モノクロの世界
「色が見えない。......それは、どういう意味だ?」
俺の問いかけに、彼女は小さく笑ってから、首を少しだけ傾げてこう言った。
「うん、見えないの。そのまま。......でも、今日はもう遅いから、帰ったほうがいいよ」
もう一歩踏み込んで聞きたいことはあった。何色も見えないのか。病気なのか。いつからなのか。けれど、「帰ったほうがいいよ」の穏やかな声に押し戻されて、俺はそれ以上の言葉を呑み込んだ。
窓の外を見ると、さっきまで床に伸びていた光の筋が、ほとんど消えかけていた。気づかないうちに、かなりの時間が経っていたらしい。
帰る時、彼女は俺のほうを振り向かずに言った。
「鍵、私が閉めるから。先に出てていいよ」
それだけだった。
名前も聞かなかった。というより、聞けなかった。聞いたら、何か踏み越えてしまう気がして。廊下に出てから、俺は扉のプレートをもう一度見た。「美術準備室」。それ以上の情報はなかった。
家に帰る道で、俺は何度か考えた。篠宮彩羽。航平の言っていた名前。同じクラスの、窓際の後ろのほうに座っている、話したことのない女子。
――あれで、合ってるよな。
たぶん合っている。
合っていて、どうするというわけでもなかったが。
* * *
翌日。
朝のホームルーム中、俺は視線だけ動かして、隣の席をこっそり一度だけ見た。
窓側後ろから二番目の俺の、ちょうど一つ廊下寄りの席。そこに篠宮彩羽は、いつもと同じように静かに座っていた。肩まで伸びた黒い髪。背筋はやけに真っ直ぐで、でも無理して伸ばしている感じじゃない。教壇の先生をぼんやり見ている。ノートに何か書いている気配はない。
今まで、同じクラスで隣同士なのに、こいつのことを一度もちゃんと見たことがなかった。存在していないみたいに感じていた、というのは正しくない。俺が、存在していないことにしていたのだ。
それが昨日を境に、急に「隣にいる人」になった。
昨日の放課後のことが、夢だったんじゃないかと思うくらい、普通の教室の風景だった。
昼休みには、彼女は一人で窓のほうを向いて弁当を食べていた。周りのグループには混ざらない。話しかける相手もいない。でも孤立している、というのとも違う。自分で選んで、そこに座っているように見えた。
航平は今日もサッカー部の朝練で疲れているらしく、午前の授業中ずっとうとうとしていた。俺は航平にも誰にも、昨日のことを話さなかった。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、俺は鞄を掴んで立ち上がっていた。自分の動きの速さに、自分で少し驚いた。
普段なら、教室から出るまでに5分くらいぼうっとしている。今日は違う。机の中に入れっぱなしだったノートを鞄に押し込みながら、もう廊下に向かって歩いていた。
教室を出る瞬間、後ろのほうで椅子の動く音が聞こえた気がした。振り向こうかと思って、やめた。
廊下の途中で、なんでこんなに急いでるんだ、と自分に問いかけた。
別に、約束したわけじゃない。昨日、「また来ていい」と言われたわけでもない。ただ、昨日と同じ場所にあの人がいる気がしただけだ。
気がしただけで、俺はもう階段を上がっている。
誰かと目が合った気がした。見ないふりをして階段を上がった。
4階の廊下は、昨日と同じように静かだった。音楽室のピアノの音すら、今日は聞こえない。
美術準備室のノブに手をかける。今日も、鍵はかかっていなかった。
薄暗い室内、奥の窓際。昨日と同じ場所に、彼女は座っていた。
俺の気配に気づいて、ゆっくりと振り向く。スケッチブックを膝に乗せたまま、昨日と同じ穏やかな顔で。
「また来たの」
責めているのでも、歓迎しているのでもない。ただ事実を確認するような口調。
「......静かだから」
