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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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3/28

モノクロの世界

「色が見えない。......それは、どういう意味だ?」

 俺の問いかけに、彼女は小さく笑ってから、首を少しだけ傾げてこう言った。


「うん、見えないの。そのまま。......でも、今日はもう遅いから、帰ったほうがいいよ」


 もう一歩踏み込んで聞きたいことはあった。何色も見えないのか。病気なのか。いつからなのか。けれど、「帰ったほうがいいよ」の穏やかな声に押し戻されて、俺はそれ以上の言葉を呑み込んだ。


 窓の外を見ると、さっきまで床に伸びていた光の筋が、ほとんど消えかけていた。気づかないうちに、かなりの時間が経っていたらしい。

 帰る時、彼女は俺のほうを振り向かずに言った。


「鍵、私が閉めるから。先に出てていいよ」


 それだけだった。

 名前も聞かなかった。というより、聞けなかった。聞いたら、何か踏み越えてしまう気がして。廊下に出てから、俺は扉のプレートをもう一度見た。「美術準備室」。それ以上の情報はなかった。

 家に帰る道で、俺は何度か考えた。篠宮彩羽(しのみやいろは)航平(こうへい)の言っていた名前。同じクラスの、窓際の後ろのほうに座っている、話したことのない女子。

 ――あれで、合ってるよな。

 たぶん合っている。

 合っていて、どうするというわけでもなかったが。


 * * *


 翌日。

 朝のホームルーム中、俺は視線だけ動かして、隣の席をこっそり一度だけ見た。

 窓側後ろから二番目の俺の、ちょうど一つ廊下寄りの席。そこに篠宮彩羽は、いつもと同じように静かに座っていた。肩まで伸びた黒い髪。背筋はやけに真っ直ぐで、でも無理して伸ばしている感じじゃない。教壇の先生をぼんやり見ている。ノートに何か書いている気配はない。

 今まで、同じクラスで隣同士なのに、こいつのことを一度もちゃんと見たことがなかった。存在していないみたいに感じていた、というのは正しくない。俺が、存在していないことにしていたのだ。

 それが昨日を境に、急に「隣にいる人」になった。

 昨日の放課後のことが、夢だったんじゃないかと思うくらい、普通の教室の風景だった。

 昼休みには、彼女は一人で窓のほうを向いて弁当を食べていた。周りのグループには混ざらない。話しかける相手もいない。でも孤立している、というのとも違う。自分で選んで、そこに座っているように見えた。

