表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/27

日常に戻る

 月曜日の朝、俺は普段通りの時間に目を覚ました。

 特別な一日が始まる予感は、全くなかった。むしろ、特別さが終わった後の、どこか抜け殻のような朝だった。志田(しだ)の赤は完全に戻った。篠宮(しのみや)は今日も美術準備室にいる。奈都(なつ)は今日も図書室にいる。航平(こうへい)は今日もサッカー部の朝練で疲れている。全てがいつもに戻った――はずだった。

 でも、目覚めた瞬間、俺は自分の部屋の天井を見て、少しだけ違うことを思った。

 「昨日より、少しだけ明るい天井だ」

 そう思った自分に、自分で小さく驚いた。

 天井は当然同じ色で、同じ照明の下にある。変わったのは俺のほうだ。先週までの俺なら、天井の明るさの差になんか気づかなかった。今日の俺は、気づいてしまった。


 * * *


 教室に着くと、航平が珍しく早く登校していた。

「おはよう、透」

 彼の顔を見て、俺は「ああ」とだけ返した。

 航平は俺の前の席に腰掛けて、肘を机について、こちらを見つめた。

「お前、最近なんか変わった?」

「......変わってない」

 反射的に答えた。

「いや、変わってるよ」

「どこが」

「うーん、具体的には言えないんだけど。ちょっとだけ表情が増えた気がする。先月まではさ、俺が何言っても大体"別に"か"普通"って反射で返ってきてたじゃん。今日のお前、ほんの少しだけ、反応が長い」

「......そうか?」

「そうだよ。あと、さっき窓の外見てただろ。あれ、俺が知ってる限りの透がやらない動きだった。窓の外を見るのは、俺の知ってる透の行動パターンにない」


 航平は昔から察しがいいやつだ、と思ったが、ここまでくると"察しがいい"を通り越して"観察されすぎている"の領域に入る。

「航平、お前もちょっと奈都っぽくなってきたな」

「それは嫌だ」

 航平が口をへの字に曲げた。俺は思わず、少しだけ笑った。

 口元だけの小さな笑みだったけど、航平はそれを見逃さなかった。

「あ、笑った」

「......笑ってない」

「笑ったよ。透が口元で笑うのは、たぶん、月に一度あるかないかだ」

「そんなに貴重なイベントみたいに言うな」

「貴重だよ、実際」

 航平はそう言って満足げに頷いた。

「でさ、何かあったのか?」

「......別に」

「また出た」

「......色々」

「色々、か。話せる範囲でいい。気になってるだけだから」


 俺は少し考えて、それから、短く答えた。

「クラスに、ちょっと助けたいやつがいた」

「ほう」

「助けるために、自分のことも、少しだけ考え直した」

「ほう」

「それだけ」

「それだけじゃねーだろ」

 航平は笑いながら、それ以上追及しなかった。彼は俺の"それだけ"が"それ以上"であることを知っているけど、押し入る気はないらしい。中学の時と同じだ。

 でも、帰り際に一つだけ付け加えた。

「お前がさ、少し変わったのは、たぶん悪いことじゃないよ」

「......そうか」

「そうだよ。中学の時のお前、ずっと霞んでた。何見ても何も感じてないような目だった。今のお前は、まだ霞んでるけど、ちょっとだけ輪郭が戻ってる。そんな感じ」

「......霞んでたって」

「うん、霞んでた。俺はそれを言わなかっただけで、ずっと気になってた」

 航平はそう言って、自分の席に戻っていった。

 俺はその背中を見ながら、少しだけ胸が詰まった。

 航平は俺のことを、俺が思っていたよりずっと長く、ずっと深く見ていてくれていた。押し入らないのは、興味がないからじゃなく、逆だった。大事だから、踏み込むタイミングを彼なりに測っていた。

 中学の頃、俺の両親の話を一度だけ聞いて、それ以上聞かなかった航平。あの時の彼は、何も感じていなかったわけじゃなく、ただ、「今は聞くな」と判断しただけだった。その判断を俺は何年も理解できなかった。今日、少しだけ理解した。


 * * *


 昼休み、図書室に奈都がいた。

 珍しく、分厚い本じゃなくてノートを広げていた。ノートには細かい文字がびっしり並んでいた。俺が近づくと、奈都が顔を上げた。

水無瀬(みなせ)くん」

「何してるんだ」

「レポート書いてる」

「......何の」

色彩乖離(しきさいかいり)の」

 俺は隣の席に腰を下ろした。

「書いてどうすんだ」

「次に同じ現象が起きた時のために、データを残しておきたいの」

 奈都はペンを止めて、俺の顔を見た。

「志田さんのケースを一つの症例として記録する。発症の経緯、発症後の症状、透が介入した時の変化、篠宮さんの関与、最終的な解決までの経過。細かく書いておけば、次があった時に比較できる」

