心理学オタク
金曜日の昼休み。
珍しく、航平がサッカー部の連中に捕まらずに済んだらしく、「今日は食堂で食おうぜ」と誘われた。俺は別にどっちでもよかったが、美術準備室に昼休みに顔を出すのもなんだか違う気がしたので、素直に航平について食堂まで行った。
食堂は相変わらず騒がしい。ラーメンと日替わり定食と、あとはカレー。安い。そしてうるさい。この二つが食堂の特徴だ。
俺はかけうどんを頼んで、航平はしょうが焼き定食を頼んだ。2階の窓際の席を確保して、向かい合って座る。航平は「やっぱり部活後じゃないとしょうが焼きがうまく食えない」と謎のこだわりを披露している。今日は部活後じゃないから妥協らしい。
「お前、最近元気そうだな」
航平がしょうが焼きを一枚口に入れながら言った。
「そうか」
「そうだろ。先週まで死んだ魚の目してたのに、今週はちょっと生きてる」
「死んだ魚って......」
「冷凍の魚っていうか。解凍したての」
「情報が細かい」
「ちゃんと観察してんだよ、幼馴染だからな」
「別に観察されたくない」
「"別に"って、お前またそれか」
「悪いか」
「悪くない。ただ、そろそろレパートリー増やしてもいいと思うけどな」
航平がしょうが焼きの残りを一気にかき込んだ。頬張りながら「あちっ」と言っている。無言の抗議にはなっていない抗議だった。
俺は黙ってうどんをすすった。
航平が言う「生きてる」が、具体的にどの部分を指しているのかは分からない。でも、思い当たる節はあった。
ある。もちろん、ある。でも、それを認めるのは嫌だった。認めたら、航平に話さなきゃいけない雰囲気になる。そういう話を、まだしたくない。というより、話す言葉を持っていない。
「最近、色が見えない子と毎日放課後会ってるんだよ」――そう言えばいいのか?
口の中でその文章を組み立ててみて、俺はうどんを飲み込みながら小さく首を振った。無理だ。言葉にした瞬間、何かが壊れる気がする。
「――水無瀬くん、こっち座っていい?」
突然、頭の上から声が降ってきた。
視線を上げると、隣のクラスのやつ――じゃなかった、同じクラスの女子が、お盆を持って立っていた。
日下部奈都。
図書委員。静かだが、目が鋭い。いつも分厚い新書を持ち歩いていて、休み時間にもそれを読んでいる。同じクラスになってまだ二週間くらいなのに、俺が彼女について知っているのはそれくらいだ。
そして、日下部奈都は返事を待たなかった。
「ありがと」
と言って、俺の隣に勝手に座った。
航平が「お、日下部じゃん」と笑う。
「日下部って、図書室以外にもいるんだな」
「食堂って大体一日一回は来るよ。柊くんこそ、今日は部活後じゃないんだ?」
「オフ。監督が生徒会に呼ばれてる」
「あー、文化祭の件」
「さすが情報早い」
そういえば、と俺は思い出した。
去年、1年生の時、航平と日下部は文化祭実行委員で一緒だったらしい。航平のほうはサッカー部の練習が本格化して途中で辞めたと聞いているが、二人が話している姿は廊下で何度か見かけた気がする。俺は委員会の類を全部サボったから、どんなやりとりをしていたかまでは知らない。だが、一応の顔見知り、という関係性は二人の間に去年から築かれていたらしい。
だから航平が日下部に「日下部」と呼び捨てで話しかけるのも、日下部が航平に「柊くん」とすぐに応じるのも、俺が思っていたほど唐突ではなかった、ということだ。
俺だけが、ほぼ初対面に近かっただけで。
奈都はうどんを持っていた。かけうどん、俺と同じメニュー。彼女はそれを一口すすって、涼しい顔で言った。
「水無瀬くん、最近放課後いつもどこ行ってるの?」
しまった、と思った。
