桜の色
火曜日の放課後、俺は美術準備室に顔を出した後、篠宮に誘われて校庭を歩いていた。
「ちょっと外見たい気分なの」と篠宮が言ったからだ。
俺は一応「面倒だ」と口にしてみたが、本気でそう思っていたわけじゃない。ただの習慣的な抵抗だった。結局、俺は鞄を背負って、彼女の後ろに並んで校舎を出た。
5月も半ばに差しかかって、校庭の空気はすっかり初夏寄りになっていた。空は高く、雲は薄く、風は暖かい。制服のシャツ一枚で十分だった。
校庭の隅を、篠宮はゆっくり歩いた。運動部が部活をしている真ん中は通らず、校舎裏側の植え込み沿いを。
篠宮の歩くペースに合わせていると、俺の呼吸も自然とゆっくりになった。
* * *
校庭の奥のほうに、一本の桜の木があった。
もう花は一つもついていない。すっかり葉桜になっていた。薄い緑の葉が枝全体を覆って、風が吹くたびに、葉の表と裏の色合いの違いがちらちらと見えた。俺が新学期に登校した時、まだこの木には花が残っていた。薄い赤――というより、薄いピンクの花が。それが今は全部、葉に置き換わっている。
篠宮はその葉桜の前で立ち止まった。
「水無瀬くん、この木、何?」
「......桜」
「桜なんだ」
篠宮は少しだけ首を傾げて、木全体を見上げた。葉が揺れるたびに、光が葉の隙間を通って地面に落ちた。小さな斑点みたいな光の模様が、彼女の足元に散らばっていた。
「桜って、春に赤とかピンクの花が咲くんでしょ?」
「そうだな」
「今は咲いてないの?」
「散った。1ヶ月くらい前には咲いてた。俺が新学期にこの学校に来た時は、まだ少し花が残ってたから、たぶん4月の頭くらいに満開だった」
「......じゃあ、もう終わった後なんだね」
「ああ」
篠宮はその言葉を、少しだけ寂しそうに噛みしめた。
いや、寂しそう、という言い方は正確じゃなかったかもしれない。篠宮は寂しさを表に出す人じゃない。彼女のそれは、何か大事なものを見逃した、というより、「見逃してもいいものと、見逃したら惜しいものの境界線」について考えている顔だった。
「ねえ、水無瀬くん」
「ん?」
「桜って、どんな色?」
また来た、と俺は思った。篠宮の「色ってどんな感じ?」シリーズ。最初は赤、次は青。今日は桜。
俺は葉桜を見上げて、記憶の中の桜の花を引き出した。
「白に近いんだけど......完全な白じゃない。少しだけ赤が混じってる。赤って言うより、薄いピンクっていうほうが近い」
「薄いピンク」
「俺の感覚だと、赤が水に溶けて薄くなったような色。赤そのものは強い色だけど、桜の色は強くない。でも、白でもない。その間のどこかに、桜の色がある」
「薄い赤......薄い情熱、か」
篠宮は目を閉じた。
「そっか。じゃあ桜って、濃い情熱じゃなくて、やわらかい情熱の色なんだ」
「......まあ、そうかもな」
篠宮はしばらく目を閉じたまま、黙っていた。葉桜の葉擦れの音だけが、俺たちの間にあった。
やがて、彼女は目を開けて、小さく笑った。
「薄い情熱の花がね、春の一瞬だけ咲いて、一週間くらいでみんな散っちゃうんでしょ?」
「そうだな。早いと3、4日で散る年もある」
「散るのが分かってても咲くんだよね」
「......うん」
「それって、ちょっとだけ勇気がいるよね」
俺は、その言葉をしばらく噛み締めていた。
散るのが分かってても咲く。それは桜の話のはずだった。でも、篠宮の声の抑揚の中には、それ以外の何かが混じっていた。
たぶん、篠宮は桜の話だけをしていない。"薄い情熱"と"散ると分かってても咲く"という言葉が、彼女の中で別の何かとリンクしていた。俺には、それが具体的に何なのか、まだ分からなかった。でも、何かと繋がっていることだけは、確かに感じ取れた。
俺は何も言わずに、葉桜を見上げ続けた。
しばらく沈黙の後、篠宮がもう一言だけ付け加えた。
「志田さんもね、桜みたいだったな」
「......志田?」
「うん。薄い赤を持ってて、一度は散りそうになってたけど、また咲き直した。桜と違って、もう一回咲くチャンスがあったこと、よかった」
「......そうだな」
俺はその言葉に、頷くしかなかった。
志田の赤は戻った。でも、花が一度散った後で、また同じように咲けるかどうかは、これから志田自身が決めることだ。葉桜になった木が、翌年の春にまた花をつけるのと同じように。
桜の生き方、と篠宮は言いたかったんだろう。散るのを知っていて咲く。散ったあとも、翌年また咲く。その繰り返しの中で、情熱は薄くても、確かにそこにあり続ける。
篠宮の目には、今日の葉桜は灰色の塊として映っている。でも彼女の頭の中には、たぶん、彼女が言葉の端々で掴み取ってきた"桜の季節"の全部が、色ではない形で記録されているはずだった。
* * *
風が少しだけ強くなった。
葉桜の葉がざわめいて、その拍子に、ほとんど気づかないくらい小さな花びらが一枚、ひらりと落ちてきた。散ってからもう一ヶ月以上経っているのに、葉の隙間のどこかに、まだ一枚、取り残されていたらしい。完全にピンクじゃなく、端が茶色く変色していた。最後の最後まで残っていた一枚。
その花びらが、俺たちの頭上をひらひらと舞って、篠宮の足元に落ちた。
