第3話 うちにおいで。今日からあなたは私の妹です
夕暮れの茜色が空を染める中、私はミーシャちゃんの手を引いて我が家へと帰り着いた。
「さあ、入って入って! 狭いけれど、遠慮なんていらないからね」
「お、お邪魔します……」
恐る恐る玄関をくぐったミーシャちゃんは、落ち着かない様子でキョロキョロと室内を見回している。
薄汚れた服に、泥で固まった銀髪。小さな肩をすぼめて、まるで叱られるのを待つ子犬のように縮こまっていた。
「まずは、お風呂に入ってさっぱりしましょ! ちょっと待っててね」
私は浴室へ駆け込み、木樽の浴槽に手桶で水を汲むと、そっと手をかざした。
今の私は魔力省エネ中。家の壁を張り替えたりする大掛かりな魔術は使えないけれど、お湯を適温に沸かすくらいなら、ほんのわずかな魔力で足りる。
「『生活魔術・適温沸騰』」
ぽわんと淡い光が宿り、木樽の水が一瞬で湯気を立てる極上の湯船へと変わった。
石鹸と柔らかな布を用意して、私は脱衣所のドアを開けた。
「ミーシャちゃん、お湯が沸いたわよ。背中、流してあげようか?」
「えっ、あ……わ、自分で洗えますっ……!」
「ふふ、じゃあゆっくり温まっておいで。上がったらこれを着てね」
私の昔の服――少し小さめの丈のワンピースを置いて、私は浴室の戸を閉めた。
しばらくして、お風呂から上がってきたミーシャちゃんを見て、私は思わず息を呑んだ。
泥と汚れを落としたその姿は、息を呑むほどに可憐だった。
濡れた銀糸の髪はしっとりと輝き、透き通るような白い肌。宝石のアメジストのように澄んだ紫の瞳。私のぶかぶかのワンピースの袖をきゅっと握りしめて、上目遣いに私を見つめている。
……な、なんて可愛らしいのかしら!
天使? ここに降臨したのは天上の天使様なの!?
危うく鼻血を吹き出しそうになるのを、大人の理性でぐっと堪える。
「さあ、次はお腹を満たさなきゃね! 特製スープができてるわよ!」
キッチンの鍋には、干し肉と森で採れたてのキノコ、根菜をコトコト煮込んだスープが完成していた。
これも私の生活魔術の仕業だ。素材の旨味を極限まで引き出し、アクを完璧に消し去る術をかけた結果、ただの素朴な田舎スープのはずが、王都の五つ星レストランのシェフでも土下座してレシピを請うような極上の黄金スープに仕上がってしまっている。
テーブルの椅子を引いて、ミーシャちゃんを座らせる。
深皿にたっぷりと注いだ温かいスープと、ふっくら温めた白パンを差し出した。
「冷めないうちに召し上がれ」
「……あ、あの……わたし、お金なんて持ってないです……」
「お金なんていらないわよ。ごはんはお腹が空いた子が食べるためにあるの。ほら、スプーンを持って」
促すと、ミーシャちゃんは震える手で木のスプーンを握り、恐る恐るスープをひと口すくって口に運んだ。
その瞬間――。
ミーシャちゃんの紫の瞳が、こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。
「……っ!」
「どうかしら? お口に合う?」
「お、おいしい……です……っ。こんなに温かくて、美味しいもの……生まれて初めて食べました……っ」
ぽろり、と。
大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちて、スープの表面に小さな波紋を作った。
ミーシャちゃんは袖で涙を拭いながら、夢中でスープを口に運び、パンをちぎって頬張った。
何日もろくなものを口にしていなかったのだろう。小さなお腹が満たされていくたびに、青白かった頬にほんのりと血色が戻っていく。
お皿がすっかり空になったところで、ミーシャちゃんは小さく息をつき、そして――また不安そうに眉を寄せ、俯いてしまった。
「……ごちそうさまでした。あの……わたし、行かなきゃ……」
「行くって、どこへ?」
「どこでも……。だって、わたしなんかがこんなに良くしてもらっちゃ、いけないから……」
ぎゅっと、ミーシャちゃんは自分の膝の上で拳を握りしめた。
その声は、自分を罰するように震えている。
「さっきも言った通り……わたしの目には、人の嘘や悪意が見えちゃうんです。それに、わたしは悪い魔物を引き寄せる、呪われた不吉な子だから……。お姉さんにも、迷惑がかかっちゃいます……」
森の掘っ立て小屋で、たった一人で耐えてきた絶望。
誰にも望まれず、誰からも遠ざけられてきた少女の、あまりにも痛ましい自己否定。
――ああ、もう。
私の中の『お姉ちゃんスイッチ』が、完全に限界を突破した。
