美術準備室
次の日から、俺は静かな場所を探し始めた。
まず昼休みに試したのは、特別教室棟の3階にある空き教室。噂では部活の余剰部室として置いてあるだけで、普段は誰も使わないらしい。期待して行ってみたら、すでに誰かが昼寝をしていた。しかも机の上に大胆に教科書を広げている。勉強しながら寝落ちしたのだろう。寝顔を起こす勇気もなく、そっと扉を閉めた。
次は体育館裏。試してみて数分で理解した。体育の授業中はボールが飛んでくる。命の危険と交換に静けさを得るのは割に合わない。
図書室の奥の席は、定期テスト前の生徒で埋まっていた。まだ4月なのに、と思ったが、そういう人種がいることは知っている。あの空間は、静かではあるけれど「静けさの中に集中している人たちの緊張」がある。俺の求めている静けさとは違う。
結局、放課後になっても見つからなかった。
授業の終わりのチャイムが鳴って、教室がざわつく。部活に行くやつ、友達と遊ぶ約束をするやつ、塾に行くやつ。それぞれの放課後が、それぞれの場所に散っていく。
俺は鞄を肩にかけて、誰とも目を合わせないまま廊下に出た。航平はもう教室にいなかった。今日からサッカー部の練習に本気で参加するらしい。昼休みに「じゃあな」と言って去っていった背中を思い出す。
少しだけ、静かになった気がした。
気がしただけだ。航平が一人いるかいないかで何かが変わるわけでもない。ただ、話しかけられる可能性がゼロになっただけ。それは、今の俺にとってはむしろ望ましい変化だった。望ましい、と思っていること自体に、少しだけ罪悪感もあったが。
何気なく、いつもとは違う階段を使って4階まで上がった。4階は特別教室の階で、放課後はほとんど人気がない。音楽室からピアノの音がかすかに聞こえる以外、廊下は静まり返っていた。
窓から差し込む光を見ながら、ゆっくり歩く。足音が廊下に響かないよう、自然と歩幅が小さくなる。自分でも意識していないのに、こういう「誰かに気づかれたくない時」の歩き方が、もう体に染みついている。
廊下の突き当たりまで来ると、「美術準備室」と書かれたプレートの扉があった。
その隣に「美術室」。こっちが本室らしい。美術準備室はおまけというか、道具置き場みたいな扱いなんだろう。
試しに美術室の扉を引いてみる。鍵がかかっている。放課後は美術部しか入れないのかもしれない。
次に美術準備室のノブに手をかけた。どうせ鍵がかかっているだろう、と思っていた。
――開いた。
拍子抜けするくらいあっさりと、扉は開いた。
一歩、足を踏み入れる。
室内は薄暗かった。電気がついていない。カーテンも半分ほど閉まっていて、窓から差し込む光だけが頼りだ。その光の中に、埃が舞っているのが見える。ゆっくりと、音もなく。
目が慣れてくると、周囲の物の輪郭が見えてきた。壁際に並んだ石膏像。ヴィーナスとか、何だかよく分からないおじさんの顔とか。使われていないイーゼルが何台か立てかけられている。絵の具のにおいと、紙と木のにおいが混ざっている。古い建物の、長く使われた教室の空気。
静かだ。
本当に静かだった。
思わず、深く息を吐いた。
ここだ、と思った。昨日まで探していた場所がここにある。体育館裏でも、図書室の奥でもなく、この、埃っぽくて、誰もいなくて、時間が止まっているみたいな、古い準備室。
――誰もいなくて。
そう思った瞬間、奥のほうで何かが動いた。
俺は一瞬固まった。
イーゼルと石膏像の向こう、窓際の一番光が当たる場所。そこに、一人の女子が座っていた。
椅子に腰掛けて、膝の上に小さなスケッチブックを広げ、鉛筆を手に持っている。肩まで伸ばした黒い髪が、窓から差す光で一部分だけ輝いて見えた。長い前髪が少し目にかかっていて、その奥で彼女の視線は窓の外に向けられている。
心臓が跳ねた。いや、跳ねたというより、「しまった」という感覚のほうが近い。
謝って出て行くべきか。それとも黙って後ずさるべきか。
迷っている俺の気配に、彼女が気づいた。ゆっくりと視線だけこちらに向ける。驚いた様子もなく、怒った様子もない。ただ、不思議そうに俺を見ている。
「......あ」
「......あ」
間の抜けた声を、二人で同時に出した。
俺は頭の中で航平の言葉を思い出した。篠宮って子いなかった? 美術部の。髪長くて、いつも静かな。
――こいつだ。
しばらく沈黙があった。向こうは俺を見ている。俺は向こうを見ている。この場合、先に喋るべきなのはどっちだ。侵入した俺か、場所を取られた向こうか。
結局、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「ここ、私の場所なんだけど」
静かな声だった。責めているわけでも、拒絶しているわけでもない。ただ事実を述べるような、淡々とした声。
俺は「ああ」としか言えなかった。
「......すみません、出ていきます」
「ううん、いいよ」
立ち去ろうとした俺を、彼女が止めた。
「......まあいいよ。暗いし、静かだし。気持ちは分かる」
気持ち、とは何のことか分からなかった。俺がここに入ってきた理由を、彼女は一瞬で察したらしい。一人になりたくて逃げ場所を探している、という俺の内情を、たぶん全部見抜いている。
それでいて、嫌がっていない。
どこに座ればいいのか分からなくて、俺はとりあえず入り口近くのイーゼルの陰に腰を下ろした。彼女からは見えない位置だ。こちらからも、彼女の輪郭がイーゼルに隠れて半分くらいしか見えない。
