第三十四話 見習い少女の父は、一曲だけと言った
休声基金の最初の受給者になった見習い少女の名は、ミレーヌといった。
十三歳。細く澄んだ声を持つが、喉はまだ成長途中だ。医師は一週間の発声制限を命じた。ところが三日目の夕方、彼女は泣きながら西礼拝堂へ駆け込んできた。
「父が、明日の洗礼式だけは歌えって」
エリアナは胸が冷えるのを感じた。
一曲だけ。
その言葉は、どれだけ形を変えても同じ場所へ戻ってくる。
ミレーヌの父は、小貴族礼拝堂の管理者だった。娘の声で家の評判を上げたい。休声基金で代替費用が出ると説明しても、彼は納得しなかったという。
「代わりの人が歌ったら、私の声が弱いって思われるって。せっかく推薦されたのに、仕事を失うって」
ミレーヌは小さな喉を押さえた。
エリアナは石板に書く。
『明日は歌わないでください』
「でも、父が」
『あなたの喉は、あなたのものです』
書いた瞬間、胸の奥で母の声が重なった。
アレクシスが聖務院へ連絡し、セラフィナ記録長が緊急面談を設定した。相手は父親と礼拝堂管理者。エリアナは同席を希望した。
面談で、ミレーヌの父は不満を隠さなかった。
「たかが軽い咳です。子どもは大げさに言う。明日の洗礼式は、娘の将来に関わる大事な場なのです」
エリアナの指が震えた。
父グラードの声と重なる。娘の将来。家の評判。大事な場。どれも、少女の喉を後回しにするための言葉だった。
彼女は声を使わず、書いた。
『将来に関わるから、歌わせてはいけません』
セラフィナが読み上げる。
ミレーヌの父は鼻で笑った。
「あなたの家の問題と一緒にしないでいただきたい。うちは娘を大事にしている」
エリアナは深呼吸した。
怒りを守るために、記録を使う。
『大事にしているなら、医師の発声制限を守ってください。休声基金から代替費用は補助されます。明日の式典記録には、ミレーヌ本人の休声判断と代替詠唱士名を残します。これは怠慢ではなく、保護記録です』
管理者が口を挟む。
「しかし、本人の評価が」
『休む判断をした見習いを評価から外すなら、その評価制度を聖務院へ報告します』
会議室が静まり返った。
エリアナ自身、こんな強い文を書くとは思っていなかった。けれど、目の前の少女に「一曲だけ」を飲み込ませたくなかった。
アレクシスは横で黙っている。彼が代わりに怒鳴れば、話は簡単かもしれない。だが、これはエリアナが積み重ねた規則を、エリアナ自身が使う場だった。
最終的に、ミレーヌは明日の式を休むことになった。代替詠唱士の費用は基金と礼拝堂が折半する。式典記録には、休声判断が正式に残る。
面談後、ミレーヌは泣きながら言った。
「休んだら、もう歌えない子だと思われるかと思いました」
エリアナは短く声で答えた。
「休める子は、長く歌えます」
喉が少し熱くなった。だが、後悔はない。
翌日の洗礼式では、代替詠唱士が無事に祝歌を歌った。ミレーヌは客席で聞き、式の後、自分の手帳に記録した。
『休声日。代替あり。式は壊れなかった』
その文字を見た時、エリアナは自分の十歳の頃へ、小さな返事が届いた気がした。
一曲だけ、と言われても、断れる。
断っても、祈りは壊れない。
その記録が、また一つ増えた。




