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第十六話 休声日の市場で、恋はまだ契約にならない

 始鐘式の翌日は、完全休声日だった。


 予定表には、赤い線で「発声禁止」と書かれている。病床祈りも、小鐘調律も、面会返答もない。練習室の扉には休声札が掛けられ、リディアは階下で「本日エリアナ様は声を使いません」と何度も説明してくれた。


 何もしない日。


 それが、エリアナには難しかった。


 朝、目が覚めた瞬間から、何かを忘れている気がする。鐘の下練習。父への報告。式の準備。歌い手としての役目。体が長年の習慣で、仕事を探してしまう。


 アレクシスは朝食の席で、彼女の前に紙を置いた。


『本日の業務。休む。市場で喉に悪くない食材を買う。帰ったら昼寝』


 エリアナは思わず眉を上げた。


 アレクシスは真面目な顔をしている。


「休むだけだと罪悪感が出る人には、休息を業務表に書くのが有効です」


 エリアナは石板に書く。


『昼寝も業務ですか』


「重要業務です」


 その言い切り方がおかしくて、声を出さずに笑った。


 市場へ行くのは久しぶりだった。家にいた頃、買い物は侍女の仕事で、エリアナが自分で選ぶものは少なかった。服も、薬草も、喉飴も、父や家令が決めた。必要なものではなく、家の見栄に合うものが優先された。


 今日は自分の銀貨を持っている。


 薬草屋の店先で、エリアナは蜂蜜、乾燥梨、喉を温める根菜を選んだ。店主は始鐘式を見ていたらしく、声をかけてきた。


「昨日の鐘、よく鳴ったねえ。今日は話さなくていいよ。詠唱士さんは喉を休めな」


 そう言って、店主は品物の名を紙に書いて見せた。


 エリアナは胸が温かくなった。


 王都の人々が、少しずつ彼女を「話さなくてもよい人」として扱ってくれる。沈黙を不機嫌や高慢ではなく、仕事の一部として理解してくれる。


 布屋では、青い薄手の肩掛けを見つけた。西礼拝堂の練習室は朝晩冷える。喉を守るには首元を冷やさないほうがいい。値段は少し高い。


 エリアナは迷った。


 自分のために、必要以上にきれいなものを買っていいのだろうか。家では、彼女の衣装は式の裏方として目立たないものが多かった。華やかな色はメリッサのもの。エリアナは、便利で地味なものを選ぶ癖がついている。


 アレクシスは何も言わず、隣で待った。


 勧めない。買ってやるとも言わない。ただ、彼女が迷う時間を奪わない。


 エリアナは石板に書く。


『似合うでしょうか』


 アレクシスは少しだけ視線を逸らし、それから答えた。


「似合います。ですが、似合うかより、あなたが使いたいかを先に考えてください」


 エリアナは肩掛けに触れた。柔らかく、軽い。首元に当てても刺激が少ない。青は派手ではないが、沈んでもいない。


 自分が使いたい。


 そう思った。


 銀貨を払う時、手が少し震えた。だが、買った後は不思議な満足があった。誰かの式のためではない。誰かの評価のためでもない。自分の喉と体を守るための、少しきれいなもの。


 市場の帰り、アレクシスは荷物を一部持ってくれた。


 エリアナは石板に書く。


『全部持つと言わないのですね』


「あなたが持てる分まで奪うと、親切ではなく管理になります」


 言われた瞬間、足が止まった。


 親切と管理。


 その境目を、彼はいつも見ている。父は守ると言いながら管理した。カインは心配すると言いながら戻そうとした。アレクシスは手を貸すが、持てる分まで奪わない。


 エリアナは、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 これは恋だろうか。


 そう考えた途端、頬が熱くなった。家を出て間もない。婚約の傷も消えていない。彼に感謝しているのか、信頼しているのか、それ以上なのか、分からない。


 アレクシスが気づいたように視線を向ける。


「疲れましたか」


 エリアナは慌てて首を振り、石板に書いた。


『考え事です』


「なら、帰ってから書き出すといい。声にしなくて済みます」


 恋かもしれない考え事を、業務改善のように扱われて、エリアナはまた笑いそうになった。


 西礼拝堂へ戻ると、リディアが青い肩掛けを見て目を輝かせた。


「エリアナ様、とてもお似合いです」


 エリアナは石板に『ありがとう』と書く。


 その夜、予定表どおり昼寝ならぬ夕寝をした。目覚めると、窓の外では西礼拝堂の小鐘が鳴っている。誰かがエリアナの代わりに、きちんと調律していた。


 自分が休んでも、世界は壊れない。


 その事実は、少し寂しく、同時に大きな救いだった。


 手帳を開き、今日の記録を書く。


『発声なし。痛み少し。青い肩掛けを買う。アレクシス様は、親切と管理を分ける人』


 最後の一文を読み返して、頬が熱くなる。


 恋はまだ契約書にならない。


 けれど、エリアナは初めて、自分の未来の欄に誰かの名を書いても怖くないかもしれないと思った。

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