色のない信号
金曜日の放課後、俺たちは駅前の商店街を歩いていた。
俺と、篠宮と、志田。三人並んで、何でもない通学路を歩いている。
昨日、美術準備室で奈都から「脳の防衛遮断」の話を聞いた後、志田は一晩かけて現実を受け入れたらしい。今朝の志田は昨日よりも少し落ち着いていた。落ち着いた、というより、動揺のピークを越えて次のフェーズに入った、という感じだった。
今日の放課後、俺は志田に提案した。
「一回、街を歩いて、どこまでが見えてどこまでが見えてないか、確認してみないか」
志田は少し迷ってから頷いた。
「ちょっと怖いけど......確かに、ちゃんと確認しといたほうがいいかも」
篠宮は当然のようについてきた。俺が「篠宮も来てくれないか」と言う前に、もう準備室の電気を消して鞄を持っていた。「もちろん行くよ」とだけ言った。
* * *
商店街の入り口には、大きな信号機がある。
夕方のこの時間、車の流れが途切れない。信号は赤から青、青から赤、と忠実に切り替わっている。
俺たち三人は横断歩道の手前で立ち止まった。
「志田。今、信号、何色に見える?」
俺が聞くと、志田は信号機を見上げた。
「......うーん」
眉をひそめる。目を細める。
「分かんない。なんか、灰色の濃い円と薄い円、どっちが光ってるか分かんない。点滅してるほうが注意とか進めなのかな、って推測してる」
志田は自分の言葉に、自分で驚いたような顔をした。
「うわ、やば。私、今までずっと勘で渡ってたんだ」
俺は隣で聞きながら、少しぞっとしていた。
信号の色が分からない状態で、毎日通学していたということだ。事故にならなかったのが運がよかっただけかもしれない。
篠宮は信号機を見上げて、静かに言った。
「私もね、信号は見えないの。でも、周りの人が歩き出したら歩く、止まったら止まる、っていうルールで渡ってる」
「え、そうなの?」
「うん。あと、信号機の上の方が光ってたら止まれ、下の方が光ってたら進め。位置で覚えてる。数えたことあるから、場所は分かる」
志田は「へえ......」と小さく呟いて、それから信号の上のほうをじっと見た。
「上の方......あ、光ってるね。うん、今止まれなんだ」
「そうだね」
「覚えとこ。信号、位置で」
「うん。慣れれば平気だよ」
信号が青に変わった。周りの歩行者が動き出す。俺たちも歩き出した。
横断歩道を渡りながら、志田がぽつりと言った。
「......なんか、篠宮さん、頼りになるね」
「そう?」
「うん。こういう時、経験者が隣にいると安心する」
篠宮は少しだけ嬉しそうに笑った。感情が動く時、この子はいつも小さくしか笑わない。でも、その小ささが逆に本物なんだと、最近分かり始めていた。
* * *
商店街に入ると、色が溢れていた。
少なくとも俺の目には。
店先の看板、幟、商品、花屋の生花、八百屋のトマトや人参、文房具店のカラーペン。全部、普段なら視界を素通りしていた色の洪水。
志田はその中を、じっと観察するように歩いていた。
「......花屋のバラ、灰色」
立ち止まって呟く。俺と篠宮も立ち止まる。
「赤いバラ?」
「うん。あと白いのもあるけど、その白いのと、赤いはずのやつの区別が、濃さだけで分かる感じ。色じゃなくて、濃度」
「八百屋は?」
「トマトは......これもなんか濃い色のやつだけど、赤ってよりは暗いグレー。ピーマンとパプリカの赤いやつの区別がつかない」
「ピーマンと赤パプリカ」
「もう同じに見える」
次に郵便ポストの前で志田が止まった。
「ポストって、赤だよね?」
「赤だな」
「私には......黒っぽいグレー。夜の色って感じ」
志田はそう言って、少しだけ自虐的に笑った。
「ポストが夜の色って、変だね」
「変じゃないと思う」
篠宮が横から言った。
「見える色が違うだけで、そのものは同じでしょ。ポストは今日もちゃんと、手紙を運んでくれる」
「......うん。それもそうだ」
志田は少しだけ肩の力を抜いた。
俺はその横顔を見ながら、ちょっとだけ感心していた。篠宮の言葉は、いつも論理的に組み立てられているわけじゃない。でも、妙に芯を外さない。「見える色が違うだけで、そのものは同じ」。言われてみれば当たり前の話なのに、志田がこの瞬間に一番聞きたい言葉だった気がする。
こういう時、俺は何も言えない。俺に言えるのは「......そうか」くらいだ。だから篠宮がいてくれて助かる、と素直に思った。
* * *
商店街の中ほどで、志田はふと立ち止まった。
花屋の店先に並んでいるチューリップの列を見ている。赤、黄、白、ピンク。鮮やかな色のコントラストが並んでいる。
「......ちょっと、これ見ていい?」
志田はしゃがんで、赤いチューリップを一本じっと見た。俺はその横に立って待った。篠宮も立ち止まっている。
「黄色は分かる。白も分かる。ピンクも、薄いから分かる。......でも、この、たぶん赤のやつ。これだけ、全然違う色に見える」
「違うって?」
「沼みたいな色。深くて、重くて、底が見えない感じ」
俺は少しだけ息を呑んだ。
志田の言語化が、想像以上にシビアだった。灰色、というより、「重くて沼みたいな色」。同じ花を見ているはずなのに、志田の目に映る赤いチューリップは、俺の目に映るそれとは別の植物だった。
