ありがとう
あの屋上の夕焼けから、二日が経った。
金曜日の朝、教室に入ると、志田の席の周りがいつもより少しだけ賑やかだった。普段通りに戻った、と言うべきだろう。授業中も、休み時間も、志田は友達と笑っていた。俺の視点から見える志田の後ろ姿は、たぶん、クラスの多くの人にとって「いつもの志田」に戻った。
でも、少しだけ違った。
以前の志田の笑顔には、どこか"やらなければいけない"という義務感が混じっていた。明るく振る舞うことで自分の居場所を守っていた、ある種の必死さがあった。今日の志田の笑顔は、それが抜けていた。無理がない。笑いたいから笑っている。それだけ。
軽くなった、と言えばいいのだろうか。重心が正しい位置に戻った、と言うほうが近いのかもしれない。
俺は朝のホームルームの間、そんな志田の背中を、斜め前の席からほんの少しだけ眺めていた。
* * *
昼休み、志田のほうから俺の席に来た。
「水無瀬、ちょっといい?」
普段の元気な声に戻っていた。
「ああ」
「放課後、ちょっとだけ時間ある? 篠宮さんにも話したくて」
「......分かった。美術準備室に来れるか」
「うん。最近、あそこ行き慣れてきたかも」
志田はそう言って、軽く笑って自分の席に戻った。
行き慣れてきた、という言葉が、俺の胸の中で小さく響いた。ほんの二週間前、志田にとって美術準備室は、赤の見えない世界で抱えた重たい話をするための場所だった。それが今日は、「行き慣れた場所」になっている。
二週間って、短いはずだ。でも、志田の中では、この二週間はたぶん何年分かの重さを持っていた。
* * *
放課後、美術準備室に志田を連れてきた。
篠宮はすでにいつもの場所で絵を描いていた。今日のモチーフは、窓辺に置いた小さなガラスの花瓶。中に一本だけ赤いガーベラが挿してあった。昨日まで篠宮の机にはなかった花だ。たぶん、志田のために、わざわざ今日置いてくれたんだろう。
志田は部屋に入るなり、そのガーベラに気づいた。
「......篠宮さん、これ」
「うん。今日、帰りに買ってきたの」
「見える?って意味?」
「もしよかったら、って思って」
志田は花瓶のほうに歩み寄って、少しの間、じっとガーベラを見つめた。
「......見える。赤い」
志田の声は、水曜日の屋上のような震えはなかった。もう赤は"発見するもの"ではなく、"普通にそこにあるもの"に戻りつつあるらしい。でも、それは逆に、志田にとってとても大事なことのようだった。
「普通に、赤いって思えるようになった」
志田はガーベラから顔を上げて、篠宮と俺のほうを向いた。
「ありがとう」
短い言葉だった。でも、そこに二週間分の感情が全部乗っていた。
「......ん」
俺は短く返した。長い言葉は、今日は似合わないと思った。
篠宮はガーベラの横に鉛筆を置いて、小さく頷いた。
「ううん。私たち、何もしてないよ」
「何もしてないって、そんなことない」
「うん、嘘。本当はね、少しはしたと思う。でも、一番頑張ったのは志田さんだよ」
「そうかな」
「そうだよ。私たちは、聞いて、隣にいただけ。感じ直したのも、向き合い直したのも、全部志田さんがやったの」
志田はしばらく黙っていた。それから、少しだけ照れたように笑った。
「......そう言ってもらえると、ちょっと救われる」
「うん」
「あのね、もう一つ言いたいことがあって」
志田は椅子の背もたれに軽く手を置いた。
「私、今もまだ、誰かを好きになるのは、ちょっと怖いんだ」
「......うん」
「赤は戻ったけど、『また笑われたらどうしよう』って気持ちは、まだある。全部消えたわけじゃない」
「......」
「でもね、怖くてもいいかなって、思えるようになった」
俺はその言葉を、胸の奥でゆっくり受け止めた。
"怖くなくなった"ではなく、"怖くてもいい"。これは大きな違いだった。
怖くないふりをして生きるのと、怖いままで生きるのは、まったく別のことだ。前者は自分を騙し続ける。後者は自分を受け入れる。志田は二週間かけて、前者から後者に移ったらしい。
「前はね、怖いの嫌だったの。怖がってる自分がみっともないって思ってた。だから『感じないほうが楽』っていう道に逃げた。でも、今は、怖がってる自分もまあ、いいかなって思える。ちょっとだけ」
「......そうか」
「うん。それだけ言いたかった。ありがとう、二人とも」
志田はもう一度ガーベラを見て、それからにこりと笑った。
今度の笑顔は、屋上の夕焼けの時とも、朝のクラスの時とも違う、もっと静かで安定した笑顔だった。たぶん、志田が本当の意味で「志田真央」に戻り始めた顔だった。
「あ、そういえば」
志田がふと思い出したように言った。
「篠宮さんからもらったノート、まだ持ってる」