うどんを噛んでいた口が止まった。ごまかす時間を稼ぐために、もう一度うどんを噛み直す。奈都は俺の横顔を、表情を変えずにじっと観察している。俺の反応を一つひとつ記録するような視線だ。
航平が横から助け舟を出してくれた。
「こいつ、どうせまた屋上の非常階段だろ」
「違うよ。あそこにはもう行ってない」
「え、マジ?」
「......今はもっと静かな場所にいる」
「日下部、すげえな。俺、こいつの新しい隠れ家知らなかった」
奈都が口元だけで微かに笑った。本当に微かだ。気づかない人は気づかないレベルの、小さな勝利のような笑い方。
「一応ね、観察してるから。最近水無瀬くん、放課後すぐ教室出るでしょ。前はもっとダラダラしてたのに」
「......観察って、気持ち悪いな」
「趣味なの。人間観察」
さらっと言われた。自覚があるのが逆にたちが悪い。
「水無瀬くんって、典型的な回避型愛着スタイルだよね」
唐突に、奈都がそう言った。
俺は反応に困った。航平が笑い出した。
「あー、出た。日下部の分析」
「知ってる言葉で言われた気もするし、知らない言葉の気もする」
「回避型愛着スタイル。知ってる?」
「知らない。聞いたこともない」
「んー、簡単に言うとね、他人と親密になるのを無意識に避ける人のこと。深い関係を作ると傷つくかもしれないから、最初から距離を置いて、"別に"とか"普通"で感情を流す。心当たりある?」
「......やめろ」
「図星じゃん」
「やめろって言ってるだろ」
航平がしょうが焼きで口をいっぱいにしながら、顔を赤くして笑っている。笑いすぎて米粒を吹きそうになっている。俺は航平の汚い口元を無視して、うどんに集中することにした。
「ちなみにね、回避型の人にはいくつかパターンがあって――」
「黙れ」
「――でも水無瀬くんのは"かつて感情的な選択を強いられた経験"が原因になってるタイプじゃないかなって思うの。子供の頃、親とか、大事な人の間で、どっちかを選ばされた経験があると、強い感情を持つこと自体が怖くなって――」
「日下部」
俺は箸を止めて、奈都のほうを見た。
奈都は俺の目を真っ直ぐ見返してきた。怒らせようとしているわけじゃない。悪意もない。ただ、自分の仮説が当たっているかどうかを確認したいだけの顔だった。研究対象を見る顔。
そして、その顔が少しだけ怖かった。
怖いというのは、彼女が怖いわけじゃない。当たっていることが怖いのだ。
航平がそれまで笑っていた顔を、ちょっとだけ止めた。さっきまで米粒を吹きそうだったはずの航平が、今は何も言わずに俺と奈都を交互に見ている。
航平は知っている。俺の両親の話を。中学の時に一度だけ話したことがある。あの時の航平は「そっか」とだけ言って、それ以上何も聞かなかった。今も、それ以上聞かない。
だから俺は航平が嫌いじゃない。
奈都は、航平のその変化にも気づいている。気づいた上で、分かった上で、それでも「研究対象」として俺を見ている。悪意はない。本当にない。それが逆に質が悪かった。
俺は少し息を吐いた。
「......それ、全部推測だろ」
「うん」
「当たってるかどうか、俺も言う気はないけど」
「言わなくていいよ。目で分かるから」
「目が語りすぎだ、お前の場合」
「観察力、自慢なの」
そう言って、奈都はまたうどんをすすった。
航平はその間もずっと笑っていた。笑いすぎて涙が出てきている。「お前ら、いいコンビだな」と言って肩を震わせている。
いいコンビって何だ。訂正する気力も出ないので、俺は黙って残りのうどんを飲み干した。出汁がぬるくなっていた。
* * *
午後の授業が終わって、放課後になった。
俺はいつものように鞄を持って、廊下に出た。今日も目的地は決まっている。4階の突き当たり、美術準備室。
