日陰の席
朝、目が覚めると家の中は静かだった。
父さんはもう出かけた後だ。キッチンのテーブルの上に、ラップをかけた弁当箱と、コップに注いだ冷たい麦茶が置いてある。いつも通りの朝。いつも通り、書き置きの類はない。
俺は麦茶を一気に飲み干して、弁当箱を鞄に押し込んだ。冷たい液体が胃に落ちる感覚だけが、朝の俺に現実感を与えてくれる。
制服に着替えて、玄関の鏡をちらりと見る。寝癖はそこまでひどくない。目の下のくまは、まあ、いつも通り。どうでもいい顔だ、と思う。鏡の中の俺は、何か言いたげでもなく、ただ無表情でこちらを見返している。
* * *
四月の屋上は風が強い。
非常階段の踊り場に座って弁当箱を開けると、卵焼きが二切れと、焦げたウインナーと、ご飯の上に乗せられた梅干しが目に入った。おかずの少なさは毎度のことだが、今日は卵焼きの形がいつもより歪んでいる。
父さんは料理が下手だ。俺が中学の頃から弁当を作ってくれているが、一向に上達しない。ただ、毎朝6時に起きて作っているのは知っている。俺が起きる頃にはもう家を出ていて、キッチンのテーブルの上に弁当が置いてある。一言も書き置きはない。弁当だけが、あの人なりの会話なのかもしれない。
まあ、別にいいけど。
箸で卵焼きをつまんで口に運ぶ。相変わらず甘い。父さんの卵焼きは砂糖を入れすぎる。甘すぎて、甘い、としか感想が出てこない。ウインナーは端が真っ黒に焦げていた。端を残すのは悪い気がして、結局全部食べる。
俺は校舎の向こうに広がる住宅街を、ぼんやり眺めた。四月の空は青いらしい。らしい、というのは別に色が見えないわけじゃなくて、ただ「ああ、青いな」と思う気力があんまりないだけだ。空は空。青は青。それ以上でも以下でもない。
風が吹いて、前髪が目にかかった。手で払って、もう一度空を見上げる。
雲が一つ、ゆっくり流れていく。白い、のだろう。たぶん。
「お前、また一人で食ってんの」
階段の下から声がした。振り向くと、柊航平が笑いながらのぼってくる。制服のネクタイは初日からもう緩んでいて、片手にコンビニの袋を提げている。
「なんでここ知ってるんだ」
「お前の隠れ場所なんて大体パターン決まってんだろ。屋上の踊り場、体育館裏、図書室の端っこ。ローテーションが雑なんだよ」
航平は俺の隣に勝手に座って、袋からおにぎりを取り出した。俺の弁当をちらりと見て、「今日も質素だな」と笑う。
「うちの父さんの限界がこれなんだよ」
「でもちゃんと作ってくれるじゃん。うちなんか母さんの弁当クオリティ高すぎて、逆にプレッシャーだぞ。残すと怒られるし」
航平の家は父親も母親も揃っていて、仲がいい。日曜日には家族で出かけたりするらしい。航平はそれを自慢するでもなく、当たり前のように話す。当たり前だからだろう。当たり前の家族がいるやつは、それが当たり前だと知らないまま生きていける。
別に、羨ましいとかじゃない。ただ、そういうものかと思うだけだ。
「で、2年3組どうよ。知ってるやつ多かった?」
「まあ、そこそこ」
「志田と同じクラスじゃん。あいつ相変わらず元気だったな」
「ああ......そうだな」
志田真央。明るくて声が大きくて、教室の空気を作れるタイプの人間。俺とは正反対だ。朝、教室に入った時に「水無瀬おはよー!」と手を振ってきたから、「おう」と返した。それだけ。
「あと、篠宮って子いなかった? あの、美術部の」
「......知らない」
「まじ? 同じクラスだぞ。窓際の後ろのほう。髪長くて、いつも静かな」
「知らない」
「お前の"知らない"って"興味ない"の意味だろ」
「......同じだろ、大体」
航平がおにぎりの海苔を剥がしながら笑う。こいつは俺の「別に」や「知らない」の翻訳が上手い。中学からの付き合いだから、もう慣れたんだろう。
俺は慣れてほしくなかったりするんだが、それを言う気力もない。
「お前さ、今年こそ部活入らないの?」
「入らない」
「美術部とか、文芸部とか。お前なら馴染めそうじゃん」
「馴染みたくない」
「ああ、そっちか」
航平はそれ以上押してこない。本当にこいつは察しがいい。優しいのか、面倒なのが嫌なだけなのかは知らない。たぶん両方だ。
おにぎりを一口かじって、航平が遠くを見るみたいに目を細めた。
「俺さ、今年はサッカー部でレギュラー狙うから、あんまり一緒に帰れないかも」
「......そう」
「寂しがるなよ?」
「誰が」
航平が笑う。俺も、口元だけ少し動かす。たぶんそれが笑ったように見えたのだろう。航平は満足げにうなずいた。
* * *
昼休みが終わって午後の授業。世界史。教師の声がやたら遠くに聞こえる。窓際の席は日差しが当たって暖かく、これは寝ろと言っているのと同じだ。
ノートに視線を落としながら、頭の中では別のことを考えている。
