色と温度
月曜日の昼休み、俺は篠宮に誘われて屋上の非常階段に向かった。
「今日、外で食べない?」
朝のホームルームの後、篠宮が自分の席から振り返って、俺にそう言ったのだ。
「......外?」
「うん。今日すごく天気いいから、校舎の中で食べるのもったいない気がして」
「......まあ、別にいいけど」
いつもの「別に」が口から出た。でも、今日の「別に」は、断る意味じゃなかった。ただの習慣。実際、俺は少しだけ外で食べたい気分だった。
行き先は、俺が無意識に選んだ。非常階段の踊り場。新学期が始まった頃、一人で弁当を食べていた、あの場所。今は一人じゃなく、篠宮と二人で。
* * *
踊り場に着くと、5月の風が俺たちを迎えた。
風は暖かく、光は眩しく、空は抜けるように高かった。最高の昼休み日和と呼んでいい天気だった。
俺は階段の段に腰を下ろして、鞄から弁当箱を取り出した。父さんが今朝作ってくれた弁当。相変わらず卵焼きが歪んでいて、ウインナーの端が焦げていた。いつも通りの、下手な弁当。でも、今日は少しだけ、その不器用さに愛おしさを感じた。
篠宮は俺の隣、一段離れた場所に座った。彼女も弁当箱を膝に乗せた。中身は相変わらず白っぽい食べ物ばかりだった。ごはん、卵焼き、鶏のささみ、ゆで卵。彩度の低い、篠宮仕様の弁当。
俺たちは黙って食べ始めた。
今日の沈黙は、最初の頃と違っていた。
初めて美術準備室に入った日、俺は「この人は重力を持たない」と思った。同じ部屋にいるのに、気を遣わなくていい相手。あの時の俺は、篠宮のそばにいる楽さに気づいて、少し驚いていた。
今日の沈黙は、あの楽さの延長線上にある。ただし、少しだけ質が変わっていた。
あの時は「他人なのに気を遣わなくていい」という楽さだった。今日は「他人じゃないから黙っていられる」という楽さだった。
違いは微妙だった。でも、決定的だった。
俺は卵焼きを一口齧った。相変わらず甘い。父さんの砂糖の入れすぎ。
「水無瀬くんのお弁当、いつも卵焼きあるね」
篠宮がふと言った。
「うん。父さんの定番」
「お父さん、作ってくれるんだね」
「......下手だけど」
「下手でも、毎日作るのってすごいと思うよ」
「......まあ、そうだな」
俺は短く答えた。でも、心の中では少しだけ頷いていた。
下手でも、毎日作る。それが父さんなりの会話だった。俺はその会話を、長い間ちゃんと受け取っていなかった。最近、少しだけ受け取れるようになってきた。
篠宮の弁当箱の中身を、俺はちらりと見た。
「......全部白っぽいな」
「うん」
「前に言ってたけど、食べ物を色で選べないから?」
「それもあるけど、味で選ぶと結局白いのが多いの。豆腐、うどん、鶏肉、卵。どれも私にとって"安定した味"だから」
「......安定」
「新しい食べ物は、色が見えないと、味の予想がつかないの。見た目から味を予想するって、普通の人が無意識にやってることなんだけど、私はそれができないから、初めての食べ物はいつも『これ、どんな味だろ』って緊張する。緊張するのが嫌な日は、慣れてる白いものに戻るの」
「......へえ」
俺は少しだけ、色が見える俺の当たり前が揺らいだ。俺は普段、食べ物の見た目で味を予想することを意識したことがなかった。でも、言われてみれば、トマトは赤いから"トマトの味"を予想できて、レモンは黄色いから"酸っぱさ"を予想できる。色が見えないなら、その予想は全部不可能になる。
すべての食べ物が、毎回、初めての食べ物になる。
それは想像以上に消耗することだろう、と思った。
「でもね、たまに、すごく美味しい新しい食べ物に出会うと、それが嬉しいの。白じゃない食べ物の中にも、好きなものがちゃんとある。緊張した分だけ、当たった時の嬉しさは大きい」
「......そうか」
「だから、私は白ばっかりの弁当だけど、世界の食べ物全部が嫌いなわけじゃないよ。ただ、自分のペースで進んでるだけ」
俺はその話を聞きながら、篠宮の食べ方を見ていた。彼女はゆっくり、一つずつ味わうように食べていた。"安定した味"を"安定していると確認する"ような丁寧な食べ方。それは、色がない世界で積み上げてきた彼女なりの食事の作法だった。
俺は少し考えてから、自分の弁当の卵焼きを箸で持ち上げた。
「......これ、食うか?」
「え?」
「父さんの卵焼き。甘いけど、まあ、食えないほどじゃない」
「いいの?」
「......一切れくらい、減っても気にしない」
