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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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23/28

グレースケール

 水曜日の放課後、美術準備室の扉を開けると、篠宮(しのみや)はいつもの窓際ではなく、少しだけ奥の壁際にイーゼルを立てていた。

 大きな画用紙が固定されている。普段使っているクロッキー帳の倍くらいの大きさ。篠宮は鉛筆ではなく、今日は木炭を手に持っていた。絵に向かって立ち、少しだけ後ろに下がり、また近づき、一本の線を引く。そしてまた後ろに下がる。

 俺はいつもの場所に座って、しばらくその様子を見ていた。

「篠宮」

「ん?」

「いつもと違うな、今日」

「うん、今日は展示会の絵を描いてるから」

「展示会?」

「美術部の。来週末に、市の公民館で合同展示会があるの。私、今年も一枚出すことになってる」


 篠宮は振り向かずに、続けた。

「先輩たちから『何か一枚、メインの作品を描いて』って言われて。だから、今週から集中して描いてるの」

「何描いてるんだ」

「今日は下絵まで。モチーフは――」

 篠宮は木炭を持ったまま、窓のほうを指差した。

「あの窓」


 俺は窓を見た。美術準備室の北窓。いつも篠宮が隣に座って絵を描いている、あの窓だ。カーテンが半分だけ開いていて、光が斜めに差し込んでいる。古い木枠と、ガラスの表面の小さな傷と、その向こうの空の色。

「......これまでも窓、描いてたな」

「うん。でも、今回はちょっと違う」

「どう違うんだ」

「今回は、"私がいつも見ている窓"を描きたいの。目で見た通りの窓じゃなくて、私の中の窓。光と影の記憶みたいなもの」


 俺は少し考えてから頷いた。

 篠宮の言う"私の中の窓"という言い方を、俺は少しだけ理解できた気がした。目で見たままを写すのは写真みたいなもので、その奥にある"自分の感じた光の形"を描き出すのは別の作業だ。篠宮は後者を選んでいた。モノクロで描く人間にしかできない描き方。


「モデルいるか?」

「ううん、今日はいい。窓と光だけあれば描ける」

「じゃあ、俺は見てるだけでいいのか」

「うん。ただいてくれれば十分」


 ただいてくれれば十分、という一言が、胸の真ん中あたりで軽く響いた。

 "何もしなくていい"という許可を、俺は他人からもらったことがあまりなかった。普段は誰かと一緒にいる時、何かを提供しなきゃいけないような、空気を埋めなきゃいけないような、そういう無意識の義務感があった。篠宮は、俺にそれを求めない。

 存在することが、すでに価値になる。そういう距離感を、俺はこの人の隣で初めて知った。


 * * *


 篠宮は黙って描き続けた。

 木炭の線は、鉛筆とは違う柔らかさがあった。消して、描き直して、また消す。消した跡の黒い影が紙の上に残って、それ自体が新しい線になっていく。篠宮の手の動きは、普段の鉛筆よりも少しだけゆったりしていた。

 俺は描くという作業をちゃんと見たことがほとんどなかった。小学校の図工の時間くらい。それも、適当に絵の具を乗せて終わりだった。真剣に"描く"人を、こんなに近くで見たことがなかった。

 篠宮は、一本の線を引く前に、しばらく紙の上の何もない空間を見つめる。その空間の中に、これから引く線がすでに"存在している"みたいに。そして、一度呼吸を整えて、木炭を紙に触れさせる。線は迷いなく引かれることも、迷いながら引かれることもあった。迷いながら引いた線は、彼女にとってたぶん"試み"で、正しくなければ後で消される。正しければ残る。

 絵を描く、という言葉の中には、"迷う"という動詞がかなり含まれているらしい。篠宮を見ていて、俺はそう思った。

 迷いながら一本ずつ線を引いていく姿は、"確信を持って進む人"よりも、"確信を持たないまま前に進める人"の姿だった。そして、後者のほうが、俺にはたぶん、今は大事だった。俺も迷いの中を前に進まないといけない時期だから。

 俺は文庫本を取り出しかけて、やめた。今日は読むよりも、見ているほうが気分だった。

 彼女の横顔に、窓からの光が落ちていた。光の筋が頬の線をなぞり、髪の一部を白く光らせていた。ほんのりと影になった目元と、集中している口元。その全部が、俺の中で一つの絵になりかけていた。

 ――俺が絵を描けたら、今の篠宮を描くんだろうな。

 そう思った自分に、自分で少し驚いた。俺は絵が描けない。描きたいと思ったこともなかった。でも、今日だけは、目の前の光景を"残しておきたい"と思った。写真でもよかった。スマホを取り出せばすぐに撮れる。でも、たぶん、写真じゃ違う気がした。写真は色まで写してしまう。篠宮の今の瞬間は、色じゃない何かで構成されていた。

 結局、俺は何も記録しなかった。ただ、目で見ているだけにした。

 記憶の中にだけ、この時間を置いておくことにした。


 窓の外の光が、少しずつ斜めに傾いていった。時計を見ると、もう一時間半経っていた。篠宮の絵は下絵から少しずつ具体性を帯び始めていた。

「......大体、形が見えてきた」

 篠宮がそう言って、一度木炭を置いた。彼女は紙から少しだけ離れて、自分の描いた線全体を眺めた。

水無瀬(みなせ)くん、見ていい?」

「見てって言うか、これは俺に見せるために描いてるんじゃないだろ」

「見てほしい、って意味」

「......分かった」


 俺はイーゼルの後ろに回って、絵の前に立った。


 そこにあったのは、窓と光だけの世界だった。

 木枠のシルエット、ガラスの質感、カーテンの布の柔らかさ、そして――いちばん大事なのは、差し込んでくる光だった。光が紙の中で確かに"存在"していた。灰色の濃淡だけで描かれているのに、光が見えた。光に厚みがあって、重さがあって、温度まで伝わってくる気がした。

