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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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24/28

私の目になって

 土曜日の午後、俺は駅から少し離れた市の公民館に向かって歩いていた。

 展示会の会場だ。美術部の合同展示会という名前で、市内のいくつかの高校の美術部が一つの会場に集まって作品を並べるらしい。篠宮(しのみや)から事前に「来てくれる?」と頼まれていたから、来ないという選択肢はなかった。

 俺は展示会というものにほとんど行ったことがない。美術館も、小学校の遠足以来だった。正直、どんな顔で見て回ればいいのか分からなかった。

 公民館の入り口に着いた時、俺は一度だけ立ち止まって、ガラス扉に映る自分の姿を見た。

 いつもの冴えない顔だった。でも、少しだけ、いつもより表情が整っている気がした。気のせいかもしれないが。


 * * *


 展示会場は、公民館の二階の広いスペース一つを使っていた。

 パネルが並べられて、その上に各校の作品が貼られている。油絵、水彩、デッサン、版画。色とりどりの作品が並ぶ中を、訪問客が自由に歩き回っていた。土曜日の午後ということもあって、家族連れや年配の夫婦が多かった。高校生の姿もちらほらある。

 俺は入場受付で無料のパンフレットを受け取って、会場に入った。

 パンフレットの地図を見て、篠宮の出展する位置を探した。"霞ヶ丘高校 美術部"のブースは、会場の奥のほうだった。

 パネルの前を歩きながら、俺は他校の作品を少しだけ眺めた。色鮮やかな油絵、写真みたいに精緻な静物画、抽象的な現代アート。どれもそれぞれに良いものだった。でも、俺の足は、そのどれの前でも止まらなかった。

 目的は一つだけだった。


 霞ヶ丘のブースに着いた時、俺はすぐにその一枚を見つけた。

 篠宮の絵だ。

 パネルの真ん中、やや高い位置に貼られていた。サイズは他の作品より少し小さい。でも、他の作品に囲まれていても、その一枚だけが明らかに"違った"。色がないからだ。

 モノクロの窓と光の絵。

 美術準備室で一度見たはずの絵が、今日ここで、改めて俺の目に届いた。周囲の鮮やかな絵の中で、モノクロの絵は静かだった。静かすぎて、逆に目を引いた。主張しないから、気になる。そういう不思議な引き方だった。

 俺はその絵の前にしばらく立っていた。

 水曜日に初めて見た時と、今日の印象は、少しだけ違った。水曜日の俺は、"篠宮が描いた絵"として見ていた。今日の俺は、他の作品と並んだ中でこの絵を見ている。周囲のコントラストがあるから、この絵の独自性がより際立っていた。


「......へえ。面白い作品ね」

 後ろから声がして、俺は振り向いた。

 年配の女性が二人、パネルを見上げていた。絵に興味を持ったみたいで、穏やかな顔で眺めている。

「写真みたいな精緻さじゃないのに、光の存在感がすごい」

「色がないのが、逆にいいのかしら」

 二人は小さな声で会話をしていた。俺はその会話を聞きながら、少しだけ嬉しくなった。俺以外の人にも、この絵の良さが伝わっている。篠宮の描きたかったものが、ちゃんと受け取られている。

 二人の女性は数分眺めてから、次のパネルへと移っていった。


 * * *


 しばらくしてから、別の声が聞こえてきた。

「ねえ、この絵、なんで白黒なの?」

 高校生くらいの女子二人だった。制服を見る限り、他校の生徒。彼女たちは篠宮の絵の前で立ち止まって、首を傾げていた。

「カラーで描けばもっと良くなるのに」

「絵の具、ケチったのかな」

 軽い口調だった。悪意があるわけじゃない、ただの素朴な感想。でも、その言葉は俺の中で少しだけ引っかかった。

 俺は何か言おうとして、やめた。知らない他校生に向かって反論する立場じゃない。

 その時、すぐ後ろから声がした。

「それは、描いた本人が選んだ表現だと思いますよ」

 振り向くと、篠宮が立っていた。

 いつの間に来たのか、俺はまったく気づかなかった。篠宮は他校生の女子二人の横で、自然な笑顔を浮かべて絵を見上げていた。彼女たちに「あなたの絵ですか?」と聞かれる前に、先回りして"客の一人"として発言したらしい。

「へえ、そうなんだ」

 他校生の一人が言った。

「でも、色があったほうが綺麗じゃない?」

「色があったほうが綺麗なものと、色がないほうが綺麗なものがあって、たぶんこの絵は後者を選んだんじゃないかな」

「ふうん」

 他校生は納得したんだかしてないんだか分からない顔で、次のパネルへ移っていった。


 彼女たちの背中が少し遠ざかってから、別の観客の声がまた聞こえた。

「この白黒の絵、なんか好き。静かで」

「うん、他の絵と全然違う存在感ね」

 小学生くらいの女の子と、その母親らしき人の会話だった。小さな声で、でも篠宮の絵の前で立ち止まっている。

 評価は半々だった。"色がないからいい"と感じる人と、"色がないから物足りない"と感じる人。両方の声が、同じ絵の前で交差していた。

 それが展示会というものの本当の姿なのかもしれない。同じ一枚の絵が、観る人によってまったく違うものに見える。篠宮の絵は、その"違い"が特に大きく出る絵だった。色という共通の手がかりがないぶん、受け手の想像力に強く依存する。だから、ハマる人には深くハマるし、ハマらない人には素通りされる。

