奈都の仮説
月曜日の昼休み、俺は篠宮と一緒に図書室に向かった。
土曜日のファミレスで志田と話してから、ずっと頭の中がうるさかった。「別に、もう忘れたし」という志田の声が、家に帰っても耳に残っていた。夜寝る前にも、朝起きた後にも、頭の隅に座り込んでいた。放課後の美術準備室でも、篠宮と二人で座っている時ですら、集中できなかった。
篠宮はそんな俺を見ていて、何も言わずに「ちょっと考えごと?」と一度だけ聞いた。俺が頷くと、それ以上は聞かなかった。
日曜日、俺は珍しく一日中家にいた。父さんは仕事で、家の中は静かだった。リビングのソファに座って、テレビをつけっぱなしにして、でも画面は見ていなかった。ただ、志田のことを考えていた。考えて、何の結論も出ないまま、夕方になった。
月曜の朝、篠宮が美術準備室で待っていてくれて、「昼休み、奈都ちゃんに会いに行かない?」と言った。
「奈都ちゃんはいろいろ知ってるから、もう一度ちゃんと話聞こう。私と水無瀬くんだけじゃ、たぶん先に進めない」
正論だった。俺は頷いた。一人で抱え込んでも、何も進まないことくらい、自分でも分かっていた。
図書室の一番奥の席は、放課後は奈都の定位置だが、昼休みはガラガラだった。奈都はすでにそこで分厚い本を広げていた。俺たちが近づくと、顔を上げる。
「水無瀬くん、と......篠宮さん」
奈都は俺と篠宮を交互に見て、少しだけ珍しそうな顔をした。篠宮がわざわざ出向いてくるのは珍しいらしい。
「お邪魔してごめんね」
篠宮が小声で言う。図書室だから、自然と声が小さくなる。
「いいよ。どうぞ。ちょうど面白いところだったんだけど、いいや」
奈都は本に栞を挟んで閉じた。タイトルをちらりと見る。『感覚の神経生理学入門』。たぶん、色彩乖離の件で自主的に調べていたんだろう。
奈都は普段の淡々とした目に、今日は一つだけ好奇心の光があった。
「で、志田さんのこと?」
奈都のほうから切り出した。俺は頷いて、土曜日に志田と話した内容を簡潔に伝えた。志田の「別に、もう忘れたし」の件、赤が完全に消えていて日常に支障が出ている件、そして志田自身が「原因に気づいているけど思い出したくない」と言った件。
話を聞き終わった奈都は、指先で眼鏡のツルを一度だけ触って、姿勢を正した。
「じゃあ、私のほうからもう少し整理しておきたい。先週の美術準備室では『脳の防衛遮断』って仮説でざっくり話したけど、もう少し細かく詰めたほうがいい」
奈都はノートを取り出して、ペン先をかちりと出した。
「まず前提。色を『見る』っていう行為は、目だけでやってるわけじゃない。目は光の波長を受け取るだけのセンサーで、それを『これは赤』『これは青』って識別するのは脳の仕事。具体的には後頭葉のV4野って領域」
奈都はノートに脳の簡単な絵を描き始めた。下手な絵だったが、意味は通じた。
「で、このV4野のすぐ隣に、感情を処理する場所がある。扁桃体っていう、耳の奥のほうにある小さな器官。色と感情は、脳の中で物理的に隣接してて、神経回路で繋がってる」
「......配管が直結してる、ってこの前言ってたやつか」
「そう。で、ここが面白いところなんだけど」
奈都はペンで二つの領域を矢印で繋いだ。
「ストレスで胃が痛くなるでしょ? 極端な緊張で足が震えるでしょ? あれは、心の負荷を身体の症状に変換してるの。脳が"このままだと心が持たない"って判断した時、身体のどこかで"逃がしてる"」
「逃がしてる......」
「うん。で、その逃がし方が、色の遮断として起きたのが、志田さんのケースだと思う。脳が『赤を見るたびに思い出す何か』に耐えられなくなって、赤の処理ごとシャットダウンした。見なければ思い出さない、っていう合理的な防衛反応」
俺は横で聞いていて、一つの引っかかりを言葉にした。
「なんで赤なんだ? 青とか黄とかじゃなくて」
「そこ大事。色にはね、心理学的に『紐づく感情』がある程度決まってるの。赤は情熱、恋愛、怒り、血。青は冷静、憂鬱、安らぎ。黄は喜び、希望、注意。緑は安心、成長、平和。紫は誇り、高貴、神秘。これは文化圏とか個人差もあるけど、大筋は人類共通らしい」
「......じゃあ、志田は」
「赤が消えてる。つまり、情熱か、恋か、怒りか、血に関わる何か。そのどれかで限界を超えた。ただ、土曜日の志田さんの反応を聞く限り――」
奈都はペンで自分の頬を軽く叩いた。
「恋愛、じゃないかな」
隣で聞いていた篠宮が、ぽつりと呟いた。
「恋、か......」
その一言に、俺は志田の言葉を思い出した。
昼休み、友達に「好きな人いないの?」と聞かれて、一拍置いてから「......いないかな。別に」と答えた志田。あの一拍と「別に」が、全部繋がった気がした。
「......奈都の言う通りだと思う」
俺は言った。
「志田は、たぶん誰かを好きだった。それを――思い出したくない形で、終わらせた」
「やっぱりね」
奈都は満足そうに頷いた。仮説が当たっていた時の顔。普段の奈都はそれほど感情を見せないが、こういう瞬間だけは分かりやすい。
「じゃあ、赤を取り戻す方法は?」
篠宮が核心を聞いた。
