第三十六話 妹は父の家を出る届けを自分で出す
メリッサがベルフォード家を出る日は、雨だった。
婦人会の寮へ移るための書類は、彼女自身が整えた。居住変更届、朗読係の雇用契約、生活費の見積もり、父からの援助を受けない場合の収支表。エリアナは書式の場所を教えたが、記入はメリッサが行った。
彼女は西礼拝堂の面会室で、書類の束を見せた。
「何度も間違えました。父の署名欄を、つい先に探してしまって」
エリアナは石板に書く。
『分かります』
父の許可がなければ動けないと思う癖は、姉妹で違う形に染みついている。エリアナは恐怖として。メリッサは依存として。
「父は、私が出ていくなら援助はしないと言いました」
『生活費は足りますか』
「足りるように、婦人会の仕事を増やします。衣装代を減らします。あと、朗読の個人依頼を受けてもいいって」
メリッサは少し照れたように笑った。
「お姉様みたいに、料金表を作りました」
差し出された紙には、朗読一件、目録読み上げ、式典司会補助、練習指導の料金が書かれていた。字はまだ華やかすぎるが、項目は真面目だ。
エリアナは頷いた。
『良いです。ただ、休む日の料金も考えてください』
「朗読にも休む日がいる?」
『声を使いますから』
メリッサははっとして、自分の喉に触れた。
「そうね。私も、声を持っているのね」
その言葉に、エリアナは胸が温かくなった。
出発の日、父は玄関に出てこなかった。代わりに家令が荷物を運び、冷たい声で言った。
「旦那様は、戻りたくなったら謝罪をするようにと」
メリッサは少し震えた。
エリアナは付き添いとして来ていたが、口を出さなかった。これは妹の届けだ。妹が自分で返事をする必要がある。
メリッサは息を整え、朗読で鍛えた声を使った。
「戻るかどうかは、その時の私が決めます。謝罪が必要なら、何に対してかを書面で確認します」
家令は驚いた顔をした。
エリアナは心の中で、よく言ったと思った。
馬車に荷物を積み終えると、メリッサは屋敷を振り返った。華やかな少女時代のほとんどが、あの家にある。愛されていた記憶も、甘えていた記憶も、姉を見ないふりをした記憶も。
「お姉様。私、家を嫌いになるために出るわけじゃないの」
エリアナは石板に書く。
『嫌いにならなくても、離れていいです』
メリッサは涙をこぼした。
「その言葉、もっと早く知りたかった」
『私もです』
姉妹は雨の中で少しだけ笑った。
婦人会の寮は、ベルフォード家ほど豪華ではない。部屋も小さい。だが、机と本棚と鍵があった。メリッサは鍵を受け取り、しばらく見つめる。
「自分の部屋の鍵って、重いのね」
エリアナは頷く。
鍵は自由だけではなく、戸締まりの責任もくれる。けれど、その重さは誰かに閉じ込められる扉の重さとは違う。
帰り際、メリッサは朗読料金表の余白に一行を書き足した。
『休声日。月四日以上』
エリアナはそれを見て、静かに微笑んだ。
妹は歌えない祝福を見つけた。
そして、休む日を自分の料金表に入れた。
それは、姉妹の長い訂正の中で、最も確かな一歩の一つだった。




