赤が消えた世界
木曜日の朝は曇りだった。
空が灰色がかっていて、教室の蛍光灯が普段より少しだけ眩しく感じる。こういう天気の日は、俺は割と好きだ。光の輪郭がはっきりしない分、世界の存在感が薄くなって、自分の存在感もそれに紛れる。
席に着くと、隣の篠宮はもう座っていた。今日は窓の外を見ていない。膝の上に小さなスケッチブックを広げて、何かをさっと描いている。鉛筆の動きが速い。たぶんクロッキーだ。対象は――目線の先を追うと、教室の前のほうに志田の背中が見えた。
俺が気づいたことに、篠宮はこちらを一瞬だけ見て、小さく首を振った。「今は何も言わない」の合図。
俺は黙って自分の教科書を開いた。
* * *
昼休み。
俺は弁当箱を持ったまま、今日は教室で食べることにした。いつもは廊下か空き教室に逃げるが、今日は志田の様子を見ていたかった。さりげなく、気づかれない距離で。
志田はいつものメンバーと机をくっつけて食べていた。俺の席の斜め前のほうだ。女子3人と志田の4人。話し声は俺の席まで届く。聞こうと思えば聞ける距離。
話題は、最初は昨日のテレビの話だった。それから服の話になって、週末に買いに行くとかいう話になって、いつの間にか恋愛の話に流れていった。
「ねえねえ、あたし最近、生徒会の3年の先輩がちょっと気になってて」
「え、マジで? 誰?」
「名前言えないよ、恥ずかしい」
「超気になるんだけど」
いつもの女子の会話だ。俺には無関係な話題。イヤホンをつけたふりをして、でもつけていない耳で、俺はその会話を聞いていた。
盛り上がる女子たちの中で、志田の反応が少しずつ薄くなっていくのが分かった。
最初は「ええー誰?」と聞き返していた。次は相槌だけになった。その次は、笑顔だけになった。最後には、弁当を食べるふりをして視線を下に落としていた。
そのタイミングで、友達の一人が志田に振った。
「そういえば真央は? 好きな人いないの?」
箸が止まった。俺の席からも、ほんの一瞬だけそれが見えた。志田の手が止まって、それから、ゆっくり動き出した。
「......いないかな。別に」
俺は、そこで弁当の卵焼きを取り落としかけた。
別に。
俺の口癖だ。全く同じ響き、全く同じ抑揚、全く同じ逃げ方。
志田の「別に」と俺の「別に」は、たぶん同じ種類の「別に」だった。誰かに話したくないことがあって、でもそれを「ない」と言うのは嘘になって、だから「別に」で曖昧に閉じる。その「別に」。
「えー意外! 真央って絶対好きな人いるタイプだと思ってた」
「いやいや、ほんと、今はいないよ。恋愛とかめんどくさいし」
「えっ、変わったね。去年は毎週恋バナしてたのに」
「去年はね......」
志田はそれ以上言わなかった。
友達はすぐ別の話題に移った。志田はその別の話題に上手く乗って、また笑顔になって、また相槌を打った。
でも、俺には分かった。
彼女はさっき、確実に何かを避けた。
そして、その何かは、俺の避けているものと同じ種類のものかもしれない、と思った。
* * *
5限目も6限目も、俺は頭の半分で志田のことを考えていた。
残りの半分は、篠宮のことを考えていた。
篠宮は今日の朝、席に着くなり志田をクロッキーしていた。あれはたぶん、篠宮なりの観察方法だ。鉛筆で輪郭を追うことで、相手の「薄さ」を自分の手の感覚で確認している。
俺の「目」と、篠宮の「手」。
俺たちは、たぶん二つで一つの観察者になっていた。片方だけじゃ、足りない。
放課後のチャイムが鳴った。
俺は鞄を持って立ち上がると、いつもの逆方向に歩き出した。美術準備室じゃなくて、志田の席のほうへ。
志田は鞄に教科書を詰めているところだった。俺が近づくと、気づいて顔を上げた。
「あ、水無瀬。どうしたの?」
「......ちょっと、聞きたいことがあって」
「なになに、珍しい。水無瀬が話しかけてくるの」