篠宮はしゃがんで、その花びらをそっと指で拾い上げた。
「......これ、桜の花びら?」
「ああ。最後の一枚、みたいだな」
「たぶん、一ヶ月以上ここに残ってたってこと?」
「そうだろうな」
「すごいね、この子。そんなに長く、一人で枝にしがみついてた」
篠宮は花びらを指先で軽くつまんで、光の中に持ち上げた。花びらは彼女の手の中で、小さくて、薄くて、少しだけ色褪せていた。俺の目には、淡いピンクと端の茶色が混ざった色に見えた。篠宮の目には、たぶん、ただの濃淡の違うグレーのかけらに見えているはずだった。
でも、篠宮は花びらを「綺麗だ」と思っているらしかった。少なくとも、彼女の目元の柔らかさは、"綺麗なものを見つけた人"の目元だった。
「花びらって、触ると、すごくふわっとしてるんだね」
「そうだな」
「色は分からないけど、この"ふわ"の感覚は、私にも分かるよ」
篠宮は花びらを掌にそっと乗せた。風で飛ばないように、もう一方の手で覆った。
「色がなくても、花びらが落ちてくる感覚は分かる。触れた瞬間の軽さも分かる。端が茶色くなってる、ってさっき水無瀬くんが言ったのも、言葉として受け取った。だから、私の頭の中では、今、この花びらはちゃんと"桜の最後の一枚"になってる」
「......」
「色って、たぶん、情報の一部なんだよね。全部じゃない。なくても、他の情報で足せる部分がある」
篠宮はそう言って、掌の上の花びらをもう一度見つめた。
「だから、私は色が見えなくても、桜のことをちゃんと覚えていられると思う。覚えてるのは色じゃなくて、"最後の一枚がひらひら落ちてきた感じ"とか、"葉擦れの音"とか、水無瀬くんが言ってくれた"薄い赤"っていう言葉とか。それを全部合わせると、私の中の桜になる」
「......」
「色は見えないのに、桜を持ってる気がするの。変な言い方かな」
「いや」
俺は首を振った。
「変じゃないと思う」
俺は、篠宮の横顔を見ていた。
"色は情報の一部"。その言い方は、俺がこれまで使ったことのない視点だった。俺にとって色は"世界の基本"だった。赤や青や緑が世界の色を決めていて、それが見えないと世界がつまらなくなる、とどこかで思い込んでいた。
でも篠宮は、色を"あれば便利な情報の一つ"くらいに扱っていた。なくても世界は十分動く、という前提で生きている。
俺がずっと"失うと怖いもの"だと思っていたものを、彼女は"あってもなくても世界は面白い"と言っている。
――この子は、俺よりずっと強い。
そう思ってから、俺はすぐにその考えを訂正した。強い、という言葉も、たぶん正しくない。篠宮は強いんじゃなく、別の形で生きている。強さじゃなく、別の適応。違う世界の見方。
そしてその"別の見方"を、彼女は今日、俺に少しだけ分けてくれた。
* * *
篠宮は掌の花びらを、そっと葉桜の根元の土に置いた。
「じゃあね、最後の一枚」
小さな声で、花びらに話しかけるように言った。
花びらはしばらく土の上に乗っていたが、やがて次の風でどこかへ飛んでいった。
俺は立ったまま、その一連を見ていた。見ていただけのはずなのに、なぜか胸の中で何かが揺れた。揺れた、と言う表現が正確かどうか分からない。ただ、視界の中の篠宮と、葉桜と、光と、最後の花びらの全部が、一瞬だけ一つの絵になった気がした。
篠宮が描く絵の中の光と影の組み合わせを、俺は初めて現実世界の中で"見た"気がした。
「水無瀬くん、帰ろっか」
篠宮が立ち上がって、軽く手をはたいた。
「......ああ」
俺は頷いて、彼女と一緒にまた校庭を歩き始めた。
歩きながら、俺はふと、胸の中で一つの言葉を反芻した。
――綺麗だ。
花びらのことだ、と自分に言い聞かせた。
葉桜の光のことだ、と付け加えた。
本当はそれだけじゃないことを、俺は知っていた。でも、今日のところは、知らないふりをすることにした。
知ってしまったら、たぶん、俺は少しだけ、今の距離感を保てなくなる。
今の距離感は、俺にとって、まだ必要なものだったから。
校舎に戻る途中、篠宮が空を見上げた。
「また、来年の春に来たいな、この桜の木」
「......また一緒に?」
「うん。今度は咲いてる時に」
「......そうだな」
俺は小さく頷いた。
来年の春――その時、俺たちはまだ一緒に、この木の下にいるんだろうか。
未来のことは分からない。でも、少なくとも今の俺は、"来年も一緒にいたい"と願っていることが分かった。"別に"でも"普通"でもない、はっきりした願いだった。
俺はそれを、口に出さないで心の中にしまった。
いつか出す日が来るかもしれない。でも、今日じゃない。今日は、この葉桜の下で、最後の花びらを見送っただけで十分だった。
校舎の影が、俺たちの背中に落ちた。
校舎裏の植え込みの向こうで、誰かの部活の声が遠くに聞こえた。日常の音だった。でも、今日の日常は、昨日までの日常と少しだけ違う色をしていた。
篠宮には、その色は見えない。でも、たぶん、彼女はその違いを色ではない形で感じ取っている。
俺は、そういう彼女の横で、もう少しだけ、このゆっくりした歩みを続けていきたいと思った。