ちょうどいい距離、だと思った。
鞄から文庫本を取り出した。読みかけのやつ。特に好きな本でもなく、適当に買ってきたミステリーだ。ページを開いて、目で文字を追う。頭には入ってこない。集中する必要もない。ただ何かを見ている時間が欲しいだけだ。
向こうは黙って絵を描き続けていた。鉛筆が紙の上を滑る、かすかな音だけが聞こえる。しゅっ、しゅっ、と、規則的な音。嫌いじゃない音だった。
沈黙が流れる。
普通なら、知らない人間と同じ空間で沈黙するのは気まずい。特に女子となれば、何か話しかけなきゃいけないような気がしてくる。でも、不思議とそういう気持ちにならなかった。
この子は、こっちに何かを求めていない。俺がいないのと同じ扱いで、自分の時間を過ごしている。そういう空気を出している。
――楽だ。
そう思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。他人と同じ空間にいて「楽だ」と感じたのは、いつぶりだろう。少なくとも、航平と一緒にいる時ですら、どこかで「喋らないといけない」というわずかな緊張があった。それがない。この静けさには、緊張がない。
本当は、他人というものは、存在するだけで空気を歪ませるものだと思っていた。誰かが同じ部屋にいるだけで、俺の行動は無意識に相手を意識して変わる。座り方、息の仕方、視線の置き場所。そういう細かい調整が、常に背景で動いている。
でもこの子は、そういう重力を持っていなかった。部屋にいるのに、部屋を歪ませない。絵を描くという行為に集中していて、そこから周囲に染み出してくるものが何もない。
不思議な人だ、と思った。
窓から差す光の角度が、少しずつ変わっていくのが分かった。カーテンの縁が作る影が、床の上をゆっくり移動している。時計を見なくても、時間が進んでいることが光で分かる。
俺は文庫本のページに目を落として、目だけで文字を追い続けた。内容は一行も頭に入ってこない。だけど、それでいいと思った。
何も入ってこない時間は、貴重だ。
普段の俺は、放課後に帰ってもテレビの前で何となく画面を見て、何となく時間を潰して、何となく一日を終える。その「何となく」には、実は小さな焦りが混じっている。「何かしなきゃ」という薄い義務感が、頭の隅で常にうごめいている。
それが、ここにはない。
誰も俺に何かを期待していないし、俺も自分に期待していない。ただ紙の上を鉛筆が滑る音を聞いて、埃が光の中を舞うのを目の端で見ている。それだけで、一日が終わってもいいような気がしてくる。
どれくらい経ったか分からない。たぶん30分くらい。俺はページを2回くらい戻って同じ文章を読んで、結局内容が入ってこないのを諦めた。文庫本を閉じて、何気なく立ち上がる。
イーゼルの陰から出て、彼女の手元を横から覗き込んだ。
最初はただ、どんな絵を描いているのか気になっただけだった。
次の瞬間、俺は動きを止めた。
スケッチブックの上に描かれていたのは、窓と、その窓から差し込む光だった。正面からではなく、やや斜めから見た構図。カーテンが半分引かれていて、光がカーテンの隙間を通って床に落ちている。
ただの窓の絵。それだけ。
なのに、息を呑んだ。
――色が、ない。
全てが鉛筆の濃淡で描かれている。黒から薄いグレー、そして紙の白まで。それだけで構成された世界なのに、光の強さと、影の柔らかさと、空気の質感が、奇妙なほど生々しく伝わってくる。
写実的なのとは違う。技術的にはもっと上手い絵はいくらでもあるだろう。でも、この絵には何かがあった。
その何かが何なのか、俺には分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
――今、俺は、この絵を「綺麗だ」と思った。
昨日、夕焼けを見ても何も感じなかった俺が。綺麗だと認識することすら面倒だった俺が。この、白と黒とグレーしかない、色のない絵を見て「綺麗だ」と思ってしまった。
その事実に、自分で戸惑っていた。
色がない絵のほうが、色のある夕焼けよりも綺麗に感じる。そんなことが、あっていいのか。
何か言わないといけない気がした。沈黙を守るべき場面で、沈黙を守れなかった。
「色、塗らないのか」
気づいたら、口から言葉が出ていた。
彼女は筆を止めずに、描きながら答えた。
「塗らないんじゃなくて、塗れないの」
あっさりと、何の感情もこめずに、続けた。
「私、色が見えないから」
俺の頭の中で、時間が一瞬止まった。
......え。
今、何て言った。
色が、見えない? 塗れない、じゃなくて?
言い間違いじゃないのか。でもこの子の口調は、冗談を言っている気配がまるでない。事実を事実として述べただけ、という淡々とした響き。
それが逆に、俺を戸惑わせた。
「色が見えない。......それは、どういう意味だ?」
ようやく出た問いかけは、自分でも驚くほどかすれていた。
彼女は鉛筆を止めて、ゆっくり振り向いた。相変わらず、何でもないことのような顔で。光が彼女の頬の線をなぞる。
そして、小さく笑った。
穏やかな笑い方だった。悲しげでも、困ったふうでもなく、ただ「聞かれたから答える」といった自然さで。
その笑顔を見て、俺はもう一つ気づいたことがある。
この子は、誰かに同情されることを、一度も想定していない。