志田はいつも通り明るく言った。でも、目の奥に少しだけ警戒の色があるのを、俺は見逃さなかった。
俺は深呼吸した。どう聞いていいのか、正しい言葉が見つからない。でも、回りくどいことを言っても仕方ない。志田相手には、直球のほうがたぶん伝わる。
――俺は、いつから「誰かに踏み込もう」なんて思えるようになったんだろう。
考えながら、自分で少しだけ驚いていた。つい一週間前の俺なら、同じクラスのやつの異変に気づいても、見なかったことにして帰っていたはずだ。「別に」「関係ない」で済ませて。
それが、今は踏み込もうとしている。
篠宮の「聞いてくれたから」という言葉が、たぶん、俺の中の何かを動かしていた。聞く、というのが思ったより大事なことらしい、というのを知ってしまったのだ。
知ってしまったら、知らなかった頃には戻れない。
「なあ、志田。最近――色が、変に見えたりしないか?」
我ながら、訳の分からない質問だった。
志田は一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「色? 何それ」
「うまく説明できないんだけど。例えば、今まで綺麗に見えてたものが、最近あんまり綺麗に見えないとか。そういうこと、ないか」
志田の笑顔が、少しだけ固まった。
笑顔のまま、でも目だけが、一瞬遠くを見た。
それから、ゆっくり、言った。
「......なんで、それ、聞くの」
「勘だよ。気になっただけ」
「勘って」
「......答えたくないなら、別にいい」
俺は本当に、答えたくないなら引こうと思っていた。
でも、志田は首を小さく横に振った。引き出しを開けるみたいに、ゆっくりと。
「そういえばね」
「うん」
「最近、夕焼けが、あんまり綺麗に見えないの」
「......夕焼け」
「うん。前はね、『わー綺麗ー』って思ってたんだけど、最近は、なんか......灰色っぽいっていうか。これ夕焼けだっけ? って、確認しないと分かんない時がある」
俺の背中に、すっと冷たいものが走った。
夕焼け。灰色。確認しないと分からない。
それは、まさに、篠宮が毎日見ている世界に――近いものだった。篠宮はすべての色が灰色の濃淡で見えている。志田は、たぶん、特定の色だけが。
たぶん、赤だ。
夕焼けの赤が、志田の目には灰色に見えている。
「他にも、赤いもの、灰色に見えてないか?」
「......え、なんでそれ分かるの?」
「分かるっていうか、推測だけど」
「信号の赤とかね......最近、見づらくて。青と赤が一瞬分かんなくなる時がある。あと、自分の血ね。この前指切ったんだけど、血が赤く見えなくて。変だなって思ってた。疲れてるのかなって」
志田の声が、だんだん不安そうになっていった。言葉にすることで、初めて彼女自身が「自分の異変」を認識し始めていた。気のせいじゃなくて、本当に何かがおかしい、と自覚し始めた顔。
俺はすぐに決めた。
「ちょっと、付き合ってくれないか。話したいやつが二人いる」
「話したいやつ?」
「信じがたい話をするかもしれない。でも、その二人なら、あんたの状況を一緒に考えられる」
志田は少しだけ迷う顔をして、それから頷いた。
たぶん、一人で抱えるのが、そろそろ限界だったんだろう。
* * *
俺は志田を連れて、まず図書室に行った。奈都の定位置だ。予想通り、奈都は一番奥の席で新書を読んでいた。声をかけると、顔を上げて、俺と志田を見て、少しだけ眉を上げた。
「水無瀬くんが誰かを連れてくるなんて、珍しいね」
「話がある。場所、変えていいか」
「どうぞ」
奈都は本に栞を挟んで、立ち上がった。
次に美術準備室へ。志田は扉の前で少しだけためらった。
「ここ、美術部の子が使ってるやつ?」
「まあ、そんな感じ。中にもう一人、話に加わってもらうやつがいる」
「誰?」
「篠宮」
「......篠宮さん? 話したことない」
「俺もこの前まで話したことなかった」
