第十八話 父は家の名で、私の声を取り戻す命令を出した
ベルフォード侯爵家は、聖務院ではなく貴族法院へ訴えを出した。
名目は「家産保全命令」。未婚の侯爵令嬢であるエリアナが、家の重要資産である祝鐘管理技術を持ち出し、家名を傷つけている。よって、父グラード・ベルフォードの監督下へ戻すべきだという内容だった。
書類を読んだ瞬間、エリアナの手から筆が落ちた。
家産。
また、その言葉だ。
声名札だけでなく、技術、祈り、喉、仕事の記録まで、父は家の資産として取り戻そうとしている。婚約式が失敗し、聖務院で不備を問われ、始鐘式で基点管理を失っても、彼はまだ同じ考えから出ていなかった。
アレクシスは落ちた筆を拾い、机に置いた。
「まず呼吸を。返答は今日中でなくていい」
エリアナは首を振った。声は出せない。出せば震える。
石板に書く。
『戻されたら、どうなりますか』
「命令が認められれば、あなたの居住地と業務は父君の監督下に置かれる可能性があります。ただし、声名札の本人保管規則と聖務院の保護義務違反調査がある。簡単には通りません」
『簡単ではなくても、通る可能性があるのですね』
アレクシスは誤魔化さなかった。
「あります。だから、こちらも準備します」
怖かった。
家を出た時の恐怖とは違う。あの時は、扉の外へ出れば、とにかく一歩進めた。今回は、出た後に作った居場所ごと引き戻されるかもしれない恐怖だった。練習室の鍵、休声札、手帳、青い肩掛け。やっと自分のものになり始めた小さな生活が、父の書類一枚で奪われるかもしれない。
セラフィナ記録長が呼ばれ、西礼拝堂で緊急の対策会議が開かれた。
「貴族法院では、家の名誉や未婚令嬢の保護が重く見られます」
セラフィナは書類を並べる。
「こちらは、エリアナ殿が保護されるべき対象ではなく、すでに契約能力を持つ専門職であることを示す必要があります。また、父君の監督が保護ではなく過負荷と無断使用につながった証拠を提出します」
提出書類は多かった。西礼拝堂との契約書、日払い記録、喉の診断書、王都十二鐘の始鐘式記録、母セシリアの休声木札、メリッサの証言書、カインとの婚約未処理記録。
エリアナはその一覧を見て、少し息が楽になった。
彼女一人の「嫌です」だけではない。これまで積み重ねた記録が、彼女を戻すなと告げている。
けれど、父は記録だけで止まる人ではなかった。
翌日、貴族法院の予備審問で、彼は堂々と言った。
「娘を守るためです。エリアナは気弱で、他人に影響されやすい。西礼拝堂の者に利用され、家を攻撃している。父として、娘を正しい場所へ戻したい」
正しい場所。
その言葉に、エリアナの喉が詰まった。
法院の席は高い。貴族の紋章が壁に並び、傍聴席には噂好きの貴婦人や貴族たちがいる。ここで震えれば、父の言葉が本当だと思われるかもしれない。
アレクシスは隣にいるが、何も言わない。セラフィナも記録を整えている。二人とも、エリアナの代わりに最初の言葉を取らなかった。
彼女は自分で立たなければならない。
裁判官が問う。
「エリアナ・ベルフォード。あなたは父君の監督下へ戻る意思がありますか」
短い問い。
だが、その中にこれまでのすべてが詰まっている。
喉を使うべきか迷った。筆談でもよい。けれど、父は彼女を気弱で影響されやすいと言った。だから今回は、自分の声で否定したかった。
息を吸う。
「ありません」
声は大きくない。だが、法院の石壁に届いた。
父の顔が歪む。
裁判官は続ける。
「理由を」
エリアナは石板を使った。声は一言で十分だ。理由は記録で示す。
『父の監督下では、私の声は本人同意なく他者名義で使用されようとしました。未成年時から休声記録が残されず、喉の過負荷がありました。現在、私は西礼拝堂と契約し、王都聖務院の依頼を受ける詠唱士です。戻ることは保護ではなく、再び無断使用される危険を意味します』
セラフィナが読み上げる。
傍聴席が静まり返った。
父は反論した。
「家のために育てた声を、家が使うのは当然だ。娘は恩を忘れている」
エリアナは唇を噛まなかった。鉄の味で自分を落ち着かせる必要は、もうない。
アレクシスが提出した診断書を、裁判官が見る。
「喉の炎症、慢性的過使用の疑い。休声不足。これは父君の監督下で生じたものですか」
エリアナは頷いた。
父の声が低くなる。
「大げさだ。歌い手なら誰でもその程度は」
その時、傍聴席から婦人会長の老婦人が立ち上がった。
「その程度、とおっしゃるなら、王都の娘たちを誰も祝鐘へ出せませんわね」
裁判官が注意しようとしたが、老婦人は座る前に続けた。
「声を家産と呼ぶ父君のもとへ戻すことが保護だとは、到底思えません」
小さなどよめきが広がる。
予備審問の結論は、即日では出なかった。だが、裁判官は暫定命令を出した。
「本命令の審理中、エリアナ・ベルフォードの居住地変更を強制してはならない。声名札は本人保管を継続。ベルフォード侯爵家による直接命令を禁じる」
エリアナはその場で力が抜けそうになった。
完全勝利ではない。だが、戻されなかった。
西礼拝堂へ帰る馬車の中で、彼女は手帳に一行を書いた。
『私は戻らないと、声で言えた』
アレクシスはそれを見て、静かに言った。
「今日は、その一言で十分です」
エリアナは頷き、青い肩掛けを喉元へ寄せた。
父の命令はまだ終わっていない。けれど、彼女の拒絶もまた、正式な記録になった。




