気のせいかもしれない
水曜日の昼休み、俺は図書室に向かった。
昨日の篠宮の言葉が、一晩経ってもまだ頭の中に残っていた。"最近、たまに、何か見えることがあるの"。俺は「それ、色かもしれない」と答えた。でも、俺一人の判断で、色と断定するのは軽率だ。篠宮のためにも、もう一人の意見が欲しかった。
奈都なら、たぶん、冷静に仮説を立ててくれる。
図書室の一番奥の席に、奈都はいつも通り座っていた。今日は心理学の新書ではなく、神経科学の本を読んでいた。俺が近づくと、奈都は顔を上げた。
「水無瀬くん。珍しく昼休みに来るね」
「......相談がある」
「色彩乖離の?」
「近い」
「座って。聞く」
奈都はあっさり本に栞を挟んで、閉じた。研究対象の新しいデータが来た時の顔をしていた。
俺は昨日の会話の内容を、できるだけ正確に奈都に伝えた。篠宮が「水無瀬くんと話して笑った時、ぱって視界の一部が明るくなることがある」と言ったこと。篠宮自身は"気のせいかもしれない"と慎重に表現していたこと。俺は咄嗟に「色かもしれない」と返したこと。
奈都は眼鏡を指先で軽く上げて、少しの間、黙っていた。それから、ゆっくり口を開いた。
「......興味深いね」
「......」
「でも、慎重に考えたほうがいい」
「やっぱり、そうか」
「篠宮さんの色彩乖離は、他の人とは質が違う。志田さんは赤だけが消えてた後天的な遮断。篠宮さんは全色が消えている。いつから消えているのかも、本人の感覚では"物心ついた頃から"らしいし」
俺は少し迷ってから、奈都に一つだけ情報を足すことにした。篠宮の許可は取っていない。でも、奈都には仮説を立ててもらう必要があった。奈都は、たぶん、この情報を安易に他人に漏らすタイプじゃない。
「......一つ、奈都にだけ話しておく。篠宮は前に志田に打ち明けてたんだけど、本当は幼稚園の頃に少しだけ色が見えてた記憶がある、らしい」
奈都は眼鏡を指先で軽く上げた。表情は変わらなかったが、目の奥の光が少しだけ強くなった。
「......それは、重要な情報だね」
「うん」
「水無瀬くん、これを私に話したってことは、私を信頼してくれてるってことでいい?」
「......そういうことだ」
「分かった。絶対に他言しない。篠宮さんのプライベートとして扱う」
奈都は一度、机の上で手を組んで、しばらく考えた。
「その情報を踏まえると、篠宮さんの遮断は、幼少期のある瞬間に一度に全色が消えた、というタイプだと思う。志田さんの"ストレスで徐々に赤が薄れていく"タイプとはメカニズムが少し違う可能性がある」
奈都はノートを取り出して、図を描き始めた。細かい字で、いくつかの仮説を並べていった。
「じゃあ、何が見えたんだ?」
「分からない。でもね、一つ仮説がある」
奈都はペンを止めて、俺の顔を見た。
「志田さんのケースで分かったのは、"赤の遮断は、赤に対応する感情(恋心)を封じ込めた結果"だった。つまり、色と感情は脳の中で一対一対応していて、感情の扉が閉まると対応する色の扉も閉まる。逆の仮説も立てられる」
「逆?」
「感情の扉が開くと、対応する色の扉も開く。脳の中の扉は、感情側から開くと色側も開く」
俺は奈都の言葉を、頭の中で組み立てた。
「......じゃあ、篠宮が強い感情を感じた瞬間に、その感情に対応する色が、一瞬だけ扉の隙間から見えた、ってことか?」
「仮説としては、そう。確定じゃないけど、説明としては成り立つ」
「じゃあ、本当に色かもしれないんだな」
「"かもしれない"までは言える。確定は、ちゃんと観察を重ねてから」
奈都はノートの上に、もう一つ図を書き足した。感情と色の対応表。赤=情熱・恋、青=冷静、黄=喜び・希望、緑=安心、紫=誇り、橙=温かさ。
篠宮が何が見えたか、手がかりがあるとすれば、"どんな感情を感じた瞬間に見えたか"だった。
「篠宮さん、いつ見えたって言ってた?」
「......水無瀬くんと話して、笑った時」
その言葉を口に出すのは、少しだけ気恥ずかしかった。奈都は表情を変えずに、ペンを動かした。
「笑った時、か。笑いは喜びの表出。喜びに対応する色は――」
「黄色、か」
「黄色、かな」
俺は一瞬、想像してみた。
篠宮の灰色の世界の一角が、一瞬だけ、黄色く光る。
鮮やかな、濃い黄色じゃない。たぶん、薄い、ほんのりした黄色。視界全体ではなく、ほんの一点だけ。それが一瞬だけ瞬いて、すぐに消える。
そういう経験を、篠宮は最近たまにしている。
――それが本当なら、嬉しいことだ。
嬉しいはずだった。でも、俺の胸の中には、嬉しさだけじゃない、別の感情も混じっていた。篠宮が長年かけて作り上げた"色がない世界"の枠組みが、少しずつ揺らいでいる。その揺らぎは、彼女にとって祝福でもあり、同時に、動揺でもあった。
「水無瀬くん」