扉を開けると、篠宮はいつもの窓際に座っていた。俺と奈都と志田の三人が入ってくるのを見て、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに落ち着いた表情に戻った。
俺は手短に、志田にここまでの経緯を説明した。篠宮が志田の異変に気づいたこと。俺も感じていたこと。今日、志田の話を聞いて、たぶん特定の色が見えなくなっている可能性があること。
奈都が話を聞きながら、目の奥に光が灯るのが分かった。心理学オタクの好奇心の光。俺はそれを頼もしいと思うべきか、ちょっと引くべきか、いつも迷う。
「色が見えなくなる、か」
奈都はそう呟いて、顎に手を当てた。しばらく考えてから、ゆっくり口を開いた。
「志田さん、ちょっと確認させて。眼科、行ったことある?」
「......ない。そんな大したことだと思ってなかったから」
「うん。行ってもいいけど、たぶん異常は出ないと思う」
「え」
「これね、目の問題じゃないの。たぶん、脳の問題」
奈都が鞄から手帳を出して、さらさらと何か書き始めた。俺と篠宮は横から覗き込む。志田は椅子に浅く腰掛けて、手を膝の上で組んでいた。指先が少しだけ白くなっていた。
「人間の目ってね、光の波長を受け取るだけなの。それを"赤"とか"青"に変換してるのは脳。具体的には後頭葉のV4野っていう領域。つまり、色って目で見てるんじゃなくて、脳が作ってるの」
「......へえ」
「で、面白いのはね、このV4野のすぐ近くに、感情を処理する扁桃体があるってこと。色と感情は、脳の中で物理的に繋がってる。近所同士、配管がそのまま繋がってる感じ」
奈都は手帳を見せた。そこには大雑把な脳の図と、二つの領域に矢印が引かれていた。下手な絵だったが、意味は伝わった。
「それで?」
「ストレスで胃が痛くなるでしょ? 極端な緊張で足が動かなくなることもある。これって、胃や足に異常があるわけじゃなくて、脳が心の負荷を身体の症状に変換してるの。もっと極端なケースだと、目に異常がないのに見えなくなったり、耳に異常がないのに聞こえなくなることもある。脳が"これ以上処理したくない"と判断して、感覚ごと遮断するの」
「......そんなこと、あるの?」
「ある。実例がいくつも報告されてる。珍しいけど、あり得ないことじゃない」
奈都はまっすぐ志田を見た。
「志田さんのは、たぶんその応用。脳が、特定の感情を処理しきれなくなって、その感情と直結した色の処理ごと遮断した。赤は、情熱とか、恋とか、そういう感情と繋がってる色。だから、もし志田さんが最近、強い恋愛感情に関することで何かあったんだとしたら――脳がそれを"見たくない"って判断して、赤を消したのかもしれない」
「......恋愛感情」
志田が小さく繰り返した。その呟きに、明らかな反応があった。
俺は昼休みの「いないかな。別に」を思い出した。あの「別に」が、全ての始まりだったのかもしれない。
志田の顔が、ゆっくりと青ざめていった。
青ざめた、と俺の目には見えた。志田の目には、たぶん、自分の顔色は分からないだろう。
志田は俺のほうを見て、それから篠宮を見て、最後にもう一度奈都を見た。声が震えていた。
「赤が見えないって......どういうこと? 私、これから、どうなっちゃうの?」
答えを持っている人間は、この場にいなかった。奈都の仮説はまだ仮説だし、俺は何も知らない。
でも、一人だけ、違う種類の答えを持っている人がいた。
篠宮が静かに口を開いた。
「大丈夫」
志田が篠宮のほうを見る。
「私はずっと、色が見えないけど、ちゃんとここにいるよ」
その声は、慰めじゃなかった。同情でもなかった。
ただの、事実だった。
生まれてからずっと色のない世界で生きてきた一人の人間が、目の前で震えている一人の人間に、「私は、ここにいる」と言った。それだけ。
志田の瞳が、ほんの少しだけ、揺れた。




