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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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25/28

色と温度

 月曜日の昼休み、俺は篠宮(しのみや)に誘われて屋上の非常階段に向かった。

「今日、外で食べない?」

 朝のホームルームの後、篠宮が自分の席から振り返って、俺にそう言ったのだ。

「......外?」

「うん。今日すごく天気いいから、校舎の中で食べるのもったいない気がして」

「......まあ、別にいいけど」

 いつもの「別に」が口から出た。でも、今日の「別に」は、断る意味じゃなかった。ただの習慣。実際、俺は少しだけ外で食べたい気分だった。

 行き先は、俺が無意識に選んだ。非常階段の踊り場。新学期が始まった頃、一人で弁当を食べていた、あの場所。今は一人じゃなく、篠宮と二人で。


 * * *


 踊り場に着くと、5月の風が俺たちを迎えた。

 風は暖かく、光は眩しく、空は抜けるように高かった。最高の昼休み日和と呼んでいい天気だった。

 俺は階段の段に腰を下ろして、鞄から弁当箱を取り出した。父さんが今朝作ってくれた弁当。相変わらず卵焼きが歪んでいて、ウインナーの端が焦げていた。いつも通りの、下手な弁当。でも、今日は少しだけ、その不器用さに愛おしさを感じた。

 篠宮は俺の隣、一段離れた場所に座った。彼女も弁当箱を膝に乗せた。中身は相変わらず白っぽい食べ物ばかりだった。ごはん、卵焼き、鶏のささみ、ゆで卵。彩度の低い、篠宮仕様の弁当。

 俺たちは黙って食べ始めた。


 今日の沈黙は、最初の頃と違っていた。

 初めて美術準備室に入った日、俺は「この人は重力を持たない」と思った。同じ部屋にいるのに、気を遣わなくていい相手。あの時の俺は、篠宮のそばにいる楽さに気づいて、少し驚いていた。

 今日の沈黙は、あの楽さの延長線上にある。ただし、少しだけ質が変わっていた。

 あの時は「他人なのに気を遣わなくていい」という楽さだった。今日は「他人じゃないから黙っていられる」という楽さだった。

 違いは微妙だった。でも、決定的だった。


 俺は卵焼きを一口齧った。相変わらず甘い。父さんの砂糖の入れすぎ。

水無瀬(みなせ)くんのお弁当、いつも卵焼きあるね」

 篠宮がふと言った。

「うん。父さんの定番」

「お父さん、作ってくれるんだね」

「......下手だけど」

「下手でも、毎日作るのってすごいと思うよ」

「......まあ、そうだな」

 俺は短く答えた。でも、心の中では少しだけ頷いていた。

 下手でも、毎日作る。それが父さんなりの会話だった。俺はその会話を、長い間ちゃんと受け取っていなかった。最近、少しだけ受け取れるようになってきた。


 篠宮の弁当箱の中身を、俺はちらりと見た。

「......全部白っぽいな」

「うん」

「前に言ってたけど、食べ物を色で選べないから?」

「それもあるけど、味で選ぶと結局白いのが多いの。豆腐、うどん、鶏肉、卵。どれも私にとって"安定した味"だから」

「......安定」

「新しい食べ物は、色が見えないと、味の予想がつかないの。見た目から味を予想するって、普通の人が無意識にやってることなんだけど、私はそれができないから、初めての食べ物はいつも『これ、どんな味だろ』って緊張する。緊張するのが嫌な日は、慣れてる白いものに戻るの」

「......へえ」

 俺は少しだけ、色が見える俺の当たり前が揺らいだ。俺は普段、食べ物の見た目で味を予想することを意識したことがなかった。でも、言われてみれば、トマトは赤いから"トマトの味"を予想できて、レモンは黄色いから"酸っぱさ"を予想できる。色が見えないなら、その予想は全部不可能になる。

 すべての食べ物が、毎回、初めての食べ物になる。

 それは想像以上に消耗することだろう、と思った。

「でもね、たまに、すごく美味しい新しい食べ物に出会うと、それが嬉しいの。白じゃない食べ物の中にも、好きなものがちゃんとある。緊張した分だけ、当たった時の嬉しさは大きい」

「......そうか」

「だから、私は白ばっかりの弁当だけど、世界の食べ物全部が嫌いなわけじゃないよ。ただ、自分のペースで進んでるだけ」

 俺はその話を聞きながら、篠宮の食べ方を見ていた。彼女はゆっくり、一つずつ味わうように食べていた。"安定した味"を"安定していると確認する"ような丁寧な食べ方。それは、色がない世界で積み上げてきた彼女なりの食事の作法だった。


