別にもう忘れたし
土曜日の午前中、俺は自分の部屋のベッドで天井を見ながら、スマホの画面を何度も開いたり閉じたりしていた。
トーク画面に「志田真央」の名前が表示されている。昨日、連絡先を交換したばかりだ。
メッセージの入力欄に「今日ちょっと会える?」と打ちかけて、消した。もう一度打って、また消した。
俺らしくない。俺は誰かを誘うタイプじゃない。誰かと予定を合わせるのも、誰かの時間を自分のために使わせるのも、苦手だ。
でも、昨日の公園での志田の顔が、頭から離れなかった。
「気づいてるけど、思い出したくない」と言った時のあの真っ白な顔。
あれを見たあとで、何もしないで家にいる自分が、なんか嫌だった。
俺は結局、送った。
『今日ちょっと話さないか。ファミレスでいい』
返信は五分後に来た。
『うん、いいよ。いつもの駅前の?』
『そこで。1時でいい?』
『了解』
短いやり取りだけで、心拍数が普段より2割くらい上がっている気がした。こんなにエネルギーを使う会話は、久しぶりだった。
* * *
駅前のファミレスは、昼下がりの時間帯で少しだけ空いていた。
窓際の4人席を取って、俺はオレンジジュースを頼んだ。注文してから「なんでオレンジにしたんだろ」と思った。普段ならコーラか水だ。志田が来た時に、色が見えるほうがいいかな、と無意識に思ったのかもしれない。
1時ちょうどに、志田が現れた。
私服の志田を見るのは初めてだった。普段の派手なイメージとは違って、落ち着いた色のシャツとスカート。髪は後ろで一つに束ねていて、少し疲れた顔をしていた。
「お待たせ」
「いや、俺も今来たとこ」
志田は俺の向かいに座って、メニューを開かずにいきなり店員を呼んだ。
「ホットミルクティー、ミルク多めで」
ホットなのか、と俺は心の中で思った。5月になりかけの、暑くも寒くもない日に、わざわざホットを頼むのは珍しい。体が冷えてるのかもしれない。
あるいは、ただ温かいものが欲しかったのかもしれない。誰かと話す前に、手の中に温度が欲しくなる気持ちは、分からなくもなかった。
俺は何も言わなかった。ただ、自分のオレンジジュースを一口飲んだ。甘酸っぱい味が口の中に広がる。今日はちゃんと、味を感じる余裕があった。普段の俺なら、何を飲んでも「まあ」で終わるのに。
「......で、何の話?」
先に切り出したのは志田のほうだった。
「昨日の続き?」
「まあ、そんなとこ」
「私、昨日ちゃんと言えなかったから、気になるよね。分かる」
志田は少しだけ先回りした。自分から話題を整理しようとしている。優しいんだか、防御なんだか、たぶん両方だ。
俺は口を開きかけて、やめた。どう聞いていいのか、まだ決まっていなかった。直球はまずい。「何があったんだ」と聞いても、たぶん志田は「別に何も」と答える。
考えながら、カップの水滴を指でなぞる。志田は俺の沈黙を待っていた。
「......志田」
「うん」
「昨日、『気づいてるけど、思い出したくない』って言っただろ」
「......言ったね」
「それ、聞かせろとは言わない」
「じゃあ、何?」
「ただ、聞いておきたいのは――今、大丈夫なのか、って」
志田は少しだけ目を見開いた。それから、視線を落とした。
「大丈夫だよ。普通に、元気だし」
「......」
「本当だって。赤が見えないのは、まあ、ちょっと不便だけど、なんとかなってるし。篠宮さんがいろいろ教えてくれたし」
「......そうか」
「そうそう。別に何もないよ」
別に。
志田の口から「別に」が出た瞬間、俺は自分の口癖を他人の口から聞いた気がした。いや、比喩じゃない。本当に同じ言い回し、同じ間、同じ抑揚。俺が毎日無意識に使っているやつ。
鏡に自分を映されたような気分だった。
「......志田」
「うん?」
「俺も、よく"別に"って言うんだけどさ」
「知ってる」
「知ってるのか」
「水無瀬って、クラスで有名だよ。"別に"と"普通"と"......知らね"しか言わない男として」
「......不名誉な評価だな」
志田が少しだけ笑った。ほんの少しだけ。
俺はその笑顔に背中を押されて、続けた。
「俺の"別に"は、大体さ、本当に"別に"じゃない時に出る」
「......」
「話したくない時とか、話すほどじゃないと思い込みたい時とか、話したら壊れそうな時とか。そういう時に、"別に"で蓋をする」
「......」
「自分で言っといてなんだけど、これ、結構器用な逃げ方でさ。便利なんだ。相手に余計な情報を渡さないで、会話を終わらせられる」
「......うん」