「......次って、あるのか?」

 俺の質問に、奈都は少しだけ目を細めた。

「たぶん、あると思う」


 俺はしばらく、何も言えなかった。

「なんで、そう思うんだ」

「感情を抑え込んで生きてる人って、この学校にどれくらいいると思う?」

「......」

「たくさんいるよ。学校はそういう場所だから。みんな何かしら、出したくない感情を抱えて、でも出せないまま毎日を過ごしてる。その全部が色彩乖離に繋がるわけじゃない。でも、ごく一部は、脳の防衛遮断まで行ってしまう」

「......」

「志田さんは、たまたま私たちが気づけた。でも、気づかれないまま、色を失って、それに自分でも気づかないまま生きてる人が、この学校の中に他にもいるかもしれない。いや――他の学校にも、他の街にも。どこにでもいるかもしれない」


 奈都はノートの空白ページを指先で軽く叩いた。

「だから、記録を残す。何かまた起きた時のために。私たちが気づけるように」


 俺はそのノートをじっと見ていた。

 奈都の筆跡は几帳面で、ペン先が少しだけ強く紙を押す癖があった。ノートの端には、志田のケースを時系列で並べた小さな年表が書いてあった。日付と出来事が整理されて、俺が見たことのある全ての瞬間が、冷静な言葉で短くまとめられていた。

 この二週間で起きたことは、たぶん、俺と志田と篠宮にとっては"忘れられない日々"だった。でも、奈都のノートの上では、それは"ケーススタディの第一例"として、冷たい文字列に変わっていた。

 冷たさは、必要なものだった。冷たい記録があるから、次に同じことが起きた時、俺たちは慌てずに対応できる。奈都はその冷たさを引き受けている。心理学オタクの本領発揮、という顔で。


「ノート、第二巻に進むつもりか」

 俺が冗談半分で言うと、奈都は真面目な顔で頷いた。

「もちろん」

「......本気かよ」

「心理学的に言うと、水無瀬くん、次の事例が発生した時に、観察者として協力することをこの場で承諾したほうがいいと思う」

「勝手に決めるな」

「承諾しなかったら、別の言い方で誘導する」

「......やめろ」

 奈都は小さく笑った。本当に小さく、一瞬だけの笑み。でも、それは心理学オタクが冗談を言う時の顔だった。奈都にも、そういう顔が出せるようになっていた。


 * * *


 放課後、俺はいつものように美術準備室に向かった。

 扉を開けると、篠宮はいつもの場所で絵を描いていた。今日のモチーフは、先週志田に向けて置いた赤いガーベラだった。もう少しだけ花が開いていた。篠宮の絵の中では、そのガーベラは薄いグレーの塊として記録されていた。

「今日も来た」

 俺は短く言った。

「おかえり」

 篠宮は顔を上げて、短く返した。

 俺はいつもの場所に座って、文庫本を取り出した。でも、すぐには読まなかった。

 窓の外を見た。


 いつもの風景だった。校庭の隅の花壇、向こうの住宅街、さらに遠くの電柱、その上の空。先月までの俺なら、これらを全部まとめて「窓の外」という一つの情報で処理していた。

 今日の俺は、花壇の花の赤に目が止まった。校舎の壁の薄いクリーム色に気づいた。住宅街の屋根瓦の濃い灰色を、意識して見た。空の薄い青の中に、ほんの少しだけオレンジが混じり始めているのにも気づいた。

 色を、意識して見るようになっていた。

 たぶん、志田を助けるために、色について何度も考えたせいだ。色が見えない篠宮と過ごしたせいだ。色を取り戻した志田の涙を見たせいだ。その全部のせいで、俺の中で"色"という情報が、ようやく意味を持つようになった。


 これまでの俺は、色を見ていても、見ていなかった。

 今の俺は、色を見ている。

 それだけの違いだった。それだけの違いが、たぶん、俺にとっては大きな変化だった。


 篠宮の鉛筆の音が、静かに続いていた。

 俺はまだ、彼女のほうは見なかった。でも、視界の端で、彼女の横顔が光を浴びているのを確かに感じていた。

 篠宮はモノクロの世界を生きている。でも、彼女の隣にいる俺は、彼女のおかげで、色のある世界をもう一度"見ている"。逆説的な話だ。色が見えない人の隣で、色をはっきり意識するようになった。

 ――この逆説こそが、たぶん、篠宮と出会ってからの二ヶ月弱の全部だった。

 俺は静かに文庫本を開いた。今度は、ちゃんと読むために開いた。文字が頭に入ってきた。普段、文庫本を開いてもほとんど読まずに時間を潰していた俺が、今日は少しだけ、中身を読めた。

 これも小さな変化だった。一日一日の中では気づかないくらいの、本当に小さな変化。でも、積み重なれば、いつか大きな何かに変わるのかもしれなかった。


 窓の外で、雲がゆっくり流れていた。

 篠宮が窓のほうを見て、いつものように呟いた。

「今日の雲、やわらかい感じだね」

「......そうだな」

 俺は、今日の雲をもう一度見上げた。白くて、柔らかそうで、形が絶えず変わっていく。彼女の言葉を通すと、同じ雲がいつもより少しだけ情報量を持って見えた。

 この時間が、今の俺にとって一番大事な時間になりつつあった。「別に」で済ませたくない、唯一の時間。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