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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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10/28

別にもう忘れたし

 土曜日の午前中、俺は自分の部屋のベッドで天井を見ながら、スマホの画面を何度も開いたり閉じたりしていた。

 トーク画面に「志田真央(しだまお)」の名前が表示されている。昨日、連絡先を交換したばかりだ。

 メッセージの入力欄に「今日ちょっと会える?」と打ちかけて、消した。もう一度打って、また消した。

 俺らしくない。俺は誰かを誘うタイプじゃない。誰かと予定を合わせるのも、誰かの時間を自分のために使わせるのも、苦手だ。

 でも、昨日の公園での志田(しだ)の顔が、頭から離れなかった。

 「気づいてるけど、思い出したくない」と言った時のあの真っ白な顔。

 あれを見たあとで、何もしないで家にいる自分が、なんか嫌だった。


 俺は結局、送った。

『今日ちょっと話さないか。ファミレスでいい』

 返信は五分後に来た。

『うん、いいよ。いつもの駅前の?』

『そこで。1時でいい?』

『了解』

 短いやり取りだけで、心拍数が普段より2割くらい上がっている気がした。こんなにエネルギーを使う会話は、久しぶりだった。


 * * *


 駅前のファミレスは、昼下がりの時間帯で少しだけ空いていた。

 窓際の4人席を取って、俺はオレンジジュースを頼んだ。注文してから「なんでオレンジにしたんだろ」と思った。普段ならコーラか水だ。志田が来た時に、色が見えるほうがいいかな、と無意識に思ったのかもしれない。

 1時ちょうどに、志田が現れた。

 私服の志田を見るのは初めてだった。普段の派手なイメージとは違って、落ち着いた色のシャツとスカート。髪は後ろで一つに束ねていて、少し疲れた顔をしていた。

「お待たせ」

「いや、俺も今来たとこ」

 志田は俺の向かいに座って、メニューを開かずにいきなり店員を呼んだ。

「ホットミルクティー、ミルク多めで」

 ホットなのか、と俺は心の中で思った。5月になりかけの、暑くも寒くもない日に、わざわざホットを頼むのは珍しい。体が冷えてるのかもしれない。

 あるいは、ただ温かいものが欲しかったのかもしれない。誰かと話す前に、手の中に温度が欲しくなる気持ちは、分からなくもなかった。

 俺は何も言わなかった。ただ、自分のオレンジジュースを一口飲んだ。甘酸っぱい味が口の中に広がる。今日はちゃんと、味を感じる余裕があった。普段の俺なら、何を飲んでも「まあ」で終わるのに。


「......で、何の話?」

 先に切り出したのは志田のほうだった。

「昨日の続き?」

「まあ、そんなとこ」

「私、昨日ちゃんと言えなかったから、気になるよね。分かる」


 志田は少しだけ先回りした。自分から話題を整理しようとしている。優しいんだか、防御なんだか、たぶん両方だ。

 俺は口を開きかけて、やめた。どう聞いていいのか、まだ決まっていなかった。直球はまずい。「何があったんだ」と聞いても、たぶん志田は「別に何も」と答える。

 考えながら、カップの水滴を指でなぞる。志田は俺の沈黙を待っていた。


「......志田」

「うん」

「昨日、『気づいてるけど、思い出したくない』って言っただろ」

「......言ったね」

「それ、聞かせろとは言わない」

「じゃあ、何?」

「ただ、聞いておきたいのは――今、大丈夫なのか、って」


 志田は少しだけ目を見開いた。それから、視線を落とした。

「大丈夫だよ。普通に、元気だし」

「......」

「本当だって。赤が見えないのは、まあ、ちょっと不便だけど、なんとかなってるし。篠宮(しのみや)さんがいろいろ教えてくれたし」

「......そうか」

「そうそう。別に何もないよ」


 別に。

 志田の口から「別に」が出た瞬間、俺は自分の口癖を他人の口から聞いた気がした。いや、比喩じゃない。本当に同じ言い回し、同じ間、同じ抑揚。俺が毎日無意識に使っているやつ。