「でもさ、便利なやつって、使い続けると、だんだん何を隠したかったのかすら分からなくなるんだよ」
俺は自分のオレンジジュースを一口飲んだ。喉が少しだけ乾いていた。
こんなに自分のことを喋ったのは、たぶん、中学で航平に両親のことを話して以来かもしれない。
志田は何も言わなかった。ミルクティーのカップを両手で持ったまま、湯気の向こうで俺を見ていた。
「......だから、志田の"別に"が、俺と同じ種類の"別に"かどうか、聞きたかった。それだけ」
「......」
「もし同じなら、たぶん、そのままにしておくとしんどい。器用になりすぎて、そのうち何を隠したかったか忘れる。忘れて、そのまま抱えたまま、変な形になる」
「......」
「でも、今、話せって言ってるわけじゃない。言いたくないなら言わなくていい。俺も、全部話してるわけじゃないから」
沈黙が続いた。
店内のざわめき、BGM、隣のテーブルの笑い声。それらが妙に遠くに聞こえた。
志田は、ホットミルクティーを一口飲んで、カップをゆっくり置いた。
そして、窓の外を見ながら、静かに言った。
「......ちょっとだけ」
「うん」
「ちょっとだけ、嫌なことがあった」
「うん」
「でも、別に、もう忘れたし」
最後の「別に」は、俺の使う「別に」と完全に同じ音だった。
俺はそれ以上聞かなかった。聞けなかったんじゃない。聞かない、と決めた。
代わりに、こう言った。
「忘れたならいい」
「うん」
「忘れてないなら、また聞く」
「......うん」
志田はもう一度だけ窓の外を見て、それから俺のほうを見た。目が、ほんの少しだけ赤い気がした。泣いたわけじゃない。でも、目の奥に何かが少しだけ溜まっていた。
「水無瀬さ」
「なんだよ」
「......今日、声かけてくれて、ありがとう」
「......別に」
「ふふ」
志田が小さく吹き出した。
「出た、別に」
「......うるさい」
俺は自分の「別に」を、今日初めて恥ずかしく感じた。癖は簡単には抜けない。
* * *
俺たちは30分くらいで店を出た。
会計を済ませて、駅前の広場で「じゃあ」と短く別れた。志田は「私、ちょっと一人で歩きたいから」と言って、駅とは逆方向に歩いて行った。
俺はその背中を見送った。見送りながら、スマホを取り出して、篠宮に短くメッセージを送った。『志田と話してきた。詳しくは月曜日に』。既読はすぐにつかなかった。
俺は駅に向かって歩き出した。土曜の午後の駅前は人が多かった。色が溢れていた。赤も、青も、黄色も、全部当たり前に見える。
志田には、今、この景色の赤だけが灰色になっている。
歩きながら、俺は一つだけ、はっきり思ったことがあった。
志田の「別に、もう忘れたし」の「忘れた」は、絶対に嘘だ。
忘れてないから、赤が消えている。忘れたい、と強く願い続けた結果、脳が赤を遮断した。奈都の仮説に当てはめるなら、そういうことになる。
つまり、志田は今も「忘れたい」と思いながら、思い出し続けている。
忘れたいものは、忘れようとすればするほど、頭の中に居座る。俺はそのことを、中学の頃の自分の経験で知っていた。両親の離婚が決まった時、俺は必死に忘れようとした。忘れようとすればするほど、毎晩思い出した。忘れるって、そもそも意識してできるものじゃない。
たぶん、今の志田もそうだ。
「忘れた」と言えば言うほど、心の奥では赤いものが燃えている。
その赤が――たぶん、彼女が封じたかった「恋心」だ。
俺は信号を渡って、駅のほうに向かった。
自分のマンションは一駅先だが、歩いて帰ることにした。今日はもう少し、外にいたかった。頭を動かしていたかった。
駅前の横断歩道で信号待ちをしながら、空を見上げた。
薄い青。雲は少ない。
この景色を志田に見せたら、彼女の目には何色に映るんだろう。青は見える。でも、青の中にあるはずの「温度」みたいなものは、赤が欠けた分、少しだけ違って見えているかもしれない。
俺は頭の中で、もう一度、あのファミレスの窓際を思い出した。
ホットミルクティーを両手で抱えた志田。「ちょっとだけ、嫌なことがあった」と言ったあの声。その後に続いた、「でも、別に、もう忘れたし」という、俺の口癖と同じ音。
――忘れたかったんだろうな、本当は。
忘れたかったのに、忘れられないから、赤が消えた。
そう考えると、少しだけ、胸の奥が重くなった。
俺に何ができるかは、まだ分からない。でも、少なくとも、一つだけ分かったことがある。
志田を「忘れさせる」のは無理だ。忘れさせるんじゃなくて、「思い出しても大丈夫」にしてあげないと、赤は戻らない。