 航平は今日もサッカー部の朝練で疲れているらしく、午前の授業中ずっとうとうとしていた。俺は航平にも誰にも、昨日のことを話さなかった。


 放課後のチャイムが鳴った瞬間、俺は鞄を掴んで立ち上がっていた。自分の動きの速さに、自分で少し驚いた。

 普段なら、教室から出るまでに5分くらいぼうっとしている。今日は違う。机の中に入れっぱなしだったノートを鞄に押し込みながら、もう廊下に向かって歩いていた。

 教室を出る瞬間、後ろのほうで椅子の動く音が聞こえた気がした。振り向こうかと思って、やめた。

 廊下の途中で、なんでこんなに急いでるんだ、と自分に問いかけた。

 別に、約束したわけじゃない。昨日、「また来ていい」と言われたわけでもない。ただ、昨日と同じ場所にあの人がいる気がしただけだ。

 気がしただけで、俺はもう階段を上がっている。

 誰かと目が合った気がした。見ないふりをして階段を上がった。

 4階の廊下は、昨日と同じように静かだった。音楽室のピアノの音すら、今日は聞こえない。

 美術準備室のノブに手をかける。今日も、鍵はかかっていなかった。


 薄暗い室内、奥の窓際。昨日と同じ場所に、彼女は座っていた。

 俺の気配に気づいて、ゆっくりと振り向く。スケッチブックを膝に乗せたまま、昨日と同じ穏やかな顔で。


「また来たの」


 責めているのでも、歓迎しているのでもない。ただ事実を確認するような口調。


「......静かだから」


 それしか言えなかった。本当の理由は、自分でも分からない。昨日の会話の続きが気になったのか、それともこの部屋の空気がもう一度欲しかったのか。たぶん両方だ。

 どちらにしろ、今日は「ここ、私の場所なんだけど」とは言われなかった。彼女は少しだけ微笑んで、また絵に視線を戻した。

 俺は昨日と同じ、入り口近くのイーゼルの陰に腰を下ろした。

 今日はすぐには本を出さなかった。膝を抱えて、床を見つめて、それから――自分から口を開いた。


「......昨日の、話だけど」

「ん?」

「色が見えない、っていうやつ」


 鉛筆を動かす音が一瞬止まった。でも、彼女はこちらを振り向かなかった。横顔のまま、描きながら答える。


「うん。そのまま。生まれた時から、色が見えないの」

「生まれた時から」

「うん。小さい頃はね、それが普通だと思ってたから、気づかなかったの。みんなが『空は青い』って言うのを、そういう言い方をするものなんだって思ってた」


 彼女の声は淡々としていた。悲劇を語る口調じゃない。昔の写真を見ながら「これ、何歳の時だっけ」と呟くような、穏やかな遠さ。


「いつ気づいたんだ」

「幼稚園の時かな。お絵かきの時間に、みんなが色鉛筆で空を青く塗ってて。私も塗ってみたんだけど、どれが青か分からなくて。先生に『この色どれ?』って聞いたら、先生が変な顔したの」


 静かに続ける。


「それで、お医者さんに連れて行かれた。眼科。大きい病院。いろんな検査をして、先生たちが首をかしげて。......結局、目には何の異常もないって言われた」

「目には、異常がない」

「うん。だから私の目は正常なんだって。じゃあ何でかって言われたら、誰にも分からない。ただ、色が見えないだけ」

「......それは、何色も?」

「うん。全部」


 さらっと言われた一言が、俺の中で奇妙な重さを持った。

 全部、色が見えない。生まれた時から。今、16年間ずっと。彼女が今、俺の横顔を見た時、俺はたぶんモノクロの写真みたいに見えている。髪の色も、肌の色も、制服の色も、全部同じ「灰色の濃淡」の中にある。

 それは想像がつかない。想像しようとすればするほど、想像できない自分が分かる。


「慣れたよ」

 俺が何も言えずにいると、彼女が先回りしてそう言った。


「よく言われるの。『大変だね』とか『かわいそう』とか。だからもう慣れたって答えることにしてる。本当はね、慣れたっていうのもちょっと違うの。だって最初から色がないから、失ったものがない。失ってないものには、慣れるも何もないじゃない?」


 彼女の声に、初めて少しだけ感情らしきものがのった。

 諦めでも、悟りでもない。ただ、少しだけ面白がっているような響き。自分の状況を外から見て、「変な話だよね」と笑っているような。


「......不便じゃないのか」

「不便だよ。信号の色が分からない。服のコーディネートが自分で決められない。給食のトマトとピーマンが見分けつかない時がある」

「給食」

「ピーマン嫌いなのに、トマトと間違えて食べたことがある」

「......それは、不便だな」

「でしょ」


 彼女が小さく吹き出した。俺も、ほんの少しだけ口元がゆるんだ。笑ったわけじゃない。でも、口の端が上がった。

 それだけのことなのに、自分でも驚いた。

 昨日、俺は夕焼けを見ても何も感じなかった。今日、誰かのピーマンとトマトの話で口の端が動いた。

 何だろう、この違和感は。


「ねえ」

 彼女がふと、鉛筆を止めて俺のほうを向いた。


「ちょっと聞いていい?」

「......何」

「赤って、どんな感じ?」


 思わず返事に詰まった。

 赤。赤がどんな感じか。そんなこと、改めて聞かれたことがない。

 赤は、赤だ。りんごの色。ポストの色。消火器の色。


「......赤は、赤だろ」

「それじゃ分からないよ」

「......言葉にすると、どうなるんだ」

「んー、本とかテレビでね、いろんな人が赤のことを話してるのを拾い集めてきたの。熱いとか、情熱的とか、怒ってるとか。派手とか。目立つとか。あと、血の色だから怖い、って書いてあるのも読んだ」