篠宮がしゃがんで、志田の隣に並んだ。
「私には全部、濃さが違うだけの花だよ。志田さんのほうが、色の輪郭を掴めてるのかも」
「......そうかな」
「そうだと思う。志田さんは赤が"分からない"んじゃなくて、赤が"別のもの"として見えてるんだと思うから。それって、何もないのとは違う」
志田は立ち上がって、もう一度チューリップを見た。今度は少しだけ、見方が変わった顔をしていた。
――篠宮の言葉は、物事の捉え方を少しだけ裏返す。いつの間にか、見える景色が変わっている。
* * *
商店街の奥、小さな公園のベンチに座った。
志田はコンビニで買ったミルクティーを両手で抱えていた。俺はカフェオレ。篠宮は麦茶を飲んでいる。夕方の風がベンチの脇の桜の葉を揺らしていた。今日の桜は、俺の目にはまだ薄いピンクだ。志田の目には、たぶん灰色のグラデーション。
「......篠宮さんは、ずっと灰色なんだよね」
志田が、手の中のペットボトルを見ながら言った。
「うん」
「私はね、今、赤だけなんだけど。それでもちょっとしんどい。篠宮さんは、ずっと全部灰色で......大変じゃないの?」
志田の声に、同情とかじゃなくて、純粋な疑問があった。
篠宮は空を見上げた。
「私はね、最初から灰色だったから。『失った』って感覚がないの」
「......」
「志田さんは、赤が見えてた日々があって、それが急になくなったわけでしょ。だからしんどいんだと思う。比べる前の記憶があるから」
「......うん」
「私と志田さんは、同じじゃない。同じじゃないけど――でもね、」
篠宮は志田のほうを見た。
「私と一緒にいる間だけは、志田さんは"色が見えない仲間"だよ。それだけは同じだから」
志田の目が、少しだけ潤んだ。
俺はその場で、口の中で小さく息を呑んだ。
篠宮の言い方は、慰めでもなく、励ましでもなかった。「私と同じだね」でも「大丈夫だよ」でもない。「同じじゃない。でも、仲間だ」という、妙な距離感のある言葉。それが、志田の心に触れたらしい。
志田はミルクティーを一口飲んで、それから笑った。今日一番の、薄くない笑顔だった。
「......なんで篠宮さん、そんな言い方できるの?」
「さあ。自分でもよく分かんない」
「そういう言い方、なかなか出てこないと思うよ」
「......そうかな」
「そうだよ」
志田はもう一度笑った。俺はその隣で、ただの観察者として、二人のやり取りを見ていた。
篠宮は誰かを助ける時、こういう言葉を使う。俺には絶対に真似できない言葉だ。俺がやれば「まあ、なんとかなるだろ」で終わってしまう。
色が見えない世界を生きてきた人にしか持てない言葉がある。
そのことを、今日初めて理解した。
* * *
夕方が濃くなってきた頃、俺はスマホを取り出した。
「......ちょっと、奈都にメッセージ送る。昨日の話の続き、聞いておきたい」
「奈都ちゃんに?」
「赤が戻る方法があるのか、聞いておきたい」
俺は奈都に短くメッセージを送った。『赤が戻る方法ある?』。一分と経たずに返信が来た。
『方法というより、条件。脳が赤を遮断した"理由"を解消すれば、戻るはず』
『理由?』
『そう。志田さんが"見たくない"と判断した何かを、志田さん自身が受け入れ直す必要がある。ただし、問題は、それが何なのか、本人が気づいてないかもしれないってこと』
俺はスマホを志田に見せた。
志田はじっと画面を読んだ。読み終えた後、少しの間、黙っていた。
風で桜の葉が揺れる音だけが聞こえる。志田の手の中のミルクティーが、少しだけ軽くなったように見えた。ペットボトルを握る力が抜けたのかもしれない。
それから、俺のほうを見ずに、小さく呟いた。
「......私、気づいてるかも」
俺はベンチの上で少しだけ姿勢を正した。
「気づいてる?」
「うん。気づいてるけど、思い出したくない」
志田の声は、静かだった。泣いているわけじゃない。怒っているわけでもない。ただ、「そこに触れたくない」という意思だけが、言葉の中にあった。
俺は少しだけ迷って、それから、聞いた。
「志田。......何か心当たり、ないか? 最近、赤に関係しそうなことで......辛かったこととか」
志田の表情が、一瞬固まった。
笑顔でも、泣き顔でもない。何の感情もない、真っ白に近い顔。
その顔を見ながら、俺は確信した。
――志田は、理由を知っている。
知っていて、でも、口にしたくない。口にしたら、たぶん、今まで必死に閉じ込めてきたものが、一気にあふれ出す。そういう目だった。
隣の篠宮も、志田の顔を見ていた。篠宮は何も言わない。急かさないし、慰めもしない。ただ、自分のペットボトルを志田の手のそばにそっと置いた。それだけだった。
「一人じゃないよ」を、言葉ではなく動作で示した。
俺はその一連を見ていて、ふと思った。俺がこの場で一番何もできないのかもしれない、と。色が見えて、状況も整理できて、奈都との情報も持ってくる俺が、実は一番「何もできない」側にいる気がした。
でも、それでも、ここに座っている意味はある気がした。
ここにいないと、何も始まらない。




