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第十一話 母の休声木札は、父の嘘を鳴らした

 母セシリアの休声木札は、聖務院へ持ち帰られた。


 薄い木片に刻まれた日付は、百以上あった。春の長雨の日、冬の葬送が続いた週、出産後の回復期。母は歌えなかった日を隠していなかった。むしろ、歌わない日をきちんと残すことで、次に歌う時の喉を守っていた。


 エリアナは記録室の机に座り、木札の写しを見つめた。


 母が亡くなったのは、エリアナが十歳の時だ。病弱だったと父は言った。祈りの仕事に誇りを持っていたが、体が弱かった、と。エリアナは長い間、それを信じていた。


 けれど木札を見る限り、母は自分の体を丁寧に管理していた。


「セシリア夫人は、優れた詠唱士だったようですね」


 セラフィナ記録長が、古い台帳をめくりながら言った。


「発声日、休声日、鐘の状態、喉の痛み、使用した薬草。記録が細かい。今の聖務院基準に近いほどです」


 エリアナは石板に書く。


『父は、母が弱かったと言っていました』


「弱さを知っていたから、強い記録を残せたのでしょう」


 その言葉が胸に刺さった。


 強い人とは、無理をしない人なのかもしれない。少なくとも母は、喉を削って倒れることを美徳にはしなかった。休む日を木札に刻み、後から誰かが勝手に消せないようにした。


 アレクシスが別の紙束を運んできた。


「ベルフォード家から提出された過去十年分の業務帳です。かなり抜けがあります」


 業務帳には、父の筆跡で「家内詠唱」「通常通り」「問題なし」とばかり書かれていた。エリアナが熱で倒れた週も、葬送が三件続いた日も、記録上は問題なし。


 問題なし。


 その二文字の下に、どれだけの咳と血の味が押し込められていたのだろう。


 セラフィナは眉をひそめる。


「声名札管理者が休声記録を残さないのは、重大な不備です。特に未成年の詠唱者の場合、保護義務違反の可能性があります」


 保護義務。


 エリアナは、その言葉をしばらく理解できなかった。父は自分を使う権利だけを語った。守る義務について聞いたことはない。


 アレクシスが静かに言った。


「あなたは、家の道具ではありませんでした。未成年の頃から、守られるべき働き手でした」


 その瞬間、目から涙が落ちた。


 泣くつもりはなかった。聖務院の記録室で、契約書や台帳の前で泣くのは恥ずかしいと思った。けれど、涙は止まらなかった。


 守られるべきだった。


 誰かにそう言われた途端、幼い頃の自分が胸の奥で泣き出した。熱を出しても鐘楼へ向かった朝。喉が痛くてパンを飲み込めなかった夜。父に「侯爵家の娘なら耐えなさい」と言われ、耐えたことを誇りだと思い込もうとした日々。


 母が生きていたら、と考えてしまう。


 母は守ろうとしていた。休声木札がその証拠だった。


 エリアナは涙を拭き、石板に書く。


『母は、なぜこの木札を祈祷台の奥に隠したのでしょう』


 アレクシスは木札の縁を見た。


「隠したというより、外された後に押し込まれた可能性があります。穴の位置が、もともと祈祷台の表に掛ける形です」


 父が外したのだ。


 休む日を表に出した母の木札を、父は奥へ押し込めた。歌った成果だけを家の由緒にして、休む権利を隠した。


 胸の中で、何かが静かに燃えた。


 怒鳴りたい怒りではない。もっと冷たく、長く燃える怒りだった。


 その日の夕方、ベルフォード家から三度目の使者が来た。持ってきたのは、父の署名入りの「謝罪書案」だった。


『エリアナの若気の至りにより式典に混乱が生じたが、家として寛大に受け止める。今後は家の指導の下、適切に声を用いることを望む』


 エリアナは読み終えると、静かに紙を伏せた。


 謝罪書ではない。父の体面を守るための、別の命令書だ。


 リディアが心配そうに聞く。


「お返事、どうしますか」


 エリアナは声を出さず、正式な訂正文の書式を取り出した。


『謝罪書として不適格。以下の文言を求めます。一、エリアナ・ベルフォードの声を本人同意なく他者名義で使用しようとしたこと。二、過去の詠唱記録に不備があったこと。三、休声記録を怠り喉を損なわせたこと。四、婚約者変更における本人への説明と補償が不十分であったこと』


 書きながら、指先が震えた。


 だが、震えは恐怖だけではない。母の木札が、机の上で静かに支えてくれているようだった。


 アレクシスは返書の最後に、聖務院の規定番号を添えた。


「これで、感情ではなく正式な要求になります」


 エリアナは石板に書く。


『感情では、だめなのでしょうか』


 アレクシスは少し考えた。


「だめではありません。ただ、感情だけだと、相手はあなたを感情的だと片づける。だから記録を添えます。怒りを消すためではなく、怒りを守るために」


 怒りを守る。


 その言葉は、エリアナの中で新しい鐘のように響いた。


 父は彼女の怒りを我儘と呼ぶだろう。カインは穏やかさを求めるだろう。だが、記録があれば、怒りはただの叫びで終わらない。誰が何をしたのか、何が失われたのか、どう直すべきなのかを示す鐘になる。


 夜、エリアナは自分の手帳に母の木札の写しを挟んだ。


 そして一行を書いた。


『休んだ日も、私の記録』


 その日から、西礼拝堂の練習室の扉には、エリアナ自身の休声札が掛けられるようになった。


 父が隠した木札は、娘の部屋で再び表に出た。

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