第9話 神獣さまの名前が、まさかのポチでした
庭の真ん中でぺたんと平伏したまま、巨大な白狼は情けないお腹の音を鳴らしていた。
ぐうぅぅぅぅぅぅ……。
静かな夜の庭に響き渡る、あまりにも切実な飢餓の音。
首根っこを掴まれていた神獣フェンリシアは、紅蓮の瞳を潤ませ、屈辱に震えていた。
『ぐ……ぬ……! な、何たる不覚……! 数百年ぶりに目覚めた直後ゆえ、神気が枯渇していたところを……!』
「あらあら、やっぱりお腹が空いてたのね。お腹が空くとイライラして暴れちゃうのは、人間もワンちゃんも一緒よね」
私は首根っこを放し、よしよしとその銀白の頭を撫でてあげた。
窓際で固まっていたミーシャちゃんが、恐る恐る勝手口の扉を開けて顔を出す。
「あ、あの……お姉ちゃん……大丈夫なんですか……? その方、本当にものすごい神獣様みたいですけど……」
「大丈夫よ! ちょっとお腹が空いて甘えたかっただけみたい。ミーシャちゃん、キッチンから昨日の残りの特製ロースト肉を持ってきてくれる?」
「は、はいっ!」
ミーシャちゃんがパタパタと小走りで家の中へ戻り、大きなお皿に載ったお肉を運んできてくれた。
それは、猪の極上肉を『生活魔術・低温熟成&旨味凝縮焼き』でじっくり仕上げた、我が家の特製ローストだ。
ハーブの芳醇な香りと、したたる肉汁。皿が庭に出た瞬間、神獣の鼻先がピクピクと激しく動いた。
『な……なんだ、その芳香は……!? ただの獣肉から、神界の霊薬のごとき清浄な魔力と旨味が漂っておる……!?』
「ほら、お食べなさい。冷めないうちにね」
私が大皿を地面に置いて差し出すと、白狼はギリッと牙を鳴らした。
『ふ、ふん! 人間ごときが恵む餌など、神獣たる余が口にするはずが――』
「残したらお皿片付けちゃうわよ?」
『ハフッ! モグッ、ジュワァァァッ!!』
前言撤回、電光石火の早業で肉塊に食らいつく神獣。
そして――次の瞬間。
神獣の紅蓮の瞳から、ボロボロと滝のような大粒の涙が吹き出した。
『う、うみゃあぁぁぁぁぁぁぁっ……!!』
「鳴き声が猫っぽいわよ?」
『な、なんという美味……! 噛み締めた瞬間に溢れ出す肉汁、とろけるような脂の甘み、魔素の滓ひとつない完璧な浄化の味わい……! 太古の王が捧げたどんな供物すら、この肉の足元にも及ばぬわぁぁぁっ!』
がつがつ、むしゃむしゃ、ペロリ!