――2年になったら何か変わるかと思ったけど、特に何も変わらない。
席替えでたまたま窓側の後ろから2番目になった。去年も似たような位置だった。教室の端は居心地がいい。中心から遠いほど、存在感を薄くできる。
隣の席は空いている。いや、空いているわけじゃなく、座っている人間がいるのは分かっている。ただ、話したことがないから認識が薄い。航平が言っていた篠宮という名前が、一瞬だけ頭をよぎったが、すぐに消えた。
* * *
放課後。
部活に入っていない俺は、この時間が一番持て余す。帰ればいいだけなのだが、帰っても父さんはいないし、テレビをつけてもぼうっとするだけだ。かといって教室に残るのも落ち着かない。放課後の教室は、残った人間同士の距離が近くなる。友達同士で喋ったり、委員会の打ち合わせをしたり。その輪に入るのが嫌なんじゃない。入ろうとする気力がないだけだ。
結局、鞄を持って教室を出た。
廊下を歩く。階段を下りる。下駄箱に向かう。その途中で、ふと足が止まった。
西側の窓から夕焼けが見えた。
空がオレンジに染まっている。雲の端が赤く光って、校庭のネットが逆光でシルエットになっている。綺麗な夕焼けだと、たぶん誰かなら思うのだろう。
俺はしばらくそれを見ていた。
何も思わなかった。
綺麗だと思わなかったし、別に、とも思わなかった。空がオレンジで、雲が赤い。それだけの情報が目に入って、頭を素通りしていった。まるで教科書の写真を見ているみたいだった。
いつからこうなったのか、正確には覚えていない。でもたぶん、かなり前からだ。何かを見ても、聞いても、「ああ、そうか」で終わる。感情がないわけじゃない。ただ、水面に波が立たないだけだ。深いところに何かがあるのかもしれないけど、表面はいつも凪いでいる。
俺は夕焼けから目を離して、下駄箱に向かおうとした。
が、なぜか足が動かない。視線だけがもう一度、窓の外に戻る。
赤い、空。オレンジの雲。逆光の校庭。
やっぱり、何も思わない。
一度だけ、もう少しだけ見てみた。目に焼き付けようとしたわけじゃない。ただ、何も感じないという事実を、念のため確認したかっただけだ。
結果は同じだった。綺麗。だと、頭では分かる。でも胸のあたりは何も動かない。
――まあ、そんなもんだ。
心の中でそう呟いて、俺は階段を下りた。
靴を履き替えて外に出ると、空はまだ赤かった。赤、なのだろう。たぶん。校門を出て、住宅街の道を歩き始める。
帰り道、イヤホンをつけて音楽を流した。何を聴いているかはあまり意識していない。音が耳に入ってくる。それだけ。たまにサビらしきものが来て、そこで一瞬だけ意識が引き戻される。でもすぐまた、音は背景に溶ける。
家までの道は15分くらいで、途中にコンビニが一軒ある。寄って、カフェオレを一本買った。これだけは味にこだわりがある。ブラックは苦くて飲めないし、甘すぎるのも駄目。このコンビニのこの銘柄がちょうどいい。
小さなこだわりだが、これくらいしか自分の好みが分からない。
レジのおばちゃんが「いらっしゃい」と言って、俺は会釈を返した。会釈だけ。声は出さない。「ありがとうございました」と背中に聞こえたけど、それにも返事はしなかった。別に無視したつもりはない。ただ、返事をする必要性を感じなかっただけだ。
マンションの部屋に入ると、当然のように暗い。父さんはまだ帰っていない。電気をつけて、鞄を置いて、カフェオレのキャップを開ける。
リビングのテーブルに、今朝の弁当箱が置いてある。俺が洗って伏せておいたやつ。明日の朝、父さんがまたこれに何かを詰める。歪んだ卵焼きと、焦げたウインナーを。
別に、寂しいとかじゃない。
......寂しいとかじゃ、ないんだけど。
窓の外はもう暗くなり始めている。さっきの夕焼けは消えたのだろう。見ていないから分からないが。
明日からここ以外に、もう一つ静かな場所を探そう。非常階段は航平にバレた。あいつが来ると静かに食えない。まあ、うるさいのが嫌なわけでもないんだが。ただ、もう少しだけ一人の時間がほしい。
一人でいる時が、一番何も考えなくて済むから。
考えないで済むということは、何も感じないで済むということだ。感じないで済めば、傷つくこともない。傷つかなければ、回復する必要もない。回復しなくていいなら、それで十分だ。それで、完璧だ。
カフェオレを飲み干して、空になった紙パックをゴミ箱に投げた。入った。
入ったところで、誰も見ていない。拍手もないし、俺自身も「おっ」とも思わない。ただ、ゴミが正しい場所に収まっただけ。
それでいい。
それが、俺の今のちょうどいい距離感だ。
――まあ、そんなもんだ。
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