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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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光で描く

気づいたら、美術準備室に通うのが日課になっていた。


 特別な約束をしたわけじゃない。彼女――篠宮彩羽(しのみやいろは)は、俺が来ても来なくても同じように絵を描いているし、帰る時も「またね」とは言わない。ただ、俺が扉を開けると顔を上げて、小さく会釈してくれる。それだけだ。

 でも、それだけで十分だった。

 俺はいつも入り口近くのイーゼルの陰に座って、文庫本を読むふりをしている。読むふり、というのは正しくないかもしれない。時々はちゃんと読んでいる。でも視線はすぐに本から離れて、彼女の横顔や、絵を描く手元や、窓から差す光の角度に向かう。

 その時間が、一日のうちで一番、呼吸が楽だった。


 航平(こうへい)は今週に入ってから、部活でほとんど毎日遅くなっている。昼休みもサッカー部の連中と食うことが増えた。俺のことを忘れたわけじゃなく、ただ、それぞれの時間が別の場所で流れ始めただけだ。

 普通なら寂しいと思うところなのかもしれない。

 ――でも、別に。

 いつもの「別に」が、今は少しだけ軽かった。行く場所がある、というのは、それだけで一日の重心を変えるらしい。


 月曜日は、篠宮(しのみや)が絵のモチーフに北窓の光を描いていた。

 火曜日は、石膏像のアポロンの顔。

 水曜日は、机の上に置かれた古い林檎もちろんモノクロ

 木曜日は、また窓。飽きないのか、と聞きそうになってやめた。彼女にとっての「窓」は、俺の知っている「窓」と同じものじゃないのかもしれない。時刻や天気で、窓から差し込む光は毎日違うはずだ。色のない世界で生きている人は、そういう差を俺より敏感に見ているのだろう。

 そう思うと、彼女が毎日「窓」を描き続けていることに、なんとなく納得がいった。


 * * *


 その日は、美術準備室に入るなり、篠宮が顔を上げて真剣な顔で俺を見た。

 少しだけ、嫌な予感がした。


水無瀬(みなせ)くん、お願いがあるの」

「......何」

「モデルになってほしいの」

「嫌だ」


 反射的に断った。

 篠宮は動じない。こういう時の彼女は、普段のぼんやりした雰囲気と違って、意外と押しが強い。


「お願い。今の光の角度、すごくいいから」

「光?」

「そう。私は色が描けないから、光で描くの」


 その言い方に、俺はちょっとだけ黙った。

 何の感傷もこもっていない声だった。「できないこと」を淡々と並べる、いつもの彼女の口調。腕が折れてるから字が書けない、くらいのニュアンスで言っている。

 その口調の裏で、一つの言葉が俺の頭に引っかかっていた。

 光で描く、という言葉。

 それはつまり――この子が描きたいのは、俺じゃない。

 俺の顔でもない。俺の頬の上に今、たまたま落ちている「光」だ。

 見られるのが嫌な俺にとって、それは思っていたよりずっと都合のいい話だった。俺自身に向けた視線じゃない。俺を通り過ぎていく光への視線。それなら、たぶん、耐えられる。

 断る理由が、一つ少なくなった。


「......どこに座ればいいんだ」

「そこの椅子。そのまま、動かないで」


 彼女が指さしたのは、窓から二メートルくらい離れた位置に置いてある木の椅子だった。座ると、斜め後ろから光が差す。頬のあたりだけ温かい。

 篠宮は自分のスケッチブックを新しいページに開いて、鉛筆を握り直した。


「じゃあ、描くから」

「......帰りたい」

「あと20分くらいで終わるから。お願い」

「20分も」

「本当は1時間くらいほしい」

「20分でいい」

「うん、20分でいい」


 妥協点を得たらしい。鉛筆が紙の上を走り出す音がした。

 俺はとりあえず窓の外を見て、じっとしていることにした。

 じっとしている、というのは意外と難しい。普段は意識しないけれど、人間の体は常に小さく動いている。瞬きとか、息とか、指の位置を変えるとか。モデルになると、そういう微細な動きが全部気になりだす。気になりだすと、かえって動いてしまう。