 色は一切なかった。モノクロのグラデーションだけ。

 それなのに、その窓の向こうには、確かに"朝の空"があるのが分かった。"晴れた日の光"があるのが分かった。"五月の空気"があるのが分かった。色がないはずなのに、色があるように感じる。そういう不思議な絵だった。


 俺はしばらく言葉を失った。

 普段の俺なら、ここで「別に」「普通にすごいと思う」で片付けていた場面だ。でも今日は、それが嫌だった。篠宮は俺に見せるために描いているわけじゃないけど、俺に"見てほしい"とは言ってくれた。それなら、俺も、自分の言葉でちゃんと何か返さないといけない気がした。

 短い言葉で逃げたくない。

 そう思ったのは、たぶん、久しぶりだった。


「......すごい、と思う」

 俺は一つずつ、言葉を選んだ。

「色が見える俺の目には、色がないのに、色があるみたいに見える。変な言い方だけど」

「うん」

「この絵は、色がなくてもいい。......というか、色がないからいいのかもしれない」

「色がないから?」

「色があったら、たぶん、目が"色"のほうに引っ張られて、光の形を見落としてた。色がないから、光だけを見ることになる。その結果、光が主役になる。そういう絵だと思う」


 篠宮はしばらく黙って、俺の顔を見ていた。

 それから、ふっと息を吐いて、小さく笑った。

 口元の笑みだけじゃなく、目元まで届く柔らかい笑い。

「ありがとう、水無瀬くん」

「......ん」

「水無瀬くんにそう言ってもらえたら、出す勇気が出た」

「出す勇気?」

「うん。実はね、ちょっと迷ってたの。こういう光の描き方、他の人には通じないんじゃないかって。『モノクロはつまらない』って思う人もいるし、『色塗ればもっと良くなるのに』って言われたこともあるから」

「......」

「でも、水無瀬くんが"色がないからいい"って言ってくれた。それって、私が描きたかったことを、ちゃんと受け取ってくれたってことだから」


 俺は何も言えなかった。

 篠宮の言葉が、なんだか、想像以上に俺の胸に届いていた。"受け取ってくれた"という表現が、特に。俺はただ思ったことを言っただけだ。でも、篠宮にとっては、それが受け取ってもらえた証明だったらしい。

 ――俺の言葉を、誰かが"受け取る"ことがあるんだな。

 当たり前のことだったが、俺にとっては少し新鮮だった。俺の言葉は"別に"とか"普通"とか、中身の薄いもので構成されていることが多くて、誰も受け取るに値しないと自分で決めつけていた。でも、今日の俺の言葉は、中身を持っていた。篠宮が"受け取った"と言ってくれたのが、その証拠だった。


 * * *


 帰り道、俺は篠宮と校門で別れた。

 彼女はいつもより少しだけ軽い足取りで校舎を去っていった。「頑張ってね」と俺は言わなかったが、背中に向けて小さく頷いた。

 一人で帰る道、俺はずっと、自分が言った言葉を頭の中で反芻していた。

 "色がないからいい"。

 あれは絵のことだ。篠宮の絵のことだ。

 でも、少しだけ角度を変えると、それは絵じゃないものにも当てはまる気がした。

 ――篠宮自身のことだ。

 篠宮自身が、色がない世界を生きている人だ。その世界で、彼女は独特の光の感じ方を獲得して、独特の絵を描いている。もし彼女に色が見えていたら、たぶん、あの絵は描けなかった。"モノクロでいい"じゃなく、"モノクロだからいい"絵が、彼女の人生の形そのものだった。

 つまり、俺が絵について言った言葉は、そのまま彼女自身にも当てはまる。


 ――篠宮は、色がないからいい人なのかもしれない。


 そう思ってから、俺はその思考を少しだけ止めた。

 "色がないからいい"という言い方は、篠宮の苦しさを軽く見ているように聞こえる可能性もあった。彼女は"色がないからいい"だけで生きてきたわけじゃない。色がないことと向き合い、色がない世界で生き抜く方法を何年もかけて作り上げてきた結果として、今の彼女がある。その過程の苦しさを、外から"色がないからいい"と一言で片付けるのは、少しだけ失礼だ。

 でも、結果として今の篠宮がいて、今の彼女の絵があって、今の彼女が俺の隣にいるなら。

 俺はその今の彼女を、"いい"と思っている。

 それは確かだった。

 "いい"という感情が、俺の中で、まだ小さいけれどもはっきり芽生えていた。


 家に帰って、俺はベッドに倒れ込んだ。

 天井を見ながら、今日見た絵のことをもう一度思い出した。窓、光、影、カーテン。色のないグラデーションの中で、確かに五月の朝の空気があった。

 あの絵を、公民館の展示会で、たくさんの人が見るんだろう。

 その人たちの中で、俺と同じように"色がないからいい"と思ってくれる人がいたら、いいな、と思った。


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