「ミーシャちゃん」
私はすっと立ち上がり、ミーシャちゃんの正面へと歩み寄った。
そして、床に両膝をつき、ミーシャちゃんの目線と同じ高さになる。
「……お姉さん?」
怯えたように揺れる紫の瞳を、私は逃がさないように真っ直ぐに見つめた。
そして、両手を伸ばして、ミーシャちゃんの柔らかい両頬を優しく包み込む。
「不吉? 呪われ子? ……何言ってるのよ、ミーシャちゃん」
「え……?」
「人の嘘や悪意が見抜けるなんて、天才じゃないの!」
私の迷いのない言葉に、ミーシャちゃんはきょとんと目を丸くした。
「だ、天才……? でも、気味悪がられて……」
「気味悪がるほうが節穴よ! 悪い大人に騙されない、世界一素晴らしい防犯能力じゃない! それにね、魔物を引き寄せちゃう体質? そんなの、寄ってきたら私がお掃除しちゃうから、百匹来ようが千匹来ようが関係ないわ!」
「お、お掃除って……魔物を……?」
「そうよ、箒とハタキで全部ピッカピカに退治しちゃうんだから!」
胸を張って言い切る私に、ミーシャちゃんは言葉を失っている。
私はさらにグッと顔を近づけ、心からの想いを込めて告げた。
「いい、ミーシャちゃん? よく聞いてね。あなたは何ひとつ悪くないし、不吉でもなんでもないわ。息をしてるだけで百点満点! 美味しいって笑ってくれたら一万点よ! 今日まで一人で一生懸命生きてきてくれて、ここにいてくれて……本当に、ありがとう」
「あ……ぁ……」
ミーシャちゃんの瞳が、ぶわっと涙で溢れ返る。
前世の私が、妹に言ってあげられなかった言葉。
ずっと胸の奥で燻り続けていた後悔を、祈りを、愛のすべてを込めて――。
私は、折れそうなほど華奢なミーシャちゃんの体を、力いっぱい抱きしめた。
「うちにおいで、ミーシャちゃん。今日からあなたは、私の妹よ」
私の腕の中で、ミーシャちゃんの体がびくりと跳ねる。
「もう誰にも、あなたを不吉だなんて言わせない。寒い思いも、怖い思いも、絶対にさせないわ。私が世界で一番、あなたを甘やかしてあげるからね」
「お……お姉、ちゃん……っ」
ミーシャちゃんの小さな手が、私の背中の服をぎゅっと掴んだ。
生まれて初めて、誰かに自分の存在そのものを丸ごと肯定された少女は――子供のように声を上げて、私の胸の中で激しく泣きじゃくった。
「うわあああぁぁぁんっ……! おねえちゃん……! おねえちゃん……っ!」
「うん、うん。よしよし、いい子ね……私の可愛いミーシャちゃん」
涙で私の胸元が濡れていくのを、私はただただ愛おしく受け止めながら、何度もその銀髪を撫で続けた。
――と、その時だった。
ポンッ!
私の頭の奥で、まるでシャンパンのコルクが軽快に抜けたような、不思議な音が響いた。
(……え?)
次の瞬間。
ドッと、全身の血管に温かな光の濁流が流れ込んできた。
体内の魔力――ずっと底をつきかけていたMPの残量が、目にも留まらぬ猛スピードで跳ね上がっていく。
満タン!
……どころか、メーターを軽々とぶち破り、限界突破して体から光が溢れ出しそうなほどの超・大オーバーフロー状態になっていた。
(な、なにこれぇぇぇぇぇっ!?)
呆然とする私の脳裏に、パズルがカチリとハマるような天啓が降りてきた。
――自然回復が遅いんじゃ、なかったんだ。
睡眠や時間経過じゃ戻らない代わりに――大切な人を全力で愛でたり、心からの愛と感謝を受け取った瞬間に、爆発的に全回復する仕様だったんだわ……!!
なんてことなの。
それってつまり、私がミーシャちゃんを甘やかして、ミーシャちゃんが喜んでくれる限り――私の魔力は実質、永久機関ってことじゃないの!
「ふふっ……あはは!」
「お、お姉ちゃん……?」
急に吹き出した私を見て、涙で目を真っ赤にしたミーシャちゃんが、不安そうに首を傾げた。
私はミーシャちゃんの涙を指先で優しく拭い、満面の笑みで告げた。
「決めたわ! 明日からミーシャちゃんのために、この家を最高に居心地いいお城に大改装しちゃうからね!」
「えっ、お城……? お、お掃除ですか……?」
「そうよ、生活魔術による愛の大掃除よ! ふふ、楽しみにしててね、私の世界一可愛い妹ちゃん!」
ぎゅっともう一度抱きしめると、ミーシャちゃんは照れたように、でも嬉しそうに私の胸に顔を埋めた。
こうして、最果ての村での、私たちの幸せな全肯定スローライフが――最高の形で幕を開けたのだった。
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