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第十話 侯爵家の鐘楼へ、私は客として入る

 ベルフォード侯爵家の祝鐘調査は、聖務院の立ち会い付きで行われることになった。


 依頼ではない。調査だ。基点鐘管理者としての職務停止後、聖務院は祝鐘の状態確認を命じた。エリアナは参考詠唱士として同行する。発声は原則なし。必要な場合も一音のみ。契約書の余白には、アレクシスの字で「父君の命令による発声禁止」と明記されていた。


 屋敷の門の前に立つと、エリアナの足が止まった。


 生まれ育った場所だ。白い石の外壁、薔薇の門飾り、朝ごとに使用人が磨いた玄関扉。何度も通ったはずなのに、今日は見知らぬ家のように見える。


 違うのは、彼女が帰ってきた娘ではなく、聖務院の同行者として入ることだった。


 セラフィナ記録長が門番へ書類を示す。


「王都聖務院による基点鐘調査です。関係者以外の立ち入りは制限します」


 門番はエリアナを見て、困惑した。


「お嬢様……」


 その呼び方に、胸が痛む。けれど、エリアナは首を横に振った。


「本日は、参考詠唱士として参りました」


 短い声で言うと、アレクシスがすぐに砂時計を見せた。言えたことを認めるように、同時にそれ以上使わせないように。


 屋敷の中は慌ただしかった。祝鐘の沈黙が続いたせいで、使用人たちは客の苦情や聖務院からの通達に追われている。かつてエリアナが通ると目を逸らした侍女たちが、今日は何か言いたげに視線を向けてきた。


 父グラードは礼拝堂の入口で待っていた。


「ようやく戻ったか」


 その一言で、膝に力が入らなくなりそうだった。


 戻った。父の中では、まだそうなのだ。聖務院の書類も、西礼拝堂の契約も、彼には娘の反抗を飾る紙にしか見えていない。


 セラフィナが答えた。


「戻ったのではありません。調査に同行しています」


 父は彼女を無視し、エリアナへ視線を向けた。


「家の鐘を壊した責任を取れ。調査などと大げさにせず、いつものように一節歌えば済む」


 いつものように。


 その言葉の中に、どれほどの無理が詰められていただろう。高熱の日、葬送が続いた日、婚約式前夜に何度も下練習させられた日。父にとってはすべて「いつものように」だった。


 エリアナは石板に書いた。


『発声は調査手順に従います』


 父の顔が険しくなる。


「娘が父に石板で返事をするのか」


 アレクシスが静かに言った。


「詠唱士が喉を守るために筆談しています」


「君に口を挟む権利はない」


「あります。同行楽師長です」


 怒鳴り声にならないアレクシスの言葉は、不思議と場を押さえた。父は彼を睨んだが、聖務院の記録官たちがいる前でそれ以上は言えなかった。


 礼拝堂へ入ると、懐かしい匂いがした。蝋燭、磨かれた石、古い木の長椅子。祭壇脇には、幼い頃の踏み台がまだ置かれている。


 エリアナはそこから目を逸らし、祈祷台へ向かった。


 蓋を開けると、中の配列が変わっていた。エリアナの声名札を外した後、父はメリッサ用の新しい札を急いで置こうとしたらしい。だが、結びが甘く、鐘との響きが繋がっていない。銀紐の一部には、無理に繋ぎ替えようとして焦げた跡があった。


 セラフィナ記録長が眉をひそめる。


「これは、本人未登録札による接続試行ですね」


 父が言い返す。


「応急処置だ」


 エリアナは焦げ跡に指を近づけた。触れた瞬間、冷たい震えが爪先まで走る。鐘が怒っている、という表現は幼いかもしれない。だが、祝鐘は確かに混乱していた。誰の声を受ければよいか分からず、結び目の中で傷ついている。


 彼女は石板に書く。


『このまま歌えば、鐘の舌が割れます』


 父は鼻を鳴らした。


「鐘が割れるなど、脅しだ」


 その時、アレクシスが小槌で鐘舌を軽く叩いた。


 乾いた、ひび割れた音がした。


 礼拝堂にいた使用人たちが息を呑む。美しい祝鐘からは程遠い、欠けた皿のような音だった。


「脅しではありません」


 アレクシスは鐘舌を示す。


「無登録札の接続で、基準が乱れています。復旧にはまず、誤接続の解除、鐘舌の休ませ、正規登録者による確認が必要です」


「正規登録者はエリアナだろう。なら歌わせればよい」


「本人名義で、本人が同意すれば」


 父の額に青筋が浮く。


 エリアナは祈祷台の奥に、小さな木片を見つけた。銀札ではない。古い木の札だ。埃を被っているが、表に刻まれた文字は読めた。


『セシリア・ベルフォード 休声日』


 母の名。


 エリアナは息を止めた。


 木札の裏には、細かな日付が刻まれている。歌った日ではない。歌わなかった日。休んだ日。母が、自分の喉を守るために残した記録だった。


 なぜこれが祈祷台の奥に隠されていたのか。


 父がその木札を見た瞬間、顔を強張らせた。


「古いものだ。調査には関係ない」


 セラフィナは木札を受け取り、記録袋へ入れた。


「関係します。声名札の運用条件を示す証拠です」


 エリアナは母の木札が袋に入るのを見つめた。胸が痛い。けれど、同時に少しだけ温かかった。母は、自分の声を休ませる日も記録していた。歌えた日だけが価値ではないと、木札に残していた。


 調査の最後に、エリアナは一音だけ出した。


 歌ではない。鐘の状態を見るための短い確認音。


 祝鐘は鳴らなかった。ただ、奥のほうで微かに震えた。生きている。傷ついているが、完全に壊れてはいない。


 彼女は石板に診断を書く。


『復旧可能。ただし、誤接続の解除、過去記録の訂正、正規名義での再登録が必要。作業期間は三日以上。私一人での連続発声は禁止』


 父は悔しげに吐き捨てた。


「家の鐘を、人質に取るつもりか」


 エリアナは首を横に振った。


 そして、喉に負担をかけない短い声で言った。


「人質にしていたのは、お父様です。私の声を」


 礼拝堂に沈黙が落ちた。


 その沈黙は、以前のようにエリアナを押し潰さなかった。

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