色のない君が
木曜日の午後、空は梅雨の色をしていた。
6月に入って、雨の日が増えていた。今日も朝から小雨が続いていたが、午後の5限目が終わる頃には雨脚が少し弱くなっていた。窓ガラスを伝う水滴は、もうほとんど流れず、点々と貼り付いたまま光を吸っていた。
俺は放課後、いつものように美術準備室に向かった。
廊下を歩きながら、窓の外を見た。雲は低く、空全体が薄い灰色に覆われていた。遠くの校舎の屋根も、空と似たような色に溶けていた。情報量の少ない世界。篠宮の世界に近い視界。
最近、俺は雨の日の空を見ると、少しだけ篠宮のことを思い出すようになっていた。彼女の世界がずっとこのくらいの情報量なら、俺が生きている世界は、彼女の世界の"増補版"なのかもしれない。色が増えているだけで、本質的な部分は同じ。
そんな見方ができるようになったのは、この二ヶ月の篠宮のおかげだった。
* * *
美術準備室の扉を開けると、篠宮は窓際の席に座っていた。
いつもは絵を描いている時間なのに、今日は鉛筆を置いて、静かに自分の描いた絵を眺めていた。絵は机の上に広げられている。俺の位置からはまだよく見えない。
「今日、描き終わったの?」
俺が聞くと、篠宮は顔を上げて、少しだけ嬉しそうに頷いた。
「うん。見に来てくれる?」
「......ああ」
俺は彼女の横に立って、絵を見下ろした。
そこにあったのは、俺の顔だった。
正面から見た、俺の顔。
前に描いてもらった時は、横顔のクロッキーだった。今日のこれは、正面からしっかり描かれた肖像画だった。モノクロの木炭画。濃淡のグラデーションだけで、俺の顔の輪郭が、光と影を使って描かれている。前髪、目、鼻、口の形、首のライン。写実的に描かれているわけじゃない。でも、俺の特徴が、俺自身に分かるくらい正確に捉えられていた。
俺は言葉を失った。
「......俺、こんな顔してるのか」
思わず呟いた。
「うん」
「知らなかった」
「水無瀬くんって、自分の顔あんまり見ないでしょ。鏡とか」
「見ない」
「だと思った。だから、いつも自分のこと分かってないんだよ」
篠宮はそう言って、小さく笑った。
俺は絵の中の自分を、じっと見続けた。
絵の中の俺は、穏やかな顔をしていた。でも、ただ穏やかなだけじゃない。目の奥に、何か少しだけ寂しそうな色が――いや、色はないから、"寂しそうな影"が落ちていた。口元は閉じていて、ほんの少しだけ下に向いている。眉は普通。でも、眉と目の間のわずかな距離に、何か"抱えているもの"の重みが表れていた。
普段、鏡で見る俺は、こんな顔をしていなかった。鏡を見る時の俺は、身だしなみを確認するためだけに一瞬だけ自分と向き合って、すぐに目を逸らしていた。だから、自分の顔の"全体"を見たことがなかった。
篠宮の絵の中の俺は、俺が見たことのない俺だった。
「この顔、寂しそうだな」
俺は正直に言った。
「そう?」
「うん」
「私にはね、寂しそうに見えたの。水無瀬くんって穏やかだけど、どこか......寂しそうだから」
俺は、篠宮の言葉を否定できなかった。
寂しい、という言葉で自分を形容したことは、これまで一度もなかった。俺は自分のことを"何も感じない人間"だと思っていた。でも、"何も感じない"と"寂しい"は、たぶん、表と裏みたいなものだった。何も感じないから寂しい。寂しいから何も感じないことにしている。どちらが原因でどちらが結果なのか、俺自身にも分かっていなかった。
篠宮は、俺自身が言語化できなかったものを、絵の中に描き出していた。
――描けるんだ、こういうものまで。
モノクロの絵で、色を使わずに、光と影だけで。でも、絵の中の俺には、確かに"寂しさ"が写っていた。色じゃない形で。
「でもね」
篠宮は付け加えるように言った。
「最近、ちょっとだけ変わったよ」
「変わった?」
「この絵を描き始めた頃の水無瀬くんと、今の水無瀬くんは、少しだけ違う。今のほうが、ちょっとだけ明るい」
「明るい、って」