「本人がその"思い出したくない何か"と向き合い直すこと。脳が遮断を解除するタイミングは、『もう見ても大丈夫だ』って判断した時。だから、本人が自分の気持ちを整理して、納得するまで戻らない」
「......自分で気持ちを整理する、か」
「そう。外からできるのは、そのきっかけを作ることくらい。誰かが『大丈夫だよ』って言っても、本人の脳が納得しない限りは何も変わらない」
奈都は少し言葉を選ぶような間を置いた。
「あとね、ちょっと悲観的なことを言うけど」
「......なんだよ」
「向き合っても、元通りになるとは限らない」
「どういうことだ」
「遮断した感情と向き合った結果、本人が『やっぱりこの感情はいらない』って判断することもある。そうすると、赤は戻らないまま、それが新しい当たり前になる。人間の脳はそこまで頑固」
篠宮が小さく呟いた。
「......私も、そうなのかな」
俺は一瞬、篠宮のほうを見た。
彼女は窓のほうを向いていて、表情はよく見えなかった。だが、そこに混じった一言が、妙に重く感じられた。
「篠宮さんは、ちょっと事情が違うと思うけど」と奈都がすぐに続けた。
「志田さんのは後天的な遮断。篠宮さんのは生まれつき。メカニズムが同じかどうかは、正直、分からない。でも――」
奈都はそこで言葉を切って、ノートの角を軽く叩いた。
「もし同じなら、志田さんを助けるプロセスは、篠宮さんのヒントにもなるかもしれない」
篠宮は返事をしなかった。でも、顔を少しだけ伏せた。何かを小さく受け取った仕草だった。
この話が、実は志田真央一人の話じゃない、ということを、俺はこの瞬間に理解した。
篠宮にも関わる話だ。奈都は口にしないが、たぶん、それを前提に調べている。
そして――さっき奈都が言った、俺自身の「蓋」の話。
この三人全員が、違う形で「感情と色」の問題を抱えている。それぞれ違うけれど、どこかで繋がっている。
偶然の寄り合いだと思っていたこの集まりは、もしかしたら、必然だったのかもしれない。
俺は黙って奈都の話を聞きながら、胸の奥で違和感が膨らんでいくのを感じていた。
自分の気持ちと向き合う。言葉としては簡単だが、実際にやるのは難しい。難しいどころか、下手すると一生できないこともある。
俺がそれを、誰よりよく知っていた。
「ところでね」
奈都が急にトーンを変えた。俺のほうを見ている。
「今の話、ちょっと応用した話をしていい?」
「......いやな予感しかしないんだけど」
「感情に蓋をし続けると、脳が本当に感じなくなるっていう現象があるの。色みたいに具体的な形じゃないけど、感情そのものの処理が鈍くなる。学術的にはアレキシサイミアって言う。失感情症。自分の気持ちが自分で分からなくなる症状」
「......」
「重度になると病気だけど、軽度なものは結構いる。生きるために感情を切り離した人たちの中には、自分で気づかないまま"何も感じない日々"に慣れていっちゃう人が多い」
「......奈都」
「はい?」
「それ、なんで俺を見ながら話してるんだ」
「水無瀬くんのことだけど」
「やめろ」
俺は無意識に立ち上がりかけた。立たなかったが、姿勢が跳ねた。
奈都はそれを冷静に観察していた。観察しながら、少しだけ、申し訳なさそうな顔をしていた。悪気はない、というより、悪気を持つ機能が最初からあんまり搭載されていないタイプの人間だ、この子は。
「怒らせたいわけじゃないよ。ただね、水無瀬くんと志田さんは、たぶん同じ種類の"蓋"をしてる人だから。だから志田さんの問題を解くのは、ある意味、水無瀬くん自身の問題を考えることにもなる。そういう話」
「......」
「これはお節介じゃなくて、観察の結論。志田さんを助けたいなら、水無瀬くん自身も、自分の"別に"とちゃんと向き合ったほうがいい。少なくとも、完全に蓋をしたままだと、志田さんに届く言葉は見つからない」
奈都の声は淡々としていた。いつもの研究対象を見る口調。でも、今日の言葉は、俺の胸の一番深いところにまっすぐ刺さった。
隣の篠宮は、何も言わなかった。でも、その沈黙は、奈都の言葉を否定しない沈黙だった。篠宮も同じことを、たぶん前から感じていた。俺の「別に」の中身を、彼女はとっくに見抜いていた。
――俺は、自分の問題を抱えたまま、志田を助けようとしている。
その事実に、今さらながら気づかされた。
「......じゃあ」
俺はゆっくり息を吐いた。
「志田の赤を取り戻すには、あいつが恋心と向き合い直す必要がある。それは分かった」
「うん」
「......問題は、どうやって」
奈都は少しだけ間を置いて、それから静かに答えた。
「それを考えるのが、これからの仕事だと思う」
篠宮が小さく頷いた。
「私たち三人の、だね」
「そう。私たち三人の」
俺は図書室の天井を見上げた。蛍光灯の白い光が、少しだけ眩しかった。
志田を助けるために、俺は俺自身の中の「別に」と向き合わないといけないのかもしれない。向き合いたくない、というのが正直な気持ちだった。でも、向き合わないと、届かない言葉があるらしい。
――しんどい話だ。
心の中で、俺は小さく呟いた。
でも、しんどくても、やるしかないんだろう。