洗面器ほどもあった山盛りの特製肉が、ものの十秒で消え去った。
お皿までピカピカに舐め尽くした白狼は、満腹の吐息を漏らし、完全に骨抜きになった顔で床に突っ伏した。
神獣としての威厳もプライドも、生活魔術による至高の料理の前に跡形もなく粉砕されたのだ。
「ふふ、美味しかった? 綺麗に完食してくれてお利口さんね!」
私が満足げに頷くと、神獣はとろけた瞳で私を見上げ、そしてミーシャちゃんを見た。
『……満たされた……。余の魂の飢えが、完全に癒やされたぞ……。しかも、この肉を運んできた幼き娘……なんと清らかで深遠なる魔力を秘めているのだ……』
神獣の体が、淡い光に包まれてゆく。
巨大だった体躯が、みるみるうちに縮んでいった。
大樹のようだった巨体は、あっという間に小さくなり――。
光が収まった時、庭の芝生の上に残されていたのは――。
「……きゅ〜ん?」
手のひらに乗りそうなほど小さな、白くてフワフワの丸っこい生き物だった。
大きな耳に、ふさふさの尻尾。
一見すると、純白の子狐かポメラニアンのようである。
そのモフモフの塊が、短い手足をパタパタさせながらミーシャちゃんの足元へとトコトコ歩み寄り、擦り寄って甘えた声を上げたのだ。
「きゅ〜ん、くぅん」
「わ……っ! ち、小さくなっちゃった……!? すっごく、可愛いです……!」
ミーシャちゃんが思わずしゃがみ込み、両手でそっと抱き上げる。
手のひらサイズの子獣は、ミーシャちゃんの腕の中にすっぽりと収まり、気持ちよさそうに目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。
『うむ……居心地が良い。この娘の腕の中は、世界樹の揺り籠よりも温かいわ……。気に入ったぞ。余が直々に、この家と娘の守護獣となってやろう』
頭の中に尊大な念話が響いてくるけれど、見た目はただのモフモフ愛玩動物だ。
ミーシャちゃんが嬉しそうにその背中を撫でると、天使のような笑みを浮かべて私を振り返った。
「お姉ちゃん、見てください! すっごく柔らかくて、温かいです!」
「本当ね! ミーシャちゃんにすっごくお似合いよ!」
ミーシャちゃんが喜んでいる姿を見て、私の胸は再び幸福感で満たされた。
ポンッ! と心地よい音とともに、夜のMPも限界突破。
よし、そうと決まれば――家族が増えたのだから、一番重要な儀式を行わなければならないわね!
「よし! 今日からうちの子にするんだから、お名前を決めなきゃね!」
『ふっ、名前か。余の真名は太古の言霊。人間には発音すら叶わぬが、仮初めの名としてフェンリシアと――』
「ポチね!」
『…………は?』
小さな白モフが、ミーシャちゃんの腕の中でピシリと固まった。
「白くてモフモフで元気なワンちゃんなんだから、名前は『ポチ』で決定よ!」
『待てぇぇぇい人間ッ!! ポチだと!? 余は太古の森の主、神話に謳われし絶対零度の神獣なるぞ!? ポチなどという、その辺の駄犬のような名で呼ばれてたまるかぁぁぁっ!』
「ポチちゃん、可愛いわよねぇミーシャちゃん!」
「はい! ポチちゃん、とっても呼びやすくて可愛いです!」
ミーシャちゃんが頬ずりをしながら「ポチちゃん」と呼ぶと、白モフは『ぐぬぅぅぅっ……! 主の抱擁……甘美すぎる……!』と身悶えした。
「ほらポチちゃん、これ食べる?」
私が指先で小さくちぎった特製肉を差し出すと、ポチは一瞬葛藤したものの――。
『ハフッ! ……うみゃあぁぁぁっ!』
即座に食らいつき、しっぽを激しくプロペラのように振り回した。
『ポチでいい! 今日から余はポチだ! 飯をよこせぇぇぇっ!』
完膚なきまでの屈服!
こうして、太古の神獣フェンリシアは、我が家の愛玩ペット兼居候犬『ポチ』として、正式に家族の一員となったのだった。
「ふふ、これで我が家はクレアとミーシャ、それにポチちゃんの二人と一匹ね!」
「はい、お姉ちゃん! ポチちゃん、よろしくね」
「きゅ〜ん!」
ミーシャちゃんの腕の中で、ポチは得意げに胸を張った。
念話では『余がいる限り、貴様らの眠りを妨げる下等な魔物どもなど、近づく前に一匹残らず噛み砕いてくれるわ!』と息巻いているけれど、見た目は手のひらサイズの白モフだ。
けれど、これで夜間のセキュリティも完璧ね。
縁側から見上げる夜空には、満天の星が優しく瞬いていた。
温かい家と、大好きな妹と、モフモフの家族。
私たちの最果ての村での暮らしは、ますます幸せに、そして賑やかになっていくのだった。
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