「光が増えたとかじゃないの。私の目には全部灰色だから、光の量は関係ない。でも、水無瀬くんの顔の"雰囲気"が、前より少しだけ柔らかくなってる。絵を描き終わってから、今の水無瀬くんを見て、"あ、もう少しこっちを描き足したいかも"って思うくらいには」
俺は絵と篠宮の顔を交互に見た。
篠宮は、俺の"変化"を絵にしようとしていた。俺自身が気づかない速度の変化を、彼女は毎日の観察で追いかけていた。絵は一つの瞬間の俺を切り取ったものだけど、その切り取り方の中に、篠宮の"俺への視線"が積み重なっていた。
――この人は、俺のことを、たぶん俺以上に見ている。
俺はもう一度、絵を見た。
モノクロの俺。色のない俺の顔。
それなのに、この絵には確かに"何か"があった。色がないはずなのに、温かい。絵の中の俺の顔に、篠宮が感じている俺の存在感が丸ごと含まれている。
短い言葉で感想を言いたかった。でも、「すごい」じゃ足りない。「上手い」じゃ違う。「好きだ」と言うには少し照れる。
俺は息を一つ吸って、ゆっくり言った。
「......篠宮」
「なに?」
「この絵、綺麗だ」
今度は、「色がないのに」とは言わなかった。
ただ、「綺麗だ」とだけ言った。
これまでの俺は、篠宮の絵を見るたびに、必ず「色がないのに綺麗」という言い方をしていた。色がないことを前提にしないと、"綺麗だ"を認められなかった。でも、今日は違った。色があろうとなかろうと、この絵は綺麗だった。モノクロだから綺麗でも、モノクロじゃないから綺麗でもない。ただ、綺麗だった。
篠宮は一瞬、目を見開いた。
それから、ゆっくりと、小さく笑った。口元だけの笑みじゃなく、目元まで届く柔らかい笑い。俺が見た中で、一番静かで、一番嬉しそうな笑顔だった。
「......ありがとう、水無瀬くん」
それだけ言って、篠宮は絵を丁寧に机の上に置き直した。
* * *
俺は窓のほうを見て、心の中で一つの言葉を呟いた。
――色のない君が、いちばん綺麗だった。
そんな台詞は、俺のキャラじゃない。口に出すなんて、絶対にできない。でも、心の中で思ってしまったのは事実だった。否定できない事実だった。
モノクロの絵を描く篠宮。モノクロの世界を生きる篠宮。色がない、色が見えない、色を失った、そのどれで形容しても、彼女の形は変わらない。そして、その形の中には、俺が見てきたどんな"綺麗"よりも、綺麗なものが、確かに、ある。
それを認めるのは、少しだけ、怖い。
認めた瞬間、俺の中の"別に"や"普通"の塀が、決定的に崩れる気がするから。
でも、もう、たぶん、崩れている。
崩れ始めたのは、二ヶ月前、この準備室に初めて入った日。俺が迷い込んで、篠宮が「ここ、私の場所なんだけど」と言った、あの日。
気づくのが、ちょっとだけ遅かっただけだ。
* * *
窓の外で、雨が少しずつ止みかけていた。
篠宮がふと、窓のほうを見た。雨が止む瞬間の光の変化を、彼女は敏感に感じ取るらしい。俺も彼女の視線を追って窓の外を見た。
灰色の雲の切れ間から、夕方の光が一筋だけ差し込んでいた。柔らかい光だった。傾いた光が、湿った校舎の壁を照らして、水滴が光を反射していた。俺の目には、光の中にほんのり薄いオレンジが混じって見えた。
「......綺麗だな」
俺はぽつりと言った。
今日の俺は、穏やかに「綺麗だ」という言葉を使えていた。昨日までの俺なら、同じ光景を見ても、せいぜい「明るくなったな」くらいしか言わなかったはずだ。
篠宮は窓のほうを見たまま、突然、一瞬だけ目を閉じた。
「......あ」
小さな声で、呟いた。
「どうした」
「今、一瞬......何か見えた気がした」
俺は彼女の顔を見た。
「前より、ちょっとだけ、はっきり」
「......何色だ」
「分からない。色の名前は、私、まだ知らないから。でも――」
篠宮は、次の言葉を、少しだけ時間をかけて選んだ。
「でも、温かかった」
俺は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが確かに動くのを感じた。