階段を上がっている途中で、ふと気配を感じて振り向いた。
下の階から、奈都がゆっくり上がってきていた。
「......なんだよ」
「同じ方向なだけだよ」
「嘘つけ。図書室は2階だろ」
「今日は特別」
階段の途中で立ち止まる俺のそばを、奈都がすり抜けようとした。俺は反射的に手を伸ばして、その進路を軽く塞いだ。
塞いだ、というほど強くはない。ただ手のひらを階段の手すりに置いただけだ。でも奈都は止まった。
「......ついてくるなよ」
「大丈夫、今日は図書室」
「は?」
「昼のは冗談。4階は通らないよ。3階の音楽室の横通って、渡り廊下から行く」
「遠回りだろ」
「うん、でも今日は少し歩きたい気分なの」
奈都は俺の顔を見ないで、手すりに手を置いたまま、独り言のように言った。
「水無瀬くんの"秘密の場所"、いつか教えてね」
俺は何も言わなかった。答えないことが答えだ。奈都もそれが分かっているのか、それ以上は押してこなかった。
階段の中ほどで、奈都は俺の横をすり抜けて上がっていった。本当に3階の廊下のほうに曲がって、4階には来なかった。
数歩進んでから、奈都はもう一度立ち止まって、振り返った。
「水無瀬くん」
「......まだ何かあるのか」
「ちょっと気になることがあって」
「何」
奈都は、少しだけ声のトーンを落とした。さっきまでの、俺をからかう時の軽さが消えて、いつもの図書室で本を読んでいる時のような、静かな声になった。
「志田さん、最近気にならない?」
「......志田?」
「うん。なんか、ちょっと......変じゃない?」
俺は一瞬、返事を忘れた。
変。その言葉が、妙に頭の中に残った。
志田真央。同じクラスの、明るくて元気な女子。朝、「水無瀬おはよー」と手を振ってきた女子。
――変、か。
言われてみれば、今日の朝、手を振ってきた彼女の声が、いつもよりほんの少しだけ、低かった気がした。ほんの少しだけ。気のせいかもしれないレベルで。
「......何が変なんだ」
「分からない。だから気になる。水無瀬くんにも、もし同じクラスだから、気にしておいてほしくて」
「なんで俺に」
「水無瀬くんは、人の表情の変化には鈍くないから」
奈都が言う「鈍くない」という言葉が、妙に気になった。鈍くない、と言われたのは、たぶん初めてだ。普段の俺は、クラスの空気にも、他人の機嫌にも、鈍感な側の人間のはずだ。少なくとも自分ではそう思っている。
でも奈都は「鈍くない」と言った。たぶん、それは俺自身の評価じゃなく、彼女が観察した結果だ。俺が「自分のこと」には鈍感で、「他人のこと」には意外と敏感だと、彼女は見抜いているらしい。
嫌なやつだな、と思った。でも、嫌いにはなれなかった。
言うだけ言って、奈都は今度こそ立ち去った。
3階の廊下に消えていく背中を、俺はしばらく見送った。
そして、4階を目指して階段を上がり直した。
でも、頭の中には奈都の最後の言葉が残っていた。
志田さん。変。
階段を上がりきった頃には、俺は志田の顔を、朝の手の振り方を、昼休みの笑い方を、何度か思い返していた。
朝のあれは、確かにいつもの志田とちょっと違った。声のトーンがほんの少し低くて、手の振り方に前ほどのキレがなかった。言葉にすれば「疲れてる」で済む範囲だけど、疲れている志田というのは、俺の知る限り見たことがない。あいつはたぶん、疲れていても「疲れてない」と言える種類の人間だ。
それが、今朝は無言だった。
ただ手を振って、「おはよう」と言ったきりで、すぐに視線を逸らした。そういえば。
気のせいだといいな、と思った。
――思ったけど、気のせいじゃない気もしていた。




