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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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6/28

水無瀬くんの目

 週明けの月曜日。

 朝の教室は、いつも通り少しだるい空気に包まれていた。週末の疲れを引きずった顔がちらほら見える。俺はそのどれでもない顔で、いつもの席に着いて、鞄を机の横にかけた。

 隣の席にはもう篠宮(しのみや)が座っていた。背筋はいつも通り真っ直ぐで、長い髪が肩に静かに垂れている。こちらに気づいて、視線だけちらりと動かす。目が合いそうになって、俺は反射的に目を逸らした。

 なんで逸らしたんだ、と自分で思う。

 でも、理由を考えるのもしんどかったので、鞄から教科書を出して机に並べることにした。


 午前中の授業は、教師の声が遠くに聞こえるいつもの感覚で終わった。昼休みは、航平(こうへい)が今日も部活の連中に呼ばれていったので、俺は教室の隅でパンをかじっていた。

 隣の席の篠宮も、自分の席で小さな弁当を食べていた。中身が見えた。ほとんど白い物で構成されていた。白ごはんと、卵焼きと、かまぼこと、ゆでた鶏肉。色が見えない彼女にとって、食べ物は味と形で選ぶものなんだろう。視界がモノクロなら、たぶん「美味しそうに見える色」みたいな曖昧な感覚には頼れない。

 それは知識として理解しているが、実際に彼女の弁当を見て初めて、「そういう日常を送っている人間なんだ」と実感した。

 俺は何も言わなかった。ただ、自分のコンビニパンを噛み続けた。


 * * *


 放課後、いつものように美術準備室に向かった。

 扉を開けると、篠宮は今日もすでに座っていた。今日のモチーフは、窓辺に置いた古い時計だ。壊れているのか、針が動いていない。彼女はその「動かない時間」を描いている。絵を描いている時の彼女の背中は、何かに集中しているというより、何かに浸っている感じがする。

 俺はいつもの場所に座って、文庫本を開いた。

 しばらく、いつもの沈黙が続いた。鉛筆の音と、窓の外を行く風の音。時々聞こえる遠い部活の声。


「ねえ、水無瀬(みなせ)くん」


 篠宮が不意に顔を上げた。

 鉛筆は手に持ったまま、でも動かしてはいない。俺のほうを見ている。


「......何」

「青ってどんな感じ?」


 出た、と思った。

 篠宮の「色ってどんな感じ?」シリーズ。前に赤を聞かれてから、俺の中で勝手に名前をつけていた。

 赤は「怒り」だった。今日は青らしい。


「......冷たい、かな」

「冷たい」

「空とか、海とか」

「広くて、冷たいの?」

「まあ、そうだな」

「広くて、冷たくて......」


 篠宮は少しだけ黙って、それから笑った。


「でも、気持ちいいんでしょ?」

「......まあ、そうだな」

「矛盾してるね、青って」

「矛盾?」

「冷たいのに気持ちいいって、変じゃない? 普通、冷たいものは嫌なはずなのに」


 言われてみれば、そうかもしれない。

 冷たい水は気持ちいい。冷房も気持ちいい。冬の空気も嫌いじゃない。でも冷たい手は嫌だし、冷たい言葉は傷つく。冷たい、という一つの感覚の中に、プラスの冷たさとマイナスの冷たさが同居している。

 青は、そのプラスの冷たさのほうだ。

 篠宮はそれを、色を見ずに言葉だけで掴んで、「矛盾してる」と笑っている。色が見える俺が今まで考えたこともなかったことを、色が見えない彼女は自分の頭の中でちゃんと整理している。


「篠宮の中だと、青はどんなイメージなんだ」


 聞きながら、自分が少し踏み込んだ質問をしていることに気づいた。

 普段の俺なら、こういう「相手の内面に関わる問い」は避ける。でも今日の俺は、なぜか聞いていた。彼女の頭の中にある「青」を知りたかった。

 篠宮は気にする素振りもなく、質問にそのまま答えた。


「うーん......広くて、冷たくて、でも気持ちよくて、ちょっと寂しい感じ?」

「......寂しい?」

「だって広いんでしょ。広い場所って、一人でいると寂しくならない?」

「......まあ、なるかもな」

「だから青って、ちょっと孤独な色なんじゃないかなって思う」


 孤独な色。

 俺は本を閉じた。視線を篠宮から外して、窓の外を見た。四月の夕方の空は、まだ青かった。いつもの青だ。でも今、その青は「孤独な色」という名前を背負っていた。

 昨日までの俺なら、それを聞いても「ふうん」で流していた。今日の俺は、ふうんでは終わらなかった。

 空の青に、彼女の言葉が貼り付いて剥がれない。

 ――この人の言葉は、いつも世界に名前をつけ直していく。俺が知らない名前を。


 * * *


 それからしばらく沈黙が続いた。

 篠宮は絵に戻り、俺はまた本に戻った。いつもの沈黙だ。気まずくはない。ただ、頭の中で「孤独な青」という言葉が何度も反響していた。

 どれくらい経った頃だろう。鉛筆の音が、ふと止まった。

 顔を上げると、篠宮がまたこちらを見ていた。今度は少しだけ、真剣な顔だった。


「ねえ、水無瀬くん」

「......何」

「私がモノクロのこと、誰にも言わないでほしいの」


 さっきまでの軽い口調と違う、低くて静かな声だった。

 俺は本を閉じた。姿勢を正した、というほど大げさではないが、背もたれから背中を少し離した。


「......言わないけど。なんで?」


 いや、大体は予想がついた。予想はついたが、彼女の口から聞きたかった。

 篠宮は少しだけ下を向いて、それから顔を上げた。


「知られるとね、みんな私のこと、急に優しくなるの」

「......」

「『大変だね』って顔で見るの。『大丈夫?』って聞いてくるの。クラスで席を決める時、私の近くに座った子が申し訳なさそうな顔をするの」


 声は淡々としていた。怒っているんじゃない。悲しんでいるんでもない。ただ、経験を語っているだけの声。


「別に、悪気があるわけじゃないのは分かってる。みんな優しい。でもね、私はそれが......ちょっと苦手なの。同情されると、自分が"かわいそうな人"っていう枠に入れられる感じがする。そうなると、本来の私じゃなくなる気がするんだ」