それしか言えなかった。本当の理由は、自分でも分からない。昨日の会話の続きが気になったのか、それともこの部屋の空気がもう一度欲しかったのか。たぶん両方だ。
どちらにしろ、今日は「ここ、私の場所なんだけど」とは言われなかった。彼女は少しだけ微笑んで、また絵に視線を戻した。
俺は昨日と同じ、入り口近くのイーゼルの陰に腰を下ろした。
今日はすぐには本を出さなかった。膝を抱えて、床を見つめて、それから――自分から口を開いた。
「......昨日の、話だけど」
「ん?」
「色が見えない、っていうやつ」
鉛筆を動かす音が一瞬止まった。でも、彼女はこちらを振り向かなかった。横顔のまま、描きながら答える。
「うん。そのまま。生まれた時から、色が見えないの」
「生まれた時から」
「うん。小さい頃はね、それが普通だと思ってたから、気づかなかったの。みんなが『空は青い』って言うのを、そういう言い方をするものなんだって思ってた」
彼女の声は淡々としていた。悲劇を語る口調じゃない。昔の写真を見ながら「これ、何歳の時だっけ」と呟くような、穏やかな遠さ。
「いつ気づいたんだ」
「幼稚園の時かな。お絵かきの時間に、みんなが色鉛筆で空を青く塗ってて。私も塗ってみたんだけど、どれが青か分からなくて。先生に『この色どれ?』って聞いたら、先生が変な顔したの」
静かに続ける。
「それで、お医者さんに連れて行かれた。眼科。大きい病院。いろんな検査をして、先生たちが首をかしげて。......結局、目には何の異常もないって言われた」
「目には、異常がない」
「うん。だから私の目は正常なんだって。じゃあ何でかって言われたら、誰にも分からない。ただ、色が見えないだけ」
「......それは、何色も?」
「うん。全部」
さらっと言われた一言が、俺の中で奇妙な重さを持った。
全部、色が見えない。生まれた時から。今、16年間ずっと。彼女が今、俺の横顔を見た時、俺はたぶんモノクロの写真みたいに見えている。髪の色も、肌の色も、制服の色も、全部同じ「灰色の濃淡」の中にある。
それは想像がつかない。想像しようとすればするほど、想像できない自分が分かる。
「慣れたよ」
俺が何も言えずにいると、彼女が先回りしてそう言った。
「よく言われるの。『大変だね』とか『かわいそう』とか。だからもう慣れたって答えることにしてる。本当はね、慣れたっていうのもちょっと違うの。だって最初から色がないから、失ったものがない。失ってないものには、慣れるも何もないじゃない?」
彼女の声に、初めて少しだけ感情らしきものがのった。
諦めでも、悟りでもない。ただ、少しだけ面白がっているような響き。自分の状況を外から見て、「変な話だよね」と笑っているような。
「......不便じゃないのか」
「不便だよ。信号の色が分からない。服のコーディネートが自分で決められない。給食のトマトとピーマンが見分けつかない時がある」
「給食」
「ピーマン嫌いなのに、トマトと間違えて食べたことがある」
「......それは、不便だな」
「でしょ」
彼女が小さく吹き出した。俺も、ほんの少しだけ口元がゆるんだ。笑ったわけじゃない。でも、口の端が上がった。
それだけのことなのに、自分でも驚いた。
昨日、俺は夕焼けを見ても何も感じなかった。今日、誰かのピーマンとトマトの話で口の端が動いた。
何だろう、この違和感は。
「ねえ」
彼女がふと、鉛筆を止めて俺のほうを向いた。
「ちょっと聞いていい?」
「......何」
「赤って、どんな感じ?」
思わず返事に詰まった。
赤。赤がどんな感じか。そんなこと、改めて聞かれたことがない。
赤は、赤だ。りんごの色。ポストの色。消火器の色。
「......赤は、赤だろ」
「それじゃ分からないよ」
「......言葉にすると、どうなるんだ」
