第二十話 西礼拝堂への嫌がらせは、小さな鐘の列で止まる
法院の決定から三日後、西礼拝堂への寄付が二件取り消された。
どちらもベルフォード侯爵家と付き合いの深い貴族だった。理由は「礼拝堂の運営方針に疑義があるため」。同じ日に、礼拝堂前の掲示板には、誰かが書いた紙が貼られた。
『家を裏切る娘を聖堂に置くな』
リディアがそれを見つけ、顔を真っ赤にした。
「ひどい。すぐ剥がします」
エリアナは紙を見つめた。
家を裏切る娘。
父が好みそうな言葉だ。実際に父が書かせたかどうかは分からない。だが、彼の考えを受け取った誰かが、正義のつもりで貼ったのだろう。
胸が痛む。分かっている。法院で勝っても、噂はすぐ消えない。書類は彼女を守るが、人の視線まですぐに温めるわけではない。
アレクシスは紙を剥がす前に、記録用の写しを取った。
「嫌がらせは、証拠にしてから処分します」
リディアは怒ったまま頷いた。
その日の朝祈りには、いつもより少ない人しか来なかった。貴族の席は空いている。寄付を気にしたのか、職人や町人の中にも遠慮している人がいた。
エリアナは祭壇脇に立ち、喉の状態を確認する。今日の発声は半節。小さな朝の祈りだ。だが、空席が目に入ると胸が沈む。
自分がここにいるせいで、西礼拝堂に迷惑がかかっているのではないか。
そう思った瞬間、父の声が頭の中で響いた。
お前のせいで家の恥が広がった。
エリアナの息が乱れた。
アレクシスがそばに来る。
「中止しますか」
彼は迷わずそう聞いた。人が少なくても、多くても、彼にとって最初の確認は彼女の状態だった。
エリアナは目を閉じた。
逃げたい。けれど、今日ここへ来た人がいる。迷子の兄妹、薬師広場の少女、鐘金具を磨く職人。彼らは貴族の寄付で席を選んだのではない。
彼女は首を横に振った。
半節だけ歌う。
朝の祈りは、広い礼拝堂に満ちるほどではなかった。けれど、空席を数えるための音でもなかった。来た人のところへ届くように、低く、柔らかく置いた。
祈りが終わると、拍手はない。代わりに、薬師広場の少女が小さな包みを受付に置いた。中には喉に良い乾燥梨と手紙が入っていた。
『おじいちゃんが眠れました。寄付は少しだけですが、続けてください』
続いて、靴職人通りの親方が古い鐘紐を持ってきた。
「金は大して出せないが、直せるものなら直す」
パン屋の妻は蜂蜜パンを籠で届けた。
「声を使う人は食べなきゃね。これは寄付じゃなくて、朝の余りだよ」
余り、と言いながら、籠は温かかった。
昼までに、礼拝堂の前には小さな列ができた。高額な寄付ではない。銅貨、薬草、修理道具、洗った布、祈りの依頼書。王都十二鐘が戻ってから助かった人々が、少しずつ持ち寄ったものだった。
リディアは泣きながら帳面をつけている。
「全部、記録します。誰が何をくださったか、全部」
エリアナは胸が詰まった。
ベルフォード家の大きな寄付が消えても、小さな鐘のような助けが集まる。ひとつでは豪華な鐘にならない。けれど、いくつも重なれば礼拝堂を支える音になる。
夕方、嫌がらせの紙を貼った男が見つかった。ベルフォード家の下働きではなく、侯爵家に出入りする商会の若者だった。彼は取り調べで、「侯爵家のためになると思った」と言った。
セラフィナ記録長は冷たく告げた。
「侯爵家のために、聖堂業務を妨害した記録として残します」
若者は青ざめた。
父は直接命じていないと主張するだろう。だが、彼の言葉が周囲にどう響き、何をさせるかもまた記録される。
夜、西礼拝堂の会計机で、アレクシスは寄付帳を確認していた。
「大口寄付二件の取り消し分は、しばらく厳しいですね」
エリアナは石板に書く。
『私が原因です』
アレクシスはすぐに首を横に振らなかった。慰めだけなら簡単だった。彼は帳面を見て、現実を認めた上で言う。
「あなたを置くことで、礼拝堂に負担は出ています。ただし、あなたを置くと決めたのは礼拝堂です。負担を理由にあなたへ罪悪感を押しつけるなら、それは契約違反です」
『契約違反』
「はい。あなたは原因ではなく、関係者です。関係者には、責任だけでなく権利もあります」
エリアナはその言葉を手帳に書き写した。
原因ではなく、関係者。
父はいつも、問題の原因を彼女にした。鐘が鳴らなければエリアナの不足。式が壊れればエリアナの我儘。家名が傷つけばエリアナの裏切り。
けれど、ここでは違う。
問題には複数の手がある。複数の責任がある。だから、複数の支えも集まる。
翌朝、西礼拝堂の小鐘はいつもより少し明るく鳴った。
鐘紐は靴職人通りの親方が直し、鐘舌は薬師広場の少女の祖父が磨き、祈りの後の蜂蜜パンはパン屋の妻が届けた。
エリアナ一人の声ではない。
小さな鐘の列が、嫌がらせの紙よりずっと強く礼拝堂を支えていた。




