第三十一話 私の婚約式の祝歌は、私の名で歌います
西礼拝堂の春祭りは、小さな鐘の音から始まった。
王都十二鐘の分散管理が始まって半年。ベルフォード家の事件は、まだ完全に過去になったわけではない。過去記録の訂正は続き、未払い報酬の算定も終わっていない。父グラードは公的な鐘管理から退き、侯爵家は以前ほどの力を失った。メリッサは婦人会の寮へ移り、朗読係として働き始めている。
エリアナは、西礼拝堂の契約詠唱士として春祭りの名簿を確認していた。
発声予定は二節。
一節は春祭りの始鐘。もう一節は、彼女自身の婚約式の祝歌。
婚約相手は、アレクシス・ローヴェ。
その文字を名簿で見るたび、エリアナはまだ少し頬が熱くなる。
「たぶん」から始めた恋は、月二回の散歩、三度の意見の食い違い、二度の休声日延期、何冊もの筆談を経て、ようやく婚約という形になった。急がなかった。甘い言葉だけで進めなかった。契約書とは別に、私的な約束を書き、互いに修正し、迷った時は保留にした。
だからこそ、今ははっきり言える。
この人と、同じ鐘のそばで生きたい。
婚約式の前、エリアナは練習室で声名札を手にした。銀札はもう、恐怖の震えを持っていない。机には母の木札の写し、喉の手帳、契約詠唱士の認定証、青い肩掛けが並んでいる。
リディアが花を持って入ってきた。
「エリアナ様、メリッサ様がお見えです」
メリッサは朗読係の灰青の服で現れた。手には小さな紙束がある。
「今日の式、私が誓約文の朗読を担当してもいい?」
エリアナは微笑んだ。
『依頼書は』
メリッサは胸を張って差し出した。
「ちゃんと書いた。料金は婦人会の相場を参考にしました」
エリアナは書類を確認し、頷く。
『受けます。よろしくお願いします』
メリッサの目が潤んだ。
「お姉様の婚約式で、私の声を私の名で使えるなんて、思っていなかった」
『私も、自分の婚約式で自分の名で歌えるとは思っていませんでした』
二人は少しだけ笑った。
礼拝堂には、多くの人が集まっていた。薬師広場の少女と祖父、花市場の親方、靴職人通りの親方、見習い詠唱士たち、婦人会の人々、セラフィナ記録長、カインの姿も後方にあった。彼は正式な名誉回復文を提出し、今日は一人の参列者として来ている。
父は来なかった。
招待状は送った。来るかどうかは彼の選択だった。エリアナは、それでよいと思った。出席しないことも、今日の記録の一部だ。
式は、春祭りの始鐘から始まった。
エリアナが一節を歌う。西礼拝堂の小鐘、王立施療院の柔らかい鐘、花市場の明るい鐘が応じる。王都十二鐘は、もう一人の喉に戻ってこない。分かれて、支え合い、春の空へ広がった。
その後、メリッサが誓約文を朗読した。
「アレクシス・ローヴェは、エリアナ・ベルフォードの声、仕事、休声、沈黙を本人のものとして尊重します」
彼女の声は少し震えていたが、噛まなかった。
「エリアナ・ベルフォードは、アレクシス・ローヴェの仕事、沈黙、迷い、選択を本人のものとして尊重します」
エリアナはアレクシスを見た。
彼はいつものように、急がせない目で待っている。手を取る前に、ほんの少し視線で確認する。それが彼らしい。
セラフィナが誓約登録を確認した。
「両名、同意確認を」
アレクシスが言う。
「同意します」
エリアナは喉の状態を確かめた。痛みはない。緊張はある。だが、それは怖さだけではない。
「同意します」
自分の声で言えた。
そして、婚約式の祝歌。
かつて父は、妹の名で歌えと言った。カインは、君の声は尊いが表に出るには向かないと言った。メリッサは、幕の裏で歌ってくれたら皆が喜ぶと言った。
今日は違う。
幕はない。
名義のすり替えもない。
発声上限と休声時間は式次第に書かれている。祝歌の後、拍手ではなく静かな礼をすることも、参列者へ事前に伝えられている。
エリアナは声名札を掌に置く。
母の木札は祭壇脇にある。歌った日だけでなく、休む日も記録するために。
息を吸う。
祝歌は、短かった。
華やかに技巧を見せる歌ではない。二人の名を誓約箱へ運び、西礼拝堂の小鐘へそっと結ぶ一節。アレクシスが彼女を所有しないこと。彼女が彼のそばに自分の足で立つこと。声を使う日も、休む日も、同じ名簿に残ること。
そのすべてを、無理のない長さで歌った。
小鐘が鳴る。
りん。
誓約箱の金の縁取りが浮かび、二人の名が記録される。
『エリアナ・ベルフォード』
『アレクシス・ローヴェ』
エリアナの名は、誰の影にも隠れていなかった。
歌い終えると、広間は静かに頭を下げた。拍手はない。彼女の喉を守るための沈黙だった。その沈黙が、どんな喝采よりも温かい。
アレクシスが水杯を差し出す。
「休声時間に入ります、エリアナさん」
エリアナは受け取り、石板に書く。
『婚約者になっても、そこは変わらないのですね』
「変えません」
彼の答えに、エリアナは笑った。
メリッサが式の記録を読み上げる。
「祝歌、エリアナ・ベルフォード本人名義。発声一節。過負荷なし。休声へ移行」
その一文を聞いた時、エリアナは胸の奥で、長く沈黙していた何かがほどけるのを感じた。
ベルフォード家の祝鐘は、もう王都の基点ではない。父の由緒も、カインとの婚約も、妹名義の祝歌も、彼女を縛らない。
それでも、彼女の声は残っている。
誰かのために使わないのではない。誰かの名を飾るために消えるのではない。自分の同意で、必要な場所へ、必要な長さだけ届く声として。
春祭りの空に、王都の鐘が重なった。
エリアナはアレクシスの手を取った。今度は、彼が先に確認する前に、自分から。
声は休んでいる。
けれど、彼女の沈黙はもう罰ではない。
自分の名で歌い、自分の名で休み、自分の名で愛するための、穏やかな余韻だった。




