篠宮の耳
火曜日の朝、篠宮はいつもよりも早く教室に来ていた。
俺が席に着くと、彼女はすでに自分の席で、窓の外ではなく、前を向いて座っていた。その姿勢自体が、いつもと少しだけ違う。何かを決めた顔、と呼んでいいのかもしれない。
俺が鞄を置くと、篠宮は小さな声でこう言った。
「水無瀬くん、今日の放課後、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど」
「......なんだ」
「美術部の展示作品を並べ替える予定なんだけど、その前に、志田さんに見てもらいたい絵があって。放課後、美術室に志田さんを連れてきてほしいの」
「志田を?」
「うん」
「......何するつもりだ」
「話してみる」
篠宮は短く答えた。
「私が、私のやり方で」
俺はそれ以上聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく分かっていた。昨日の図書室での奈都の話を聞いた後、篠宮は何か考えていたんだろう。帰り道も、いつもより口数が少なかった。俺が「考えごとか」と聞いても、「んー、ちょっとね」としか答えなかった。
今朝のこの静けさは、その考えごとの結論らしい。
* * *
昼休みに志田に声をかけた。
「放課後、篠宮が志田に見てほしいものがあるって言ってた。美術室に来てくれないか」
「篠宮さんが?」
「うん」
「......なんで私に?」
「分からない。でも、来てほしいって」
志田は少し考えてから頷いた。
「うん、行く」
何も聞かずに来てくれるのが、志田の強さだと思った。普段明るく振る舞うために必要な強さと、こういう時にもう一度ちゃんと立てる強さは、たぶん別物だ。志田には、後者もちゃんとある。
* * *
放課後、俺は志田を連れて美術室の前まで来た。
扉の向こうに篠宮がいる。いつもの美術準備室じゃなく、本室のほう。広い部屋に篠宮一人だろう。
俺は扉をノックした。「篠宮、連れてきた」
中から「どうぞ」と静かな声が返った。
扉を開けると、美術室は放課後特有の静けさに包まれていた。並んだイーゼル、描きかけのキャンバス、石膏像。窓からの光が斜めに差していて、床に長い影を作っている。篠宮はその光の中に立っていた。彼女の後ろには、グレースケールの絵が数枚、壁に立てかけてあった。彼女の絵だ。
「志田さん、来てくれてありがとう」
篠宮が静かに言った。それから、俺のほうに視線を向けた。
「水無瀬くん、悪いんだけど、外で待っててくれる?」
「......外?」
「うん。女子二人だけのほうが、話しやすいこともあるから」
志田は俺のほうを見た。少しだけ不安そうな顔。でも、篠宮の落ち着いた声が、その不安を少しだけ薄めていた。
「......分かった」と俺は答えた。
「廊下の窓のところにいるから、何かあったら呼べ」
俺は美術室を出て、扉を静かに閉めた。
* * *
廊下の窓辺に背中を預けて、俺は待つことにした。
外では風が強く吹いていて、窓ガラスが時々小さく鳴っていた。4月も終わりかけで、5月の気配が少しだけ混じり始めている。空は曇っていた。灰色の雲が薄く広がっていた。
――志田の目にも、この空は灰色に見えているんだろうな。
俺にとっては灰色と認識している色の中に、実は赤の残響みたいなものがあって、でも志田の目にはその残響もない。同じ空を見ているはずなのに、俺たちが見ているものは違う。
考えながら、俺は美術室の扉を振り返った。
中からは何も聞こえなかった。最初の数分は。
やがて、かすかに、篠宮の声が聞こえた気がした。扉越しだから、具体的な言葉は分からない。ただ、低くて穏やかなリズムだけが、扉の向こうから漏れていた。志田の相槌らしき声も、時々混じった。
俺は扉から少し離れた。
聞こうと思えば、もう少し扉に近づけば聞こえたかもしれない。でも、それは違う気がした。篠宮は「女子二人だけ」と言った。その意図を尊重するのが、俺の役目だ。
――篠宮は、何を話すつもりなんだろう。
俺は志田のこともそうだが、篠宮のことが気になっていた。