温かい色、というのは、たぶん、赤か、オレンジか、黄色か、そのあたりの色のことだ。夕方の光に含まれる温かい色。篠宮は今、窓から差し込んだ夕方の一筋の光の中に、確かに"温かい何か"を見たらしい。
それが本物の色なのか、気のせいなのか、俺には判定できない。
でも、篠宮の顔は、さっきの絵の中の俺の顔よりも、ずっと"何か"を掴んだ顔をしていた。
俺は、動き出した胸の中のものを、押さえつけようとした。感じたくない、と自分に言い聞かせた。名前をつけたくない。名前をつけると、逃げられなくなる。
でも、感じてしまった。
もう、押さえられなかった。
――この人に、何かあってほしくない。
それが、俺の胸の中で動いた"何か"の、たぶん一番近い言葉だった。
篠宮に色が戻ったら嬉しい。戻らなくても彼女の世界は変わらず美しい。でも、戻りかけた色が彼女を混乱させたり、不安にさせたりするのが怖い。彼女の穏やかさが揺らぐのが怖い。
それは"心配"なのか"独占欲"なのか。俺には判定する言葉がまだなかった。でも、どちらであっても、これまでの俺が持っていなかった種類の感情だった。
何かを大事に思うというのは、こういう重さを伴うのかもしれない。大事に思うほど、失うのが怖くなる。失うのが怖くなるほど、大事だと認めたくなくなる。
俺はその感情の"重さ"を、たぶん今日、初めてちゃんと感じた。
篠宮は窓の外を見たまま、もう一度、目を閉じて深く呼吸をした。
「......もう、見えなくなった」
彼女はそう言った。
「でも、見えた気がしたのは、本当。気のせいじゃない、と思う、今は」
「......うん」
「ゆっくりでいいよって水無瀬くんが言ってくれたから、ゆっくり見ていけばいいって思えてる」
「......そうだな」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
今日の言葉は、このくらいがちょうどよかった。多くを語らないことが、今の篠宮のペースを尊重することだった。
* * *
帰り道、雨はすっかり止んでいた。
俺は一人で家に向かって歩いていた。篠宮とは校門で別れた。別れ際、篠宮は「また明日ね」とだけ言った。俺は「......ああ」と短く返した。それだけのやり取り。いつもと同じ別れ方。でも、今日だけは、そのいつも通りが、少しだけ特別に感じられた。
空は雨上がりの色をしていた。薄い水色と、オレンジと、薄い紫が、雲の隙間で混ざり合っていた。俺はその空をしばらく眺めていた。綺麗だ、と今日の俺は、口の中で小さく呟くことができた。
――あの日、あの準備室で出会わなければ、俺はきっとまだ、何も感じないまま生きていた。
歩きながら、俺はそう思った。
それが良かったのか悪かったのか、まだ分からない。感じないほうが楽な瞬間もあるし、感じてしまうから辛い瞬間もある。でも、少なくとも今日の俺は、夕方の空を見て、「綺麗だ」と思える人間になっていた。
それだけは、確かな事実だった。
俺の中で、変わった何かが、確かにあった。
家まで、あと少し。
歩きながら、俺はもう一度、空を見上げた。
色のある世界を、少しだけ丁寧に見ながら、歩いた。
そして、俺は、もう一度心の中で繰り返した。
――色のない君が、いちばん綺麗だった。
今日はまだ、自分に向けて呟いただけだ。口に出せる日が来るかは分からない。でも、胸の奥にその言葉を置いておくことが、俺にとっての今日の答えだった。
そして、たぶん、この言葉は、明日から俺の中で少しずつ成長していく。
篠宮の中に色が戻りかけているように、俺の中にも感情が戻りかけている。
その二つが一緒に進んでいくのを、俺はこの先も見届けたかった。
"見届ける"という言葉には、少しだけ、関わり続けるという意思が含まれていた。俺は初めて、誰かに対して"関わり続けたい"という意思を、自分の中にはっきり持った。
それは、俺にとって、決して小さな変化じゃなかった。




