第三十二話 婚約者になっても、契約書の余白は別々にする
婚約式の翌朝、エリアナはいつも通り練習室で喉の手帳を開いた。
祝歌一節。痛みなし。休声二時間。水杯三杯。青い肩掛け使用。
その下に、少し迷ってから書く。
『アレクシス様と婚約。嬉しい。少し怖い』
婚約したからといって、急に不安が消えるわけではない。むしろ、幸せな出来事ほど、失う怖さも連れてくる。カインとの婚約が曖昧に終わった過去があるから、名簿に並んだ名前を見ても、どこかで「また誰かの都合で変えられるのでは」と身構えてしまう。
アレクシスは朝食の席で、いつもと同じように予定表を差し出した。
「本日は休声中心。午後に王立施療院の名簿確認。私的な面会予定は入れていません」
エリアナは石板に書く。
『婚約者になったのに、予定表は変わらないのですね』
「変える必要がある点だけ、変えます。あなたの業務予定を私的な関係で動かすと、後で境目が曖昧になります」
境目。
エリアナはその言葉を噛みしめた。父は家族だから境目を消した。カインは婚約者だから気持ちを分かってほしいと言った。アレクシスは婚約者になっても、境目を残す。
「ただし、呼び方については確認したい」
アレクシスが真面目な顔で言った。
「業務中はエリアナさん。私的には、エリアナ、と呼んでも?」
エリアナは手を止めた。
名を呼ばれることが、こんなに大きなことだとは思わなかった。家では「エリアナ」と呼ばれる時、多くは命令の前だった。カインの呼び方には、都合のよい優しさが混じっていた。
けれど、アレクシスは呼ぶ前に許可を取る。
彼女は石板に書いた。
『私的な時なら。業務中は、今まで通りで』
「承知しました」
『私も、私的な時はアレクシスと呼んでもいいですか』
彼は一瞬だけ表情を崩した。
「はい」
その短い返事に、エリアナの頬が熱くなる。名前は声の形をした距離だ。近づく時も、勝手に奪ってはいけない。
午後、王立施療院の名簿確認では、婚約の噂を聞いた看護師たちが祝いの言葉をくれた。エリアナは筆談で礼を返す。誰も「楽師長の奥方になるのなら仕事を減らすのか」とは言わなかった。代わりに、施療院の主任が言った。
「婚約後の契約更新時、緊急依頼の連絡先を二重にしますか。本人宛と礼拝堂宛で」
仕事の話だった。
エリアナは安堵した。婚約しても、彼女の職務は誰かの付属物にならない。変わるのは連絡先や生活の段取りであって、声の持ち主ではない。
夜、アレクシスと庭を歩いた。私的な散歩は、月二回の約束の一回目として記録されている。
「エリアナ」
彼が名前を呼んだ。
エリアナは息を止め、それから小さく笑った。痛くない。怖くないとは言えない。けれど、逃げたい呼び方ではなかった。
「はい、アレクシス」
短い声を出すと、彼はすぐに心配そうに見る。
「休声時間は」
「今のは、私的な返事です」
言ってから、自分で驚いた。声を使いたくて使った。業務でも、命令でも、謝罪でもない。
アレクシスは静かに微笑んだ。
「では、私的な返事として受け取ります」
手帳にはその夜、こう書いた。
『婚約者になっても、余白は別々。だから隣に書ける』




