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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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26/28

見えたかもしれない

 火曜日の朝から、空は灰色だった。

 朝のニュースの天気予報は「午後から本降り」と言っていた。俺は折りたたみ傘を鞄に入れて家を出た。昼過ぎになると、予報通り雨が降り始めた。最初は細かい霧のような雨、それが少しずつ粒を大きくして、5限目の頃には窓ガラスに水滴の筋が伸びていた。

 こういう日は、俺は嫌いじゃなかった。昔から、雨の日は気分が少しだけ落ち着く。理由ははっきりしないが、雨の音が視界と聴覚の両方を柔らかくしてくれる気がする。世界の輪郭が、少しだけぼやけて、それが俺には心地よかった。


 放課後、俺は美術準備室に向かった。

 扉を開けると、篠宮(しのみや)はいつもの場所で絵を描いていた。今日のモチーフは、窓の外の雨だった。縦の線が何本も紙の上を走っていて、その線の間に、薄い灰色の空と、さらに薄い灰色のビル群のシルエットが描かれていた。モノクロの絵の中で、雨が確かに"落ちている"のが分かった。

 俺はいつもの場所に座って、文庫本を開いた。開いただけで、読まなかった。雨の日の美術準備室では、文字よりも、雨の音に耳を傾けるほうが似合う気がした。


 窓の外の雨の音。

 室内の鉛筆の音。

 その二つが、重ならずに並行して聞こえていた。


 * * *


 どれくらい経ったか分からない。20分くらい経った頃、篠宮がふと手を止めて、窓のほうを見た。

「雨の日って、世界が静かになるね」

 彼女の声は、普段よりも少しだけ低かった。

「......そうだな」

「色が少なくなるから、静かに見えるのかな」

 俺はその言葉を少し考えてから、頷いた。

「......たぶん、そうだと思う。雨の日は灰色が多いから、視界の情報量が減るんだと思う。晴れの日は青と緑と白と色々あって、目がそっちに持っていかれる。雨の日は全部灰色に寄るから、目が止まるところが少ない。だから、静かに感じる」

「情報量が減る、か」

 篠宮は少しだけ嬉しそうな顔をした。

水無瀬(みなせ)くん、いいこと言うね」

「......別に、いいこと言ってない」

「言ってる。さっきの"情報量が減るから静かに見える"って説明、私がずっと言葉にできなかったことを、ちゃんと言葉にしてくれた」

「......言葉にできなかった?」

「私ね、雨の日って好きなの。雨の日の世界は、私がいつも見てる世界に近い気がして。だから、ちょっとだけ、"みんなが私の世界を見てる"みたいな気分になる」


 俺はその言葉に、ハッとした。

 言われてみれば、そうだった。雨の日は、色が見える人間にとっても、世界が灰色寄りになる。いつもは鮮やかな視界が、雨の日だけは、色の情報量が減って、モノクロに近づく。

 篠宮の普段の世界は、ずっとその"雨の日の見え方"に近い。

 だから彼女にとって雨の日は、他の人が自分の世界に一歩だけ近づいてくる日、ということになる。

「......雨の日は、篠宮の世界に近い、ってことか」

「うん、そう」

 篠宮は嬉しそうに頷いた。

「水無瀬くんはすぐ理解してくれる。普通の人にこの話をすると、『雨の日は憂鬱でしょ』って言われて、話が終わっちゃうの。私は憂鬱じゃないって言っても、相手に伝わらない」

「俺は、別に、理解力があるわけじゃない」

「あるよ、水無瀬くん。理解してくれる人って、少ないんだよ」


 俺は返事を探したが、見つからなかった。

 篠宮にそう言われることが、なぜか、胸の中に小さな熱を作った。理解力がある、と言われたことが嬉しいわけじゃない。理解されている、と感じてもらえたこと自体が、嬉しかった。俺が何気なく口にした一言を、篠宮は真剣に受け取ってくれていた。"受け取る"という行為が、俺の言葉に意味を与えていた。


 * * *


 篠宮は鉛筆をまた動かし始めた。雨の縦線を追加で何本か引いて、それから、全体を少しだけ遠くから眺めた。

 俺は文庫本を閉じて、窓の外を見た。

 雨はさっきより少しだけ強くなっていた。窓ガラスを伝う水滴の筋が、長く、太く、何本も重なっていた。遠くのビルのシルエットは、雨に霞んで、半分くらい消えかけていた。視界の情報量が、さらに減っていた。


 少しの沈黙があって、篠宮がまた手を止めた。

 いつもの絵を描く休憩とは違う。何か言いたいことがある時の止まり方だった。

「......ねえ、水無瀬くん」

「ん?」

「一つ、聞いていい? 変なこと言うけど」

「......なんだ」


 篠宮は鉛筆を机に置いた。それから、窓の外を見たまま、少しだけ時間をかけて言葉を選んだ。


「最近、たまに、何か見えることがあるの」


 俺は、彼女の言葉の意味を、一瞬、掴み損ねた。

 何か見える?

