第三十話 ベルフォードの祝鐘を、私は父のためではなく母の記録で直す
ベルフォード家祝鐘の修復依頼は、聖務院名義で来た。
管理権を失った後も、祝鐘そのものは礼拝堂に残っている。公的基点としては使われないが、家の私的な祈りや、過去記録の訂正には必要だった。鐘舌の傷みと誤接続の焦げ跡を直し、母セシリアの休声木札を正式な位置へ戻す作業が決まった。
依頼書には、父の署名もあった。
ただし、依頼者欄の主は聖務院。父は所有者として修復許可を出しただけだ。料金はベルフォード家が支払う。発声者名義はエリアナ本人。発声上限は一音。作業は鐘楼職人と西礼拝堂の分担。
エリアナは依頼書を読み、長く考えた。
あの礼拝堂へもう一度入る。
父の命令ではなく、母の記録を戻すために。
怖さはある。けれど、避け続ければ、あの場所は父の怒声のまま残る。母と磨いた鐘紐も、幼い自分の踏み台も、父の言葉だけに占領されたままになる。
アレクシスが聞いた。
「受けますか」
エリアナは石板に書いた。
『受けます。ただし、父との直接会話はしません』
「条件に入れましょう」
修復の日、ベルフォード家の礼拝堂は以前より静かだった。花も客もない。祭壇の白布だけが新しく替えられている。父は奥の席に座っていたが、聖務院の警備司祭が間に立ち、彼が近づくことを禁じている。
エリアナは彼を見ないようにした。
見れば、まだ胸が痛む。謝罪書を受け取っても、父の顔がすぐに安全になるわけではない。
ネイトと花市場の親方が、鐘舌を外して状態を確認する。
「焦げは浅い。無登録札を強く結んだ時に出たものだな」
親方は渋い顔をした。
「鐘は道具だが、乱暴に扱えば拗ねる。持ち主が偉いからって、金属は従わん」
エリアナは少しだけ笑った。
祈祷台の奥から、母の木札が出される。正式な写しではなく、実物だ。薄い木片は傷んでいたが、文字は残っている。
『セシリア・ベルフォード 休声日』
エリアナはそれを受け取り、指でそっとなぞった。
母が触れたかもしれない木。父に隠された木。今、聖務院の記録のもとで表へ戻る。
セラフィナが宣言する。
「ベルフォード家祝鐘運用台へ、休声木札を復帰します。以後、発声日、休声日、代替手段を記録すること」
木札が祈祷台の表に掛けられた。
その瞬間、礼拝堂の空気が少し変わった気がした。大きな音はない。だが、長く塞がれていた窓が細く開いたような感覚。
エリアナの一音は、最後に必要だった。
鐘舌が戻され、誤接続が解除され、母の木札が掛けられた後、祝鐘が正しい響きを覚えているか確認するための音。
父が奥で身じろぎした。
エリアナは振り返らない。
これは父のための音ではない。ベルフォード家の由緒を取り戻すためでもない。母の記録と、幼い自分の記憶と、これからこの鐘を無理なく使う人のための確認音だ。
息を吸う。
一音。
祝鐘が鳴った。
以前のような、王都に先んじる誇らしい響きではない。もっと小さく、控えめで、少し傷の残る音だった。だが、澄んでいた。無理をしていない音。誰かの名を消して鳴るのではなく、記録の上で鳴る音。
エリアナはすぐに発声を止めた。
セラフィナが記録する。
「修復確認音、エリアナ・ベルフォード。一音。過負荷なし。祝鐘、私的使用可能。ただし公的基点使用不可」
父が低く言った。
「……鳴ったのだな」
エリアナは答えなかった。条件通り、直接会話はしない。
セラフィナが代わりに言う。
「鳴りました。ですが、あなたの管理権が戻ったわけではありません」
父は黙った。
彼が何を思ったのか、エリアナには分からない。分からなくていいと思った。父の心まで直す仕事は、彼女の契約に入っていない。
礼拝堂を出る前、エリアナは幼い頃の踏み台に触れた。木は古び、角が丸くなっている。
母の声が、記憶の中で聞こえた。
『届くまで待たなくていい。今の声で鳴る鐘を探しなさい』
エリアナは石板ではなく、手帳に書いた。
『お母様。私は今の声で鳴る鐘を見つけました。西礼拝堂です。でも、この鐘も、もう誰かの名を消して鳴る必要はありません』
外へ出ると、アレクシスが待っていた。
「帰りますか」
エリアナは頷いた。
帰る場所は、もうこの屋敷ではない。
けれど、ここに残した痛みの一部は、母の木札とともに正しい場所へ戻せた。