第一、彼女は俺以外の誰にも「色が見えない」ことを話していないはずだ。それは先週、あいつ自身がはっきり言っていた。「知られるとみんな急に優しくなる」「同情されるのが一番嫌」と。
それなのに今、美術室の中で、志田と二人で話している。話の内容は分からないが、選択肢は二つだ。一つは自分のことを話さないで、別の角度から志田に寄り添う方法。もう一つは――自分の秘密を、志田に明かす方法。
どっちを選んだのか、俺には分からない。でも、なんとなくの予感として、後者な気がした。
篠宮は、たぶん、今日自分のルールを一つ破る覚悟で来ている。
そう思ったら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
篠宮にとって、自分のことを話すのは、俺にとって自分のことを話すのと同じくらい――いや、もしかしたらそれ以上に――大きなことかもしれない。それを志田のためにやろうとしている。
俺がファミレスで志田に「俺も"別に"って言う」と言ったのと、同じ種類の覚悟だった。
俺は廊下の窓を背にして、床の一点を見つめていた。
たぶん、篠宮は俺に聞かずにあの決断をした。事前に「実は志田に話すつもりだ」と相談する選択肢もあっただろう。でも、しなかった。相談したら、俺がたぶん止めた気がする。「無理しなくていい」とか、「他に方法があるはずだ」とか、そういう浅い優しさを言ってしまいそうだった。
篠宮はそれが分かっていたから、相談しなかった。
――ずるいな、と思った。
相談してくれた方が、俺は安心できた。でも、相談しないで決めた篠宮のほうが、たぶん、志田のためには正しい。
奈都の言葉がまた頭によぎった。「助けてほしい人」じゃなくて「聞いてほしい人」。志田はたぶん、「誰かに助けてもらいたい」よりも「誰かに聞いてもらいたい」ほうが強い。そして、聞き手として一番信頼できるのは、俺じゃなくて篠宮のほうだ。
俺は廊下の壁にもたれて、天井の蛍光灯を見上げた。
光が強くて、少しだけ目が痛くなった。
* * *
どれくらい経ったか分からない。15分か、20分か。
風の音が少し強くなった。廊下の窓が小さく震えた。
その時、美術室の扉の向こうから、小さな音が聞こえた。
声じゃなかった。もっと小さい、何かを呑み込むような、短い息遣いのような音。
俺は扉のほうに近づいた。耳を近づけるのはしなかったが、ドアノブに手をかけて、少しだけ躊躇した。
――入っていいのか?
篠宮は「女子二人だけで」と言った。でも、さっきの音は、何かが壊れた時の音に近かった。壁じゃなく、人の心が。
迷って、俺はノックした。小さく、二回。
返事はなかった。
もう一度ノックした。
それでも返事はなかった。
俺はドアノブをゆっくり回して、扉を開けた。
* * *
美術室の中の光は、来た時よりも少し黄色くなっていた。夕方の光だ。
志田は椅子に座っていた。膝の上に両手を置いて、顔を下に向けていた。
泣いていた。
音を立てずに、ただ涙だけが頬を伝って、握りしめた拳の上に落ちていた。
篠宮はその隣に立っていた。何も言わずに、志田の肩に軽く手を置いていた。志田を抱きしめるわけでも、慰めの言葉をかけるわけでもない。ただ、そこに「いる」ことだけをしていた。
俺は扉を開けた姿勢のまま、しばらく動けなかった。
志田が顔を上げた。目が赤い。涙で濡れた目元。
――いや、「目が赤い」と思ったのは俺だけだ。志田自身の目には、自分の目の色は見えていない。
志田が泣くと、頬を伝う涙は、彼女にとって何色なんだろう。赤がないなら、涙の色も、夕日を反射したピンクも、全部がグレーに落ちる。同じ涙を、俺と志田は違う色で見ている。
そんなことを一瞬で考えて、俺は自分の思考が現実逃避しかけているのに気づいた。
篠宮がこちらを見た。少しだけ目で合図する。「入っていいよ」の合図。
俺は静かに扉を閉めて、美術室の中に入った。
篠宮のほうから、小さな声が聞こえた。
「水無瀬くん。志田さん、少しだけ話してくれたの」
「......」
「私のことも、話した」