「......そんな感じだと思う」

「じゃあ、怒りっぽくて熱いんでしょ?」

「そう、なのかもな」

「ふうん」


 彼女は窓の外を見た。斜めから差し込む光の中で、目を細めている。


「じゃあ、今日の夕焼けはすごく怒ってるんだね」


 俺は反射的に窓のほうを振り返った。

 そういえば、もう夕方だ。窓の向こう、灰色のコンクリートの校舎の向こうに、赤く燃えるような空が広がっていた。

 赤。昨日、何も感じなかった色。

 今、彼女の言葉を頭の中で反芻しながら、その赤を見る。

 怒ってる。


 言われてみれば、そう見えなくもなかった。雲の縁が燃えて、空全体がじりじりと熱を持っているみたいに。静かな怒りというか、何かに抗議するみたいに、一日の終わりを拒絶するみたいに、赤が広がっている。

 今までの俺なら、夕焼けは「オレンジの空と雲」だった。それ以上でも以下でもなかった。

 でも今は、そこに「怒り」という言葉が貼り付いていた。彼女の言葉が、視界にフィルターをかけたみたいに。


 ――色って、そういう見方もあるのか。


 不思議な感覚だった。16年生きてきて、誰からも教わらなかったような、当たり前のことを初めて知った気がした。

 空は青い。夕焼けは赤い。信号は赤と青と黄色。当たり前の話だと思っていた。赤は赤で、それ以上の意味なんかないと思っていた。

 でも、色が見えない人にとって、色は「意味」でしか掴めない。赤は「熱い」で、青は「冷たい」で、黄色は「明るい」で。彼女は自分が一度も見たことがない色を、他人の言葉の中から組み立てて、自分の頭の中に描いている。

 赤が見えないということは、赤を意味でしか知らないということだ。

 逆に言えば、赤を見慣れすぎている俺は、赤の意味をとっくに忘れていたのかもしれない。


 俺は彼女のほうに視線を戻した。彼女はまた絵に向かっていて、鉛筆を走らせている。自分の発言が俺の中で何を起こしたか、気づいていないみたいに。

 いや、もしかしたら気づいていて、気づかないふりをしているのかもしれない。この人なら、それくらいやりそうな気がする。根拠はないが、そんな気がした。


 少しの間、沈黙が続いた。今日の沈黙は、昨日とはまた違う種類のものだった。


「......一つ、聞いていいか」

「うん」

篠宮(しのみや)は、俺以外に、色が見えないこと話してるのか?」


 彼女の手がまた止まった。今度は少しだけ長く止まった。

 そして、振り向いた。


水無瀬(みなせ)くんが、初めて」


 俺は自分の呼ばれ方に、遅れて気づいた。そういえば、名前はまだ名乗っていない。でも、同じクラスだから知っていておかしくない。

 それは、いい。問題はそこじゃない。

 初めて、という言葉のほうだ。


「......なんで、俺に」


 彼女は少しだけ首を傾げて、それから笑った。


「だって、聞いてくれたから。色のこと」


 その返事は、予想していたどれとも違った。

 同情されるのが嫌だから俺に話した、でもなく。誰かに話したかったから俺に話した、でもなく。

 「聞いてくれたから」。ただそれだけ。

 ほとんどの人は、「色が見えない」と聞いた瞬間に『大変だね』とか『かわいそう』とか言うのだろう。そういう言葉は、彼女にとって「聞いた」には入らないらしい。

 俺はたまたま、「それはどういう意味だ」と聞いた。聞き返しただけだ。優しさでも気遣いでもない。ただ意味が分からなかったから、分からないまま置いておけなかっただけだ。

 それを彼女は、「聞いてくれた」と呼ぶ。

 ――そうか。

 俺は窓の外の夕焼けを、もう一度見た。

 相変わらず赤くて、相変わらず怒っているように見えた。でも今日の俺は、昨日の俺と、ほんの少しだけ違う目で、それを見ているような気がした。

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