奈都は少しだけ真剣な顔になった。
「これ、篠宮さんにどう伝えるかは、慎重に考えたほうがいい」
「......」
「彼女に『色が戻りかけてる』って確定で伝えると、期待させすぎる可能性がある。逆に『気のせいだ』と言うと、彼女の感覚を否定することになる。ちょうど真ん中の言葉を選ぶ必要がある」
「......真ん中って、どう言えばいいんだ」
「それは私じゃなくて、水無瀬くんが考える部分」
奈都は小さく笑った。冷たい笑いじゃない。"あとは任せるよ"の笑い。
「私にできるのは、仮説の提示まで。ここから先の、篠宮さんへの伝え方は、水無瀬くんの担当」
俺はしばらく黙ってから、短く頷いた。
「......分かった」
* * *
放課後、俺はいつも通り美術準備室に向かった。
扉を開けると、篠宮はいつもの場所で絵を描いていた。昨日の雨はもう上がっていた。窓の外には、雨上がり特有の、水滴で少しだけ艶のある校舎の壁があった。篠宮は今日、その壁を描いていた。
俺は入ってきた音で篠宮が顔を上げるのを待った。彼女は少しだけこちらを見て、いつものように小さく会釈した。そして、またすぐ絵に戻った。
俺はいつもの場所に座った。文庫本は出さなかった。今日も、話すために来ていた。
「......篠宮」
「ん?」
「昨日の話、覚えてるか?」
「うん。"見えたかもしれない"の話」
「それさ、今日、奈都に相談してきた」
篠宮の手が一瞬止まった。でも、顔は俺のほうを向けなかった。絵を描く姿勢のまま、声だけで答えた。
「......どうだった?」
「奈都の仮説は、"気のせいとも、本物とも、今は確定できない"だった。でも、強い感情を感じた瞬間に、対応する色の扉が一瞬だけ開く可能性はある、って言ってた」
「......扉が開く」
「うん」
「......私の扉は、水無瀬くんと笑った時に、開いた、ってこと?」
「奈都の仮説だと、そうなる。笑いは喜びで、喜びの色は黄色だから、篠宮が見た"何か"は、たぶん黄色、だったんじゃないか、って」
篠宮はしばらく筆を止めていた。鉛筆の先は紙の上で止まったまま、静かに待機していた。
そして、小さく呟いた。
「......黄色、か」
「うん」
「私、黄色がどんな色か、知らないんだよね。"明るい色"だって聞いたことはあるけど」
「......明るい色、で合ってる」
「そっか」
篠宮は窓の外をちらりと見た。それから、俺の顔を見ないまま、ゆっくり言った。
「......あのさ、水無瀬くん」
「ん?」
「昨日の話、気のせいかもしれないって、思う?」
俺は少し考えてから、正直に答えた。
「......分からない。奈都も断定はしてなかった。気のせいの可能性も、本物の可能性も、両方残ってる」
「うん」
「焦って確定しなくていい、って奈都も言ってた」
篠宮は、小さく笑った。
「気のせいかもしれない」
「うん」
「でも、気のせいじゃなかったらいいなって思う」
俺はその言葉を、胸の中で繰り返した。
"気のせいじゃなかったらいいな"。
これは、篠宮が自分の防衛的な物語を少しだけ緩めた時に出てくる言葉だった。"色はない、だから失ってない、だから平気"という枠組みの中に閉じこもっている時は、絶対に出てこない言葉。彼女の"ほしい"が、言葉の端に滲んでいた。
ほんの数ヶ月前の篠宮なら、たぶん言わなかった。「気のせいかも」で止まっていたはずだ。でも今日の篠宮は、「気のせいじゃなかったらいいな」まで踏み込んだ。その半歩の違いが、俺の中で妙に大きな意味を持っていた。
俺は少しだけ、胸の奥が熱くなった。
篠宮は、色を欲しがっている。自分ではそう言わないけれど、その気持ちが彼女の中にちゃんとある。防衛的な物語の内側に、ずっと閉じ込めてきた"ほしい"という気持ちが。
「......だといいな」
俺は短く答えた。
それしか言えなかった。気の利いた言葉は、今日は必要ない気がした。
むしろ、気の利きすぎた言葉は、この場面で篠宮の"ほしい"を押し潰してしまう気がした。今は、篠宮が小さく芽を出したその気持ちを、俺が一緒に"だといいな"と言うだけでよかった。そのくらいの軽さのほうが、ちょうどいい。
* * *
帰り道、俺は一人で考えていた。
篠宮の色が本当に戻るとしたら、それは、彼女が感情を取り戻すということだ。長年、防衛のために閉じ込めていた感情を、一つずつ解放していくということ。
その過程で、俺は何ができるんだろう。
俺は色が見える。でも、色を"戻す"力はない。俺にできるのは、彼女と一緒にいることと、彼女が感情を感じた瞬間に、それを否定しないで受け取ることだけだった。
――俺に、それを手伝えるのか。
自信は、まだなかった。
でも、やるしかないとは、思っていた。
篠宮の隣に立ち続けること。それが今の俺にできる、たぶん、唯一のことだった。