「......何かって?」

「分からない。見える、って言っていいのかもよく分からない。感じる、のほうが近いかもしれない。見えるでも、感じるでもなくて、その中間の何か」

「......うん」

「例えば、水無瀬くんと話してて、笑った時。ぱって、視界の一部が明るくなることがあるの。いつも通りのグレーの世界の一角だけ、ふわっと、普段より少しだけ違う感じになる」

「......」

「光の強さが変わったとかじゃないの。光の強さは、私、もともと敏感に感じ取れるから、それじゃないって分かる。もっと違う種類の、私がこれまで経験したことのない"何か"が、一瞬だけ見える時がある」


 俺は自分の心臓が、少しだけ早く打つのを感じた。

 篠宮の言っていることの意味が、頭の中で一つの仮説にまとまりかけていた。でも、それを言葉にしていいのか、判断がつかなかった。言葉にしたら、篠宮の中で何かが確定してしまう気がした。確定していいものなのか、悪いものなのか、俺には分からなかった。

 でも、篠宮はたぶん、俺がその仮説を口にすることを待っていた。自分で口にするのは怖くて、でも誰かに言ってほしくて、俺に話しかけた。そういう顔をしていた。

 俺の頭の中に、奈都(なつ)の声が蘇った。前に図書室で、奈都は篠宮のモノクロについてこう言っていた。「篠宮さんのは生まれつき。メカニズムが同じかどうかは、正直、分からない。でも――もし同じなら、志田(しだ)さんを助けるプロセスは、篠宮さんのヒントにもなるかもしれない」。

 志田の赤は、感情と向き合ったことで戻り始めた。篠宮の色彩乖離(しきさいかいり)も、もし同じメカニズムなら、同じように戻りうる。

 でも、奈都は同時に言っていた。「篠宮さんのは生まれつき」。メカニズムが同じとは限らない。ぬか喜びをさせたら、篠宮の心をむやみに揺らすことになる。

 俺は一瞬、迷った。

 言うべきか、言わないべきか。

 でも、篠宮は既に感じている。感じていることを、自分だけで抱え込んでいる。抱え込んだままにしておくのは、今の篠宮にとっては辛いはずだった。一緒に抱える人が必要だった。

 俺は息を一つ吸って、ゆっくり言った。


「......それ、色かもしれない」


 篠宮の目が、少しだけ見開いた。

「色?」

「うん」

「私に?」

「......分からない。でも、聞いてる限り、色の説明に近い気がする」


 二人とも、そこで黙った。

 雨の音だけが、部屋の中に残った。

 篠宮は自分の手元を見ていた。じっと、何か考えているみたいに。俺は彼女の横顔を、邪魔しないように、ただ静かに眺めていた。口を挟んではいけない場面だと、俺にも分かった。


 やがて、篠宮は小さく呟いた。

「......まだ、確信はないの」

「うん」

「気のせいかもしれない。光の強さの変化を、私の脳が勝手に色と勘違いして解釈してるだけかもしれない。奈都ちゃんなら、たぶん、そういう脳のバグの説明をしてくれる」

「......」

「でもね、もし本当にそれが色だったら――」

 篠宮はそこで言葉を切った。続きを言うのを、躊躇っていた。

 俺は待った。

 しばらくしてから、彼女は小さな声で続けた。


「もし本当に色が戻りかけてるんだとしたら、私、どうしたらいいか、分からないの」


 俺はその言葉を受け取って、胸の奥で丁寧にしまった。

 "どうしたらいいか分からない"。それは"嬉しい"とも"怖い"とも違う、もっと複雑な感情だった。篠宮は14年間、"色がない自分"という形で自分の世界を組み立てて生きてきた。その世界が少しだけ揺らぎ始めている。揺らぎは、たぶん、彼女にとって歓迎すべきことであり、同時に、恐怖でもあった。

 でも、俺は、その複雑さを丸ごと抱えたまま立ち尽くす篠宮に、何をしてあげればいいか分からなかった。

 分からないから、ただ、言葉を一つだけ返した。

「......焦らなくていいんじゃないか」

「焦らない?」

「気のせいでも、本物でも、今決めなくていい。しばらく、そのまま観察してればいいと思う。"見えたかもしれない"くらいの強さで、ちょうどいい気がする」

 篠宮は俺の顔を見て、少しだけ笑った。

「......水無瀬くんって、時々、すごく穏やかなこと言うよね」

「そうか」

「うん。意外と、一番必要な言葉をくれる」


 俺は返事をしなかった。返事をしたら、なんか崩れそうだった。

 代わりに、窓の外の雨をもう一度見た。雨は相変わらず静かに降っていた。灰色の世界が、情報量を絞った状態で、俺と篠宮の周りを包んでいた。

 今日の沈黙は、これまでのどの沈黙よりも、少しだけ"重さのある"沈黙だった。重さと言っても、息苦しさじゃない。意味の密度の話。


 * * *


 放課後の時間が終わって、俺たちは準備室を出た。

 帰り道、雨はまだ降り続けていた。俺は折りたたみ傘を開いて、篠宮は自分の傘を開いて、並んで校門を出た。相合傘にはしなかった。傘を二本広げているほうが、俺たちの今の距離感には合っていた。

 歩きながら、俺の頭の中では、篠宮の言葉がずっと反響していた。

 "水無瀬くんと話してて、笑った時"。

 その言葉が、今日の俺の頭から、なかなか離れなかった。

 もし本当に篠宮に色が戻りかけているなら、それは俺のせいなのか。俺のせいとは言わないまでも、俺が一つのきっかけになっているのか。

 考えれば考えるほど、答えが出なかった。でも、答えが出ないまま、胸の中で何かがゆっくり温まっていくのを、俺は感じていた。


 家に着いて、傘を閉じて、玄関のたたきで雨粒を払った。

 部屋に入って、俺はまだ篠宮のことを考えていた。考えながら、ふと、自分も"見えているもの"が少しずつ変わってきた気がしていた。

 篠宮の世界に色が戻り始めているなら、俺の世界には――感情が戻り始めている。形は違うが、方向は同じだった。二人とも、これまで"失っていた何か"を、少しずつ取り戻しかけている。

 それが偶然なのか、必然なのか、俺にはまだ分からなかった。

 でも、偶然ではない気がした。ぼんやりと、そんな予感だけがあった。


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