第十三話 オルレアン伯爵家は、婚約を値札で量り始めた
オルレアン伯爵家から届いた書面は、香水の匂いがした。
封を切る前から、エリアナは眉をひそめた。喉を痛めてから、強い香りが苦手になっている。西礼拝堂では、練習室に香水を持ち込まない規定がある。だが貴族の手紙には、相手への配慮よりも家の趣味が先に立つことが多い。
アレクシスはすぐに窓を開けた。
「読む前に、少し換気しましょう」
その何気ない動作に、エリアナは胸が緩む。手紙の内容より先に、彼女の喉を気にしてくれる人がいる。
書面は、伯爵夫人名義だった。
『エリアナ嬢の声名札騒動により、我が家は多大な名誉損失を被りました。つきましては、ベルフォード侯爵家との婚約を改めて整理し、エリアナ嬢とカインの再婚約を検討する余地があります。ただし、今後は感情的行動を慎み、祝鐘管理に協力することを条件とします』
エリアナは読み終え、そっと紙を置いた。
再婚約。
まるで棚から落とした品を拾い直すような言い方だった。自分が望むかどうかは問われていない。ベルフォード家との結びつきに不利益が出たから、使いやすい長女へ戻す。伯爵夫人の文面は丁寧だが、そこにある考えは父と同じだった。
リディアが隣で怒った顔をした。
「失礼です。エリアナ様を何だと思っているんでしょう」
エリアナは石板に書く。
『たぶん、便利な解決策です』
書いた自分で、胸が痛くなった。
便利な娘。便利な声。便利な元婚約者。家と家の都合が絡まるたび、自分は便利な場所へ置かれてきた。
アレクシスは伯爵夫人の書面を、面会記録の横に置いた。
「返答の前に、法的な確認をしましょう。再婚約を打診するなら、まず前の婚約解消が正式に処理されている必要があります」
『まだ処理されていないのですか』
「婚約式が成立しなかったため、メリッサ嬢との婚約は未登録です。一方、あなたとの婚約解消はベルフォード家内の通達のみで、聖務院には正式な相互同意書が出ていません」
エリアナは目を閉じた。
つまり、彼女は書類上、曖昧なまま放置されていた。カインは妹へ移り、父はそれを当然とし、社交界では噂が流れた。だが、正式な解除も、慰謝料も、説明もない。
曖昧さは、また誰かの都合になる。
彼女は便箋を取った。
『オルレアン伯爵家へ。再婚約の検討以前に、カイン・オルレアン卿とエリアナ・ベルフォードの婚約関係について、正式解消書、理由説明書、名誉回復書、慰謝料支払い予定表を提出してください。提出なき再婚約打診は受理しません』
書いてから、もう一文を足した。
『また、今後私の声名札を婚姻交渉の条件として扱うことを禁じます』
筆先が紙から離れた瞬間、指が震えた。禁じます、と書いた。伯爵家へ。かつて嫁ぎ先になるはずだった家へ。
アレクシスは書面を確認し、うなずいた。
「明確です」
『きつすぎませんか』
「いいえ。相手はあなたの人生と声を、同じ交渉卓に置こうとした。分ける必要があります」
その日の午後、カイン本人が再び来た。
今度は面会簿に用件を書いた。「婚約整理について」。リディアがそれを読み、無表情で面会室へ案内する。エリアナは同席者としてセラフィナ記録長の書記を呼んだ。
カインは書記を見て苦笑した。
「何もかも記録にするんだね」
エリアナは石板に書く。
『記録がないと、私の不利益になります』
「君は僕を信用していない」
『信用できる書類を出してください』
カインは黙った。
彼は以前より疲れて見えた。メリッサとの婚約が成立せず、エリアナとの過去も掘り返され、伯爵家の中で責められているのだろう。だが、それは彼自身が選んだ結果でもある。
「僕は、君を嫌いになったわけではない」
その言葉は、昔なら胸に刺さったかもしれない。愛しているとは言わない。嫌いではない。曖昧で、優しく、責任のない言葉。
エリアナは返答を書いた。
『私も、あなたを憎み続けるために時間を使いたくありません。だから書類で終わらせたいのです』
カインは苦しげに目を伏せた。
「メリッサは、僕との婚約を続けたくないと言い始めた。君まで拒むなら、僕は両家から責められる」
『私を戻せば責められずに済むのですか』
「そういう意味では」
『そういう意味に聞こえます』
面会室に沈黙が落ちた。
カインは窓の外を見た。西礼拝堂の小さな庭では、鐘楼職人が古い金具を磨いている。華やかな伯爵家の客間とは違う。だが、ここには人の手と仕事の匂いがある。
「君は、ここで本当に幸せになれるのか」
エリアナはすぐには書かなかった。
幸せ。まだ、その言葉を大きく掲げるほど回復していない。家を出て数日。傷は残っている。喉も痛む。父の手紙を見ると、指先が冷える。
けれど。
『少なくとも、私の同意を聞かれる場所です』
カインはその文字を長く見つめた。
やがて、小さく言った。
「僕は、君に聞かなかったんだな」
謝罪に近い言葉だった。だが、まだ謝罪そのものではない。
エリアナは頷かなかった。慰めもしなかった。ただ、正式書面の一覧を差し出す。
カインはそれを受け取り、立ち上がった。
「分かった。伯爵家と話す」
面会記録には、こう残された。
『婚約解消手続きについて、カイン・オルレアン卿、必要書類の提出を了承』
感情は複雑だった。
それでも、エリアナはその一行を見て、初めて過去の婚約に出口ができたと感じた。