 俺は少し考えてから、自分の弁当の卵焼きを箸で持ち上げた。

「......これ、食うか?」

「え?」

「父さんの卵焼き。甘いけど、まあ、食えないほどじゃない」

「いいの?」

「......一切れくらい、減っても気にしない」

 篠宮は少しだけ驚いた顔をしてから、自分の箸で受け取って、口に運んだ。ゆっくり噛んで、咀嚼して、それから頷いた。

「......甘い。でも、嫌な甘さじゃないね。ちょっと家庭的」

「下手な味を家庭的って言うの、優しすぎないか」

「優しいんじゃなくて、そう思ったから言ってるだけだよ」

 篠宮はそう言って、小さく笑った。


 * * *


 弁当を食べ終えて、俺は空を見上げた。

 5月の晴れた空。雲は一つもない。抜けるような青一色。

 篠宮も同じ方向を見ていた。


「ねえ、水無瀬くん」

「ん?」

「今日の空って何色?」


 また来た、と俺は思った。篠宮の「色ってどんな感じ?」シリーズ。でも、今日の問いかけは、これまでと少しだけ違っていた。「赤ってどんな感じ?」じゃなく「今日の空は何色?」。特定の色の説明を求めているわけじゃなく、"今、目の前の空"について聞いている。

「......青」

「どんな青?」

「深い青。雲が少なくて、遠くまで見える。空がここから、ずっと向こうまで全部同じ色で繋がってる感じ。境目がない」

「境目がない青」

「うん。普段の空はさ、雲があって、雲の白と空の青で視線が止まる。今日はその止まる場所がない。だから、目がどこまでも飛んでいく気がする」

「......遠くまで見える青、か」

 篠宮は少しだけ目を閉じた。

「それって、自由って感じ?」

「自由?」

「だって、遮るものがなくて、どこまでも行けるんでしょ。それって、自由じゃない?」


 俺は空をもう一度見上げた。

 自由。

 そういう言葉を今日の空に貼り付けると、確かに、それっぽく見えた。何にも邪魔されずにどこまでも広がっている空は、自由な空と呼んでいいのかもしれない。

 でも同時に、自由って、広すぎると少しだけ怖いものでもある。境目がないということは、自分がどこに立っているかの目印もないということだった。高い塀の中で暮らしている人間は、塀があるから"ここは自分の場所"だと確認できる。塀が消えた瞬間、自分の場所が突然あいまいになる。

 俺はたぶん、これまで"感情にフタをする"という塀の中で暮らしてきた。塀があったから、"俺はこういう人間だ"と確認できた。最近、その塀が少しずつ崩れかけている。崩れるのは悪いことじゃないはずなのに、崩れた先の広さに、時々少しだけ怖さを感じる。

「......自由だけど、ちょっと怖い青、かもな」

「怖い?」

「広すぎて、どこに向かえばいいか分からない。そういう怖さ」

 篠宮は頷いた。

「分かる気がする。でもね、一人で見てる時と、誰かと一緒に見てる時は、たぶん違うよ」

「......違う?」

「一人で広い空を見てたら、"どこに向かえばいいか分からない"って怖くなるかもしれない。でも、隣に誰かがいると、『どこにも向かわなくていい。ここにいてもいい』って思える」


 俺は篠宮の横顔を少しだけ見た。

 彼女は空を見ていた。彼女の目には今日も灰色のグラデーションしか映っていない。でも、彼女なりの"境目のない広さ"を、たぶん感じ取っていた。彼女の世界にも"どこまでも続くもの"はある。色じゃない形で。

 俺は自分の隣に篠宮がいることを、少しだけ意識した。

 一人で見る空と、篠宮の隣で見る空は、違う。

 違う、と頭では分かっている。でも、何がどう違うのか、俺はまだ言葉にできなかった。言葉にできないから、しばらく黙っていた。

 篠宮も黙っていた。風が踊り場を通り抜けていった。

 沈黙は、今日も、気まずくなかった。


 そういえば、と俺は思い出した。新学期が始まったばかりのあの日、俺は同じ踊り場で一人で弁当を食べていた。同じ空の下、同じ風の中で、俺は何も感じないまま夕焼けを見送った。

 今日、同じ踊り場に俺はいる。隣に篠宮がいる。空は青い。風は暖かい。俺は――少しだけ、いろんなことを感じている。自由、怖さ、篠宮の隣の温度、父さんの卵焼きの甘さ。全部が微妙な粒度で、俺の中にちゃんと存在している。

 あの頃の俺が今の俺を見たら、たぶん、驚くだろう。

 「こいつ、こんなに感じる人間だったのか」と。

 自分で自分を驚かせることが、こんなに不思議な感覚だとは思わなかった。


 * * *


 昼休み終了のチャイムが鳴る少し前、篠宮が立ち上がった。

「そろそろ戻ろうか」

「......ああ」

 俺も立ち上がって、弁当箱を鞄にしまった。

 踊り場を下りる前に、俺は一度だけ振り返って、もう一度空を見上げた。

 変わらずに、境目のない青が広がっていた。

 俺はその青に、名前をつけないままにしておいた。自由でも怖いでもなく、ただ"篠宮の隣で見る空"として、そのまま記憶の中に置いておいた。

 それで十分だった。


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