篠宮は少しだけ驚いた顔をしてから、自分の箸で受け取って、口に運んだ。ゆっくり噛んで、咀嚼して、それから頷いた。
「......甘い。でも、嫌な甘さじゃないね。ちょっと家庭的」
「下手な味を家庭的って言うの、優しすぎないか」
「優しいんじゃなくて、そう思ったから言ってるだけだよ」
篠宮はそう言って、小さく笑った。
* * *
弁当を食べ終えて、俺は空を見上げた。
5月の晴れた空。雲は一つもない。抜けるような青一色。
篠宮も同じ方向を見ていた。
「ねえ、水無瀬くん」
「ん?」
「今日の空って何色?」
また来た、と俺は思った。篠宮の「色ってどんな感じ?」シリーズ。でも、今日の問いかけは、これまでと少しだけ違っていた。「赤ってどんな感じ?」じゃなく「今日の空は何色?」。特定の色の説明を求めているわけじゃなく、"今、目の前の空"について聞いている。
「......青」
「どんな青?」
「深い青。雲が少なくて、遠くまで見える。空がここから、ずっと向こうまで全部同じ色で繋がってる感じ。境目がない」
「境目がない青」
「うん。普段の空はさ、雲があって、雲の白と空の青で視線が止まる。今日はその止まる場所がない。だから、目がどこまでも飛んでいく気がする」
「......遠くまで見える青、か」
篠宮は少しだけ目を閉じた。
「それって、自由って感じ?」
「自由?」
「だって、遮るものがなくて、どこまでも行けるんでしょ。それって、自由じゃない?」
俺は空をもう一度見上げた。
自由。
そういう言葉を今日の空に貼り付けると、確かに、それっぽく見えた。何にも邪魔されずにどこまでも広がっている空は、自由な空と呼んでいいのかもしれない。
でも同時に、自由って、広すぎると少しだけ怖いものでもある。境目がないということは、自分がどこに立っているかの目印もないということだった。高い塀の中で暮らしている人間は、塀があるから"ここは自分の場所"だと確認できる。塀が消えた瞬間、自分の場所が突然あいまいになる。
俺はたぶん、これまで"感情にフタをする"という塀の中で暮らしてきた。塀があったから、"俺はこういう人間だ"と確認できた。最近、その塀が少しずつ崩れかけている。崩れるのは悪いことじゃないはずなのに、崩れた先の広さに、時々少しだけ怖さを感じる。
「......自由だけど、ちょっと怖い青、かもな」
「怖い?」
「広すぎて、どこに向かえばいいか分からない。そういう怖さ」
篠宮は頷いた。
「分かる気がする。でもね、一人で見てる時と、誰かと一緒に見てる時は、たぶん違うよ」
「......違う?」
「一人で広い空を見てたら、"どこに向かえばいいか分からない"って怖くなるかもしれない。でも、隣に誰かがいると、『どこにも向かわなくていい。ここにいてもいい』って思える」
俺は篠宮の横顔を少しだけ見た。
彼女は空を見ていた。彼女の目には今日も灰色のグラデーションしか映っていない。でも、彼女なりの"境目のない広さ"を、たぶん感じ取っていた。彼女の世界にも"どこまでも続くもの"はある。色じゃない形で。
俺は自分の隣に篠宮がいることを、少しだけ意識した。
一人で見る空と、篠宮の隣で見る空は、違う。
違う、と頭では分かっている。でも、何がどう違うのか、俺はまだ言葉にできなかった。言葉にできないから、しばらく黙っていた。
篠宮も黙っていた。風が踊り場を通り抜けていった。
沈黙は、今日も、気まずくなかった。
そういえば、と俺は思い出した。新学期が始まったばかりのあの日、俺は同じ踊り場で一人で弁当を食べていた。同じ空の下、同じ風の中で、俺は何も感じないまま夕焼けを見送った。
今日、同じ踊り場に俺はいる。隣に篠宮がいる。空は青い。風は暖かい。俺は――少しだけ、いろんなことを感じている。自由、怖さ、篠宮の隣の温度、父さんの卵焼きの甘さ。全部が微妙な粒度で、俺の中にちゃんと存在している。
あの頃の俺が今の俺を見たら、たぶん、驚くだろう。
「こいつ、こんなに感じる人間だったのか」と。
自分で自分を驚かせることが、こんなに不思議な感覚だとは思わなかった。
* * *
昼休み終了のチャイムが鳴る少し前、篠宮が立ち上がった。
「そろそろ戻ろうか」
「......ああ」
俺も立ち上がって、弁当箱を鞄にしまった。
踊り場を下りる前に、俺は一度だけ振り返って、もう一度空を見上げた。
変わらずに、境目のない青が広がっていた。
俺はその青に、名前をつけないままにしておいた。自由でも怖いでもなく、ただ"篠宮の隣で見る空"として、そのまま記憶の中に置いておいた。
それで十分だった。