「水無瀬くん」

「......何」

「力入れすぎ。普通でいいよ、普通で」

「普通、が分からない」

「いつもの水無瀬くんで」

「......いつもの俺がどんなのかも、分からない」


 篠宮が小さく笑った。鉛筆の音は止まらない。


「じゃあ、今の顔のまま。ちょっと困ってるみたいな顔、ちょうどいい」

「困らせてるの、お前だろ」

「うん。でも、その顔がいいの」


 ずるい、と二回目に思った。


 * * *


 動かないようにしている間、俺はちらりとだけ視線を動かして、彼女のほうを見た。

 描いている篠宮の顔は、普段とは別人のようだった。

 いつもは、のんびりした目で、少し遠くを見るように世界を眺めている。誰かが話しかけたら、数秒遅れて穏やかに答える。そういう人だ。

 でも、絵を描いている時の目は違う。鋭い。明らかに、何かを見つめている。紙と現実を行き来しながら、俺の輪郭をなぞっている。

 口は軽く閉じて、眉が少しだけ寄っている。集中している時の顔。普段の彼女が「湖」だとしたら、今の彼女は「湖の底」みたいに、静かで深い場所にいる。

 俺は、少しだけ見惚れた。

 ――いや、違う。見惚れてない。ただ観察していただけだ。そう自分に言い聞かせて、また窓の外に視線を戻した。

 窓の外では、鳥が一羽、ゆっくり飛んでいた。灰色っぽい鳥。たぶん鳩だ。鳩はどの色にも混ざらない、中途半端な色をしている。今の俺と似ている。


 鉛筆の音が、少しずつリズムを変えていく。早くなったり、ゆっくりになったり、たまに止まったり。時々、消しゴムをかける音も混じる。

 ――消した部分は、今、描き直されたんだろうか。

 消しゴムをかける音がするたびに、そんなことを考えてしまう。俺のどこが、彼女の目には「描き直す必要がある」と映ったのか。気になった。でも聞けなかった。聞いたら集中を邪魔する気がしたし、たぶん答えてくれないだろうとも思った。


 時々、篠宮が顔を上げてこちらを真っ直ぐ見た。視線が合うのか合わないのか、よく分からない。俺の顔を「見ている」というより、顔の表面を走る「光の形」を見ているような視線だった。

 たぶん、俺という人間を見ていない。俺の顔に落ちている光を見ている。

 不思議と、不快じゃなかった。人に見られるのはいつも居心地が悪いのに、「人」として見られていないからか、今日は妙に落ち着いていた。

 光として見られるのは、人として見られるより、ずっと楽なのかもしれない。


 鉛筆の音が続く。窓の外の光がじわじわ色を変えていく。俺は動かないまま、たぶん何度も呼吸を忘れた。


 20分は意外と長かった。長かったが、嫌な長さじゃなかった。


「......はい、できた」

 篠宮がそう言って、筆をゆるめた。俺は固まっていた肩を回した。首を左右に振ると、ポキッと音が鳴った。


「見ていい?」


 聞いてから、自分で意外だった。普段の俺なら「見なくていい」と言って帰る場面だ。

 篠宮は嬉しそうにスケッチブックをこちらに向けた。


 そこに描かれていた俺は――

 俺じゃないみたいだった。


 いや、顔は確かに俺の顔だ。前髪の感じも、眠そうな目つきも、いつも口元で言葉を飲み込んでいるような輪郭も。鏡で見慣れた、あのどうでもいい顔。

 でも、何かが違う。

 光が、違う。

 斜め後ろから差し込む光の表現が、尋常じゃなかった。頬の輪郭を柔らかくなぞるグラデーション。髪の一本一本に落ちた光の線。制服の肩の影の深さ。それらが一つの絵の中に同居していて、全体がほんのり温かい。

 モノクロなのに、温かい絵だった。

 そんな矛盾したものが、目の前に存在していた。


 俺は自分の顔を、鏡以外でこんなに真剣に見たのは初めてだ。

 鏡の中の自分は、いつも少しだけ他人に見える。「こいつ、元気ないな」と他人事みたいに思う。でも、この絵の中の俺は、他人に見えなかった。不思議と、「これが俺なのかもしれない」と思った。普段の鏡よりも、よっぽど。

 誰かに「見られた」俺が、こんな顔をしているとは思わなかった。

 少しだけ寂しそうで、でも、棘がない顔だった。刺々しい感じも、突き放す感じもない。ただ、静かに窓の外を見ている男の子。

 ――こいつ、本当に俺なのか。

 そう思った瞬間、胸のあたりが軽く痛んだ。痛いというより、押された感じに近い。強く押されたわけじゃない。でも、確かに誰かの手のひらが、そこに触れた気がした。


「色がないのに......なんで、こんなに――」


 そこまで言って、俺は口を閉じた。

 なんで、こんなに、何だ。

 言いかけた言葉の続きが、自分でも分からなかった。「綺麗なんだ」と言うのは、なんだか嘘くさい気がした。でも、それ以外に当てはまる言葉も思いつかなかった。


 篠宮が、少し首を傾げた。


「なんでこんなに、なに?」

「......いや、別に」


 結局、いつもの逃げ方をした。

 篠宮は追及せず、ただ小さく笑っただけだった。「じゃあ、今日はここまで」と言って、スケッチブックを閉じた。


 * * *


 美術準備室を出て、廊下を歩く。

 教室に忘れ物を取りに行くつもりだった。1階に下りて、2年3組の前まで来て、扉を開けようとして、ふと足を止めた。

 誰もいない放課後の廊下。西日が窓から斜めに差している。

 窓の外を見ると、四月の終わりの空が、薄い赤と紫に染まり始めていた。

 俺はしばらく、その空を見ていた。

 何も考えずに。ただ、見ていた。


 ――綺麗だ、と思った。

 それが、たぶん久しぶりの感覚だった。


 夕焼けを見て「綺麗だ」と思ったのはいつ以来だろう。小学生の頃か、もっと前か。あまりにも昔すぎて思い出せない。

 今日の俺は、誰かの絵を見た後で、夕焼けを見て「綺麗だ」と思った。

 その順番は、偶然じゃない気がした。


「......なんだよ、これ」


 小さく呟いて、俺は教室の扉を開けた。

 忘れ物を取って、鞄に押し込んで、また廊下に出た。

 もう一度、窓の外を見た。

 空はまだ、綺麗だった。

 なんで綺麗だと思うのか、理由は分からない。たぶん、分からなくていい種類の感覚なんだろう。

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