「......」
「ごめんね、勝手に」
謝る篠宮のほうを、俺はしばらく見ていた。
謝ることじゃない、と言おうとして、うまく言葉が出てこなかった。だから俺は、ただ首を横に振った。
――ありがとう、という言葉のほうが、今の俺には近かったかもしれない。でもそれも、うまく言えなかった。
志田はまだ顔を下に向けたまま、小さな声で言った。
「......水無瀬」
「なんだ」
「......篠宮さん、すごいね」
掠れた声。でも、その一言には確かな何かがあった。
「うん」
俺は短く答えた。
本当に、そう思っていた。
志田はそれから、しばらく何も言わなかった。
篠宮は志田の肩から手を離して、静かに自分の絵のほうへ戻った。壁に立てかけた一枚を、そっと持ち上げて、志田のほうに向ける。モノクロの絵。光と影だけで描かれた、誰かの背中の絵だった。
「これ、志田さんに見せたかったの」
志田は涙の残った目で、その絵を見た。
「......これ、誰?」
「私の、過去の自分」
篠宮はあっさり言った。俺は一瞬、息を止めた。
「過去の?」
篠宮は少しだけ黙って、それから、いつもの穏やかな声で続けた。
「......志田さん。私ね、いつも人には『生まれた時から色が見えない』って言ってるの。水無瀬くんにも、そう話した」
俺は思わず篠宮を見た。
篠宮は俺のほうを見ずに、志田だけを見ていた。
「でも、本当は、ちょっとだけ違うの」
「......違う?」
「小さい頃、ほんの少しの期間だけ、色が見えてた記憶があるの。たぶん、幼稚園に上がる前か、上がったばかりの頃か。はっきりは覚えてない。夢だったんじゃないかって思うくらい、ぼんやりした記憶」
志田は目を見開いた。俺も息を呑んでいた。
「でもね、ある日、それが一度に消えたの。何があったかは、覚えてない。気がついたら、世界が灰色になってた。それが、私の知ってる"最初の世界"」
「......」
「だから、私はずっと『生まれた時から見えない』って言うことにしてた。そのほうが楽だから。"失ったもの"を数えないで済むから。『最初からなかったんだ』って思うほうが、ずっと平和に生きられるの」
篠宮の声は、淡々としていた。でも、その淡々さの奥に、何年分もの静けさが積もっていた。
「今日までずっと、誰にも言ってなかった。水無瀬くんにも、お母さんにも。私の中にだけしまってた」
俺は何も言えなかった。
前に美術準備室で、篠宮は「生まれた時から色が見えない」と言った。あの時の静かな声を思い出した。あれは嘘じゃなかった。でも、全部の真実でもなかった。篠宮は自分の中に、自分だけの辞書を持っていて、「生まれた時」という言葉を彼女なりに定義していた。"色を失った日"の後が、彼女にとっての"生まれた時"だった。
それを今日、篠宮は志田のために手放した。
自分の防衛的な物語を、初めて外に出した。
篠宮は絵の中の「背中」を指先で軽くなぞって、続けた。
「何があったかは分からない。でも、今思うとね、たぶん私、何か大事なものを閉じ込めたせいで、色を手放したんだと思う。忘れたくても忘れられないものを、色ごと閉じ込めちゃったの」
「......」
「だからね、志田さん。もし色が戻ってくるなら、私はそれを祝福したい。私が戻せなくても、あなたの色が戻るなら、それはきっと、素敵なことだと思うから」
志田はその言葉を聞いて、また少しだけ泣いた。
今度は、前のような無音の泣き方じゃなかった。小さく「うっ」と呼吸が詰まって、それからぼろぼろと涙が落ちた。
俺はその光景を、何も言えずに見ていた。
篠宮が志田に見せた絵は、篠宮自身の過去の背中だった。色のある世界を一瞬だけ生きた、小さな子供の頃の記憶。
そして、篠宮はその絵を、たぶん、ずっと大切にしまっていた。誰にも見せずに。俺にすら見せずに。
それを今日、志田に見せた。
志田のために、自分の一番奥にあるものを、差し出していた。
――俺は、まだ何も差し出せていない。
そう思いながら、俺はただ、その場に立っていた。立っていることしかできなかった。




