱がありますか」
エリアナは石板に書く。
『少し』
「医師を呼びます」
診断は、軽い炎症の前兆だった。発声禁止ではないが、明日の朝の状態次第では避けるべき。医師はそう告げた。
エリアナは診断書を見つめ、唇を噛みそうになった。やめる。口内も仕事道具。
アレクシスは言った。
「祝歌は、なくても結婚式は成立します」
分かっている。
頭では分かっている。灰鐘祭で歌わない応答をした。メリッサの朗読式で、歌わない祝福を設計した。見習いたちにも、休む日を記録しなさいと言ってきた。
なのに、自分のことになると難しい。
エリアナは石板に書く。
『私は、自分の名で歌う日を待っていました』
「知っています」
『歌わなければ、父の命令に勝った証がなくなる気がします』
書いた瞬間、涙が落ちた。
アレクシスはすぐに慰めなかった。彼は隣に座り、彼女が次の言葉を書くのを待った。
『私は、まだ証明したいのです。誰かの名前ではなく、私の名前で歌えると』
アレクシスは静かに言った。
「歌えることは、もう証明しています。ですが、歌わない選択を自分に許せるかは、明日のあなたにとって別の証明になるかもしれません」
エリアナは顔を上げた。
「私は、あなたの歌を聞きたいです」
彼の声は穏やかだった。
「でも、あなたの喉を犠牲にして聞きたいわけではありません。明日、歌うあなたも、歌わないあなたも、同じ人です」
涙がまた落ちた。
その夜、二人は式次第を修正した。
案一。喉の状態が良ければ、エリアナが一節歌う。
案二。状態が不十分なら、声名札を祭壇に置き、メリッサが誓約文を朗読し、西礼拝堂の小鐘が応答する。
案三。完全休声なら、木札による祝福に切り替える。
どの案でも、結婚式は成立する。
どの案でも、エリアナの名は消えない。
手帳に書く。
『結婚式前夜。喉に熱。歌わない案を作る。悔しい。でも、私の名は歌わなくても消えない』
眠る前、エリアナは声名札を枕元に置いた。
明日、歌えるかどうかは分からない。
けれど、歌うか歌わないかを決めるのは、父でも、式でも、過去の傷でもない。
明日の自分だ。
そのことだけは、確かだった。