「赤いものリスト?」
「うん。もう全部赤く見えるようになったんだけどね、でもしばらく持ってる。『戻ってきた時の地図』だって言ってくれたでしょ。地図、って言葉がなんか好きだから」
「......うん。好きなら、ずっと持ってて」
「そうする」
志田はそう言って、もう一度軽く手を振った。
「じゃあ、また来週」
そう言って、志田は軽く手を振って、美術準備室を出て行った。
* * *
扉が閉まった後、美術準備室には俺と篠宮だけが残った。
篠宮は鉛筆を手に取って、また絵を描き始めた。今日描いているガーベラの絵。彼女にはその花は灰色に見えているはずだけど、その灰色の形を、彼女なりに正確に捉えようとしていた。
俺はいつもの場所に座って、しばらくその後ろ姿を眺めていた。
「......水無瀬くん」
篠宮が、描きながら声をかけてきた。
「ん?」
「すごかったね、昨日までのあれ」
「......どれ」
「志田さんに話したやつ。『恋心は嘘じゃない』って言ったの」
「......ああ」
「あんなにちゃんと気持ちの話できるんだって、ちょっとびっくりした」
俺は少し黙った。
胸の奥にじわっと熱が上がってきた気がしたが、それを表に出さないように、ゆっくり呼吸を整えた。
「......あれは、志田のことだから言えただけだ」
「そう?」
「自分のことだと、無理」
「どういう意味?」
「他人の感情の話なら、距離があるから言葉にできる。でも、自分の感情のことになると、途端に何も言えなくなる。何年もそうやって生きてきたから、もう癖になってる」
篠宮は鉛筆を止めた。絵から目を離して、俺のほうを向いた。
いつもののんびりした目じゃなく、少しだけ真剣な目。でも、責めるような硬さはない。ただ、何かを確かめるような眼差し。
「それね、水無瀬くん」
「ん?」
「自分で分かってるなら、半分、解決してると思うよ」
「......半分?」
「うん。自分のことが言えない、って分かってること自体が、もう一つの扉を開けてる。分からないままフタしてるのが一番遠くて、分かった上でフタしてるのは、ちょっとだけ近い」
「......」
「あとの半分は、たぶん、時間とタイミングの問題。焦らなくていいよ」
篠宮はそれだけ言って、また絵に戻った。
俺は彼女の横顔を、しばらくぼんやり眺めていた。
半分、解決。
その言葉を、何度か胸の中で繰り返した。
「......篠宮」
「ん?」
「篠宮のほうは、どうなんだ」
俺は思い切って聞いた。
「え?」
「篠宮も、たぶん、似たような"半分"を持ってるんじゃないのか。先週、志田に話してた、"生まれた時から"の話」
篠宮の手が一瞬止まった。
それから、彼女はゆっくり振り向いて、小さく笑った。
「......水無瀬くん、意地悪だ」
「悪い」
「ううん、意地悪じゃないか。ちゃんと聞いてくれてるんだね」
篠宮は鉛筆を机の上に置いた。
「私のも、たぶん、同じ"半分"なんだと思う。"失ってない"って自分に言い聞かせる半分と、本当はちょっと違うって知ってる半分。志田さんと二人だけの時に話したら、ちょっとだけ、知ってる半分のほうが大きくなった気がする」
「......」
「だから、水無瀬くんの言うとおり、私も半分解決してるのかもね。半分、解決してない」
「半分、解決してない、か」
「うん。でも、半分解決してる人間同士が一緒にいると、なんとなく安心するんだよね。お互い、あと半分あるって知ってるから」
俺は少しだけ笑った。
自分が笑ったことに、少しだけ驚いた。でも、今の場面で笑うのは、そんなに変じゃなかった。
半分解決してる人間同士。その表現が、俺たち三人の関係を、静かに言い当てていた。
* * *
夕方、俺は家に帰って、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめながら、篠宮の言葉をもう一度反芻した。
――自分のことが言えない、って分かってること自体が、もう一つの扉を開けてる。
そうかもしれない。
今までの俺は、自分が何を感じていないかすら、分かっていなかった。何も感じていないと思い込んでいた。「別に」「普通」で全部を片付けていた。
でも今、俺は「自分のことが言えない」という自覚を持っている。それは、少なくとも、"言いたい何かがある"という認識には繋がっている。
言いたい何かが、ある。
それが何なのか、俺はまだ名前をつけられない。でも、あることは、分かっている。
――半分解決か。
残りの半分は、どうすればいいんだろう。
俺は天井を見つめながら、その問いを自分に置いた。答えはまだ出なかった。でも、問いを置けること自体が、昨日までの俺にはなかったことだった。
一歩ずつ、だ。
ゆっくり、一歩ずつ、進めばいい。