「んー、本とかテレビでね、いろんな人が赤のことを話してるのを拾い集めてきたの。熱いとか、情熱的とか、怒ってるとか。派手とか。目立つとか。あと、血の色だから怖い、って書いてあるのも読んだ」
「......そんな感じだと思う」
「じゃあ、怒りっぽくて熱いんでしょ?」
「そう、なのかもな」
「ふうん」
彼女は窓の外を見た。斜めから差し込む光の中で、目を細めている。
「じゃあ、今日の夕焼けはすごく怒ってるんだね」
俺は反射的に窓のほうを振り返った。
そういえば、もう夕方だ。窓の向こう、灰色のコンクリートの校舎の向こうに、赤く燃えるような空が広がっていた。
赤。昨日、何も感じなかった色。
今、彼女の言葉を頭の中で反芻しながら、その赤を見る。
怒ってる。
言われてみれば、そう見えなくもなかった。雲の縁が燃えて、空全体がじりじりと熱を持っているみたいに。静かな怒りというか、何かに抗議するみたいに、一日の終わりを拒絶するみたいに、赤が広がっている。
今までの俺なら、夕焼けは「オレンジの空と雲」だった。それ以上でも以下でもなかった。
でも今は、そこに「怒り」という言葉が貼り付いていた。彼女の言葉が、視界にフィルターをかけたみたいに。
――色って、そういう見方もあるのか。
不思議な感覚だった。16年生きてきて、誰からも教わらなかったような、当たり前のことを初めて知った気がした。
空は青い。夕焼けは赤い。信号は赤と青と黄色。当たり前の話だと思っていた。赤は赤で、それ以上の意味なんかないと思っていた。
でも、色が見えない人にとって、色は「意味」でしか掴めない。赤は「熱い」で、青は「冷たい」で、黄色は「明るい」で。彼女は自分が一度も見たことがない色を、他人の言葉の中から組み立てて、自分の頭の中に描いている。
赤が見えないということは、赤を意味でしか知らないということだ。
逆に言えば、赤を見慣れすぎている俺は、赤の意味をとっくに忘れていたのかもしれない。
俺は彼女のほうに視線を戻した。彼女はまた絵に向かっていて、鉛筆を走らせている。自分の発言が俺の中で何を起こしたか、気づいていないみたいに。
いや、もしかしたら気づいていて、気づかないふりをしているのかもしれない。この人なら、それくらいやりそうな気がする。根拠はないが、そんな気がした。
少しの間、沈黙が続いた。今日の沈黙は、昨日とはまた違う種類のものだった。
「......一つ、聞いていいか」
「うん」
「篠宮は、俺以外に、色が見えないこと話してるのか?」
彼女の手がまた止まった。今度は少しだけ長く止まった。
そして、振り向いた。
「水無瀬くんが、初めて」
俺は自分の呼ばれ方に、遅れて気づいた。そういえば、名前はまだ名乗っていない。でも、同じクラスだから知っていておかしくない。
それは、いい。問題はそこじゃない。
初めて、という言葉のほうだ。
「......なんで、俺に」
彼女は少しだけ首を傾げて、それから笑った。
「だって、聞いてくれたから。色のこと」
その返事は、予想していたどれとも違った。
同情されるのが嫌だから俺に話した、でもなく。誰かに話したかったから俺に話した、でもなく。
「聞いてくれたから」。ただそれだけ。
ほとんどの人は、「色が見えない」と聞いた瞬間に『大変だね』とか『かわいそう』とか言うのだろう。そういう言葉は、彼女にとって「聞いた」には入らないらしい。
俺はたまたま、「それはどういう意味だ」と聞いた。聞き返しただけだ。優しさでも気遣いでもない。ただ意味が分からなかったから、分からないまま置いておけなかっただけだ。
それを彼女は、「聞いてくれた」と呼ぶ。
――そうか。
俺は窓の外の夕焼けを、もう一度見た。
相変わらず赤くて、相変わらず怒っているように見えた。でも今日の俺は、昨日の俺と、ほんの少しだけ違う目で、それを見ているような気がした。