 鏡に自分を映されたような気分だった。


「......志田」

「うん?」

「俺も、よく"別に"って言うんだけどさ」

「知ってる」

「知ってるのか」

水無瀬(みなせ)って、クラスで有名だよ。"別に"と"普通"と"......知らね"しか言わない男として」

「......不名誉な評価だな」


 志田が少しだけ笑った。ほんの少しだけ。

 俺はその笑顔に背中を押されて、続けた。


「俺の"別に"は、大体さ、本当に"別に"じゃない時に出る」

「......」

「話したくない時とか、話すほどじゃないと思い込みたい時とか、話したら壊れそうな時とか。そういう時に、"別に"で蓋をする」

「......」

「自分で言っといてなんだけど、これ、結構器用な逃げ方でさ。便利なんだ。相手に余計な情報を渡さないで、会話を終わらせられる」

「......うん」

「でもさ、便利なやつって、使い続けると、だんだん何を隠したかったのかすら分からなくなるんだよ」


 俺は自分のオレンジジュースを一口飲んだ。喉が少しだけ乾いていた。

 こんなに自分のことを喋ったのは、たぶん、中学で航平(こうへい)に両親のことを話して以来かもしれない。

 志田は何も言わなかった。ミルクティーのカップを両手で持ったまま、湯気の向こうで俺を見ていた。


「......だから、志田の"別に"が、俺と同じ種類の"別に"かどうか、聞きたかった。それだけ」

「......」

「もし同じなら、たぶん、そのままにしておくとしんどい。器用になりすぎて、そのうち何を隠したかったか忘れる。忘れて、そのまま抱えたまま、変な形になる」

「......」

「でも、今、話せって言ってるわけじゃない。言いたくないなら言わなくていい。俺も、全部話してるわけじゃないから」


 沈黙が続いた。

 店内のざわめき、BGM、隣のテーブルの笑い声。それらが妙に遠くに聞こえた。

 志田は、ホットミルクティーを一口飲んで、カップをゆっくり置いた。

 そして、窓の外を見ながら、静かに言った。


「......ちょっとだけ」

「うん」

「ちょっとだけ、嫌なことがあった」

「うん」

「でも、別に、もう忘れたし」


 最後の「別に」は、俺の使う「別に」と完全に同じ音だった。

 俺はそれ以上聞かなかった。聞けなかったんじゃない。聞かない、と決めた。

 代わりに、こう言った。


「忘れたならいい」

「うん」

「忘れてないなら、また聞く」

「......うん」


 志田はもう一度だけ窓の外を見て、それから俺のほうを見た。目が、ほんの少しだけ赤い気がした。泣いたわけじゃない。でも、目の奥に何かが少しだけ溜まっていた。

「水無瀬さ」

「なんだよ」

「......今日、声かけてくれて、ありがとう」

「......別に」

「ふふ」

 志田が小さく吹き出した。

「出た、別に」

「......うるさい」


 俺は自分の「別に」を、今日初めて恥ずかしく感じた。癖は簡単には抜けない。


 * * *


 俺たちは30分くらいで店を出た。

 会計を済ませて、駅前の広場で「じゃあ」と短く別れた。志田は「私、ちょっと一人で歩きたいから」と言って、駅とは逆方向に歩いて行った。

 俺はその背中を見送った。見送りながら、スマホを取り出して、篠宮に短くメッセージを送った。『志田と話してきた。詳しくは月曜日に』。既読はすぐにつかなかった。

 俺は駅に向かって歩き出した。土曜の午後の駅前は人が多かった。色が溢れていた。赤も、青も、黄色も、全部当たり前に見える。

 志田には、今、この景色の赤だけが灰色になっている。


 歩きながら、俺は一つだけ、はっきり思ったことがあった。

 志田の「別に、もう忘れたし」の「忘れた」は、絶対に嘘だ。

 忘れてないから、赤が消えている。忘れたい、と強く願い続けた結果、脳が赤を遮断した。奈都(なつ)の仮説に当てはめるなら、そういうことになる。

 つまり、志田は今も「忘れたい」と思いながら、思い出し続けている。

 忘れたいものは、忘れようとすればするほど、頭の中に居座る。俺はそのことを、中学の頃の自分の経験で知っていた。両親の離婚が決まった時、俺は必死に忘れようとした。忘れようとすればするほど、毎晩思い出した。忘れるって、そもそも意識してできるものじゃない。

 たぶん、今の志田もそうだ。

 「忘れた」と言えば言うほど、心の奥では赤いものが燃えている。

 その赤が――たぶん、彼女が封じたかった「恋心」だ。


 俺は信号を渡って、駅のほうに向かった。

 自分のマンションは一駅先だが、歩いて帰ることにした。今日はもう少し、外にいたかった。頭を動かしていたかった。

 駅前の横断歩道で信号待ちをしながら、空を見上げた。

 薄い青。雲は少ない。

 この景色を志田に見せたら、彼女の目には何色に映るんだろう。青は見える。でも、青の中にあるはずの「温度」みたいなものは、赤が欠けた分、少しだけ違って見えているかもしれない。

 俺は頭の中で、もう一度、あのファミレスの窓際を思い出した。

 ホットミルクティーを両手で抱えた志田。「ちょっとだけ、嫌なことがあった」と言ったあの声。その後に続いた、「でも、別に、もう忘れたし」という、俺の口癖と同じ音。

 ――忘れたかったんだろうな、本当は。

 忘れたかったのに、忘れられないから、赤が消えた。

 そう考えると、少しだけ、胸の奥が重くなった。

 俺に何ができるかは、まだ分からない。でも、少なくとも、一つだけ分かったことがある。

 志田を「忘れさせる」のは無理だ。忘れさせるんじゃなくて、「思い出しても大丈夫」にしてあげないと、赤は戻らない。


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