「......」

「一回、別の学校で噂になったことがあってね。それからずっと、クラスの空気が変わった。勉強ができて優しかった子が、急に私の話題を避けるようになった。本人に悪気はないのよ。ただ、どう接したらいいか分からなくなっただけ。でも、私はその"分からなくなった顔"に疲れちゃった」

「......」

「だから、もう言わないって決めた。新しい学校では、誰にも言わないって」


 俺は黙って聞いていた。

 なんと言っていいか分からなかった。慰めるのは違う。励ますのも違う。共感の言葉も、たぶん彼女の望むものじゃない。

 だから、ただ黙って聞いた。


 篠宮はこちらを見て、少しだけ笑った。


「でも、水無瀬くんには言った」

「......なんで俺に言ったのかは、この前聞いた」

「うん、聞いてくれたから」

「それだけか?」

「それだけ。大事なのはそれだけだよ」


 彼女は鉛筆をくるりと回して、続けた。


「それに、水無瀬くんは『大丈夫?』って言わなかった。『どういう意味だ』って聞いた。違いが分かる?」

「......違い?」

「『大丈夫?』は、相手を"助けが必要な人"として見る言葉。『どういう意味だ』は、相手を"話を聞く価値のある人"として見る言葉。私はね、助けてほしいんじゃないの。聞いてほしいの」


 俺はその言葉の意味を、ゆっくり噛み砕いた。

 助けてほしい人と、聞いてほしい人は違う。言われてみれば当たり前のようで、俺は今の今までその違いを意識したことがなかった。

 誰かが困っていたら、「何かしてあげるべき」と思うのが普通のはずだ。でも篠宮は、それを「普通」だと思っていない。彼女にとって、問題は「助けられるかどうか」ではなく、「自分として見てもらえるかどうか」だった。


「......分かった」

「うん」

「誰にも言わない。約束する」

「ありがと」


 篠宮はあっさり言って、また絵に戻ろうとした。でも、戻る前に一言だけ付け加えた。


「あのね、水無瀬くん」

「......まだ何かあるのか」

「だから――これからも、水無瀬くんの目が必要なの」


 俺は、その言葉の意味を一瞬考えた。

 目。色が見えない彼女にとって、色が見える俺の「目」。それは、単純に「色を確認するための目」のことだろうか。それとも、もっと別の意味があるんだろうか。

 絵を描くために色を確認したいわけじゃない気がした。絵は光だけで描ける、と本人が言っていた。じゃあ何のために「目」がいるのか。

 この人が「水無瀬くんの目」と言う時、それはきっと、ただ「見える人の目」という意味じゃない。

 それ以上の何か。もっと、俺じゃないといけない理由。

 でも、それが何なのかは、まだ彼女の口からは出てこなかった。


 聞き返そうとしたが、篠宮はもう鉛筆を動かし始めていた。話はここまで、という合図みたいに。

 聞いても、たぶん今日は答えない気がした。この人は、言うべきタイミングを自分で決めている節がある。急かしても答えは出ない。


 俺は質問を飲み込んで、もう一度窓の外を見た。

 空の青が、まださっきの「孤独な色」のままそこにあった。

 広くて、冷たくて、気持ちよくて、ちょっと寂しい色。

 その青を見ながら、俺は一つだけ、誰にも言わない決意をした。

 ――こいつが「言わないで」と言った秘密は、本当に、誰にも言わない。

 航平にも、奈都(なつ)にも、父さんにも、誰にも。

 それくらいなら、俺にもできる。俺にできる数少ないことの一つだ、たぶん。


 * * *


 その日、美術準備室を出て教室に寄った。置き忘れた教科書を取るためだ。

 一階に下りて、廊下を歩く。誰もいない。ほとんどの生徒はもう帰ったか、部活の場所に散っている。

 2年3組の前まで来ると、扉の前に一人の女子が立っていた。


「あ、水無瀬」

 志田真央(しだまお)だった。


「......志田(しだ)

「何か忘れ物?」

「ああ。教科書」

「私も。数学の問題集置いてきちゃった」


 志田は俺の顔を見て、いつもの笑顔で笑った。明るい、元気な笑顔。俺が毎朝見慣れた笑顔。

 笑顔、のはずだった。


 でも、なぜか今日、その笑顔が少しだけ――薄く見えた。

 上手く言えない。顔立ちは同じ。口角の上がり方も同じ。声のトーンも、たぶんいつも通り。

 ただ、何かが抜けている気がした。何か、一番大事なピースが。

 気のせいかもしれない。気のせいのほうがいい。

 でも、俺の頭の中には奈都の声が残っていた。


 ――志田さん、最近気にならない? なんか、ちょっと......変じゃない?


「じゃあ、お先」

 志田はそう言って、俺より先に教室に入っていった。扉を開ける背中を見送りながら、俺は立ち尽くしていた。

 何も変じゃなかった、と言い切れない自分がいた。

 何かが、確かに薄くなっていた。気のせいじゃなく。

お読みいただきありがとうございます。

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