 篠宮は彼女たちが去った後も、絵の前に立っていた。

 俺は篠宮の隣に並んだ。

「......平気か?」

「うん」

「さっきの、平気って顔してるけど」

「平気だよ」

 篠宮はそう言って、小さく笑った。

 でも、その笑顔の端に、ほんの少しだけ無理が混じっていた。先週までの俺なら気づかなかったかもしれない。最近の俺は、少しだけ、篠宮の表情の微細な違いが読めるようになっていた。

 ――無理してるな。

 声には出さなかった。でも、分かった。篠宮は、"カラーで描けばもっと良くなるのに"という言葉を、何度も聞いてきたんだろう。色が見えない彼女にとって、その言葉は、自分の描き方を否定される言葉だった。慣れているからこそ、表情を作れる。慣れているからこそ、そこに無理が滲む。


水無瀬(みなせ)くん、来てくれてありがとう」

 篠宮は話題を変えるみたいに言った。

「......ん」

「他のブースも見て回る?」

「まあ、せっかくだから」


 俺たちは他のブースを回った。回りながら、篠宮はいくつかの作品の前で立ち止まって、「この絵の光の角度が好き」とか「この線の迷いが優しい」と短い感想を言った。俺は黙って聞いていた。篠宮の見方は、俺の見方とまったく違った。色ではなく、光と線と構図で絵を読んでいる。その視点を隣で借りているだけで、俺の中で絵の印象がだんだん変わっていった。


 途中で、奈都(なつ)にも会った。

 奈都は一人でパンフレットを広げて、真剣な顔で誰かの絵を見ていた。俺たちに気づいて、普段と変わらない平坦な口調で「あ、水無瀬くん。篠宮さんも」と挨拶した。

「来てくれたんだ」

 篠宮が言うと、奈都は小さく頷いた。

「篠宮さんの絵、見に来た。あと、色彩心理学のデータとして、観客の反応も観察しておきたくて」

「観察......」

「モノクロの絵を見る観客の表情を、何人かカウントしてるの。『ふうん』って顔、『すごい』って顔、『よく分からない』って顔。比率を取れば面白い」

 相変わらず奈都は奈都だった。でも、その淡々とした口調の中に、ちゃんと篠宮の絵を見に来たという友情が含まれていた。

「奈都ちゃん、ありがとう」

「お礼はいい。私が勝手に観察してるだけだから」

 そう言って、奈都はまたパンフレットを開いた。俺と篠宮はその場を離れた。

 奈都のそういう"偽装された友情"が、なんとなく俺は好きだった。素直に「見に来た」と言わずに「データとして」と言う。でも、結局、足を運んでくれている。そういう不器用さが、この人の優しさの形だった。


 * * *


 展示会が終わる前に、俺たちは会場を出た。

 篠宮が「ちょっと準備室に戻りたい」と言ったからだ。学校はそこまで遠くない。徒歩20分ほど。俺たちは黙って歩いた。

 準備室に着くと、窓は午後の光で満ちていた。篠宮はいつもの場所に座って、しばらく窓の外を見ていた。俺はその隣の椅子に腰を下ろした。

 少しの沈黙の後、篠宮がぽつりと言った。


「ねえ、水無瀬くん」

「ん?」

「これからも、私の目になってくれる?」


 俺は一瞬、彼女の言葉の意味が分からなかった。

「目?」

色彩乖離(しきさいかいり)のこと」

「......ああ」

「私は色が見えないから、あなたの目が必要なの。次にまた誰かの色が消えた時――一緒に探してほしい。奈都ちゃんと、三人で」


 篠宮の声は、いつもと違って、少しだけ改まっていた。

 たぶん、展示会での出来事が、彼女の中で何かのきっかけになっていた。"カラーで描けばもっと良くなるのに"という言葉を浴びたあとで、篠宮はもう一度、自分の"色がない世界"と"色のある人の目"の関係について考え直したのかもしれない。そして、俺に改めて頼む決断をした。

 俺は少し考えた。

 考える時間は、本当は必要なかった。答えはすぐに出ていた。でも、即答すると軽薄に聞こえる気がして、一呼吸だけ置いた。


「......面倒だけど」

「うん」

「断れないだろ、そういうの」

「知ってる」

 篠宮が小さく笑った。

「水無瀬くんが断れないことは、知ってる。でも、ちゃんと言葉で聞きたかったの」

「......」

「聞きたかった、だけじゃなくて、言ってほしかった。自分の口から『うん』って」

「......面倒だな」

「でしょ」


 俺はもう一度、少しだけ黙ってから、ちゃんと言った。

「......ああ、いいよ。目になる」

 その言葉を口にした瞬間、自分の中で何か小さなことが締まったのを感じた。約束の重みを、ちゃんと引き受けた気がした。

 篠宮は頷いて、それから少しだけ窓のほうを向いた。夕方の光が、彼女の横顔に柔らかく落ちていた。


「でもさ、水無瀬くん」

「なに」

「なんで断れないの?」


 俺は一瞬、言葉を失った。

 質問の意味は分かっていた。分かりすぎるくらい分かっていた。そして、答えも、心のどこかでは分かっていた。でも、それを今日ここで口に出すのは――たぶん、違う気がした。

 俺は窓のほうを見て、短く答えた。

「............聞くなよ」


 篠宮は、俺の答えにしばらく何も言わなかった。

 しばらくしてから、小さく笑った。今日一番穏やかな笑みだった。

「うん。聞かないことにする」

 それだけ言って、彼女はまた窓の外を見た。


 俺は、胸の奥で静かに高鳴っているものに、名前をつけないまま、同じ窓の外を見ていた。

 空は夕方の色になり始めていた。赤と紫とオレンジが混ざった、五月の夕方。

 篠宮には見えないその色を、俺は今日、いつもよりはっきりと見ていた。


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