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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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20/27

ありがとう

 あの屋上の夕焼けから、二日が経った。


 金曜日の朝、教室に入ると、志田(しだ)の席の周りがいつもより少しだけ賑やかだった。普段通りに戻った、と言うべきだろう。授業中も、休み時間も、志田は友達と笑っていた。俺の視点から見える志田の後ろ姿は、たぶん、クラスの多くの人にとって「いつもの志田」に戻った。

 でも、少しだけ違った。

 以前の志田の笑顔には、どこか"やらなければいけない"という義務感が混じっていた。明るく振る舞うことで自分の居場所を守っていた、ある種の必死さがあった。今日の志田の笑顔は、それが抜けていた。無理がない。笑いたいから笑っている。それだけ。

 軽くなった、と言えばいいのだろうか。重心が正しい位置に戻った、と言うほうが近いのかもしれない。

 俺は朝のホームルームの間、そんな志田の背中を、斜め前の席からほんの少しだけ眺めていた。


 * * *


 昼休み、志田のほうから俺の席に来た。

水無瀬(みなせ)、ちょっといい?」

 普段の元気な声に戻っていた。

「ああ」

「放課後、ちょっとだけ時間ある? 篠宮(しのみや)さんにも話したくて」

「......分かった。美術準備室に来れるか」

「うん。最近、あそこ行き慣れてきたかも」

 志田はそう言って、軽く笑って自分の席に戻った。

 行き慣れてきた、という言葉が、俺の胸の中で小さく響いた。ほんの二週間前、志田にとって美術準備室は、赤の見えない世界で抱えた重たい話をするための場所だった。それが今日は、「行き慣れた場所」になっている。

 二週間って、短いはずだ。でも、志田の中では、この二週間はたぶん何年分かの重さを持っていた。


 * * *


 放課後、美術準備室に志田を連れてきた。

 篠宮はすでにいつもの場所で絵を描いていた。今日のモチーフは、窓辺に置いた小さなガラスの花瓶。中に一本だけ赤いガーベラが挿してあった。昨日まで篠宮の机にはなかった花だ。たぶん、志田のために、わざわざ今日置いてくれたんだろう。

 志田は部屋に入るなり、そのガーベラに気づいた。

「......篠宮さん、これ」

「うん。今日、帰りに買ってきたの」

「見える?って意味?」

「もしよかったら、って思って」

 志田は花瓶のほうに歩み寄って、少しの間、じっとガーベラを見つめた。

「......見える。赤い」

 志田の声は、水曜日の屋上のような震えはなかった。もう赤は"発見するもの"ではなく、"普通にそこにあるもの"に戻りつつあるらしい。でも、それは逆に、志田にとってとても大事なことのようだった。

「普通に、赤いって思えるようになった」

 志田はガーベラから顔を上げて、篠宮と俺のほうを向いた。

「ありがとう」

 短い言葉だった。でも、そこに二週間分の感情が全部乗っていた。


「......ん」

 俺は短く返した。長い言葉は、今日は似合わないと思った。

 篠宮はガーベラの横に鉛筆を置いて、小さく頷いた。

「ううん。私たち、何もしてないよ」

「何もしてないって、そんなことない」

「うん、嘘。本当はね、少しはしたと思う。でも、一番頑張ったのは志田さんだよ」

「そうかな」

「そうだよ。私たちは、聞いて、隣にいただけ。感じ直したのも、向き合い直したのも、全部志田さんがやったの」


 志田はしばらく黙っていた。それから、少しだけ照れたように笑った。

「......そう言ってもらえると、ちょっと救われる」

「うん」

「あのね、もう一つ言いたいことがあって」

 志田は椅子の背もたれに軽く手を置いた。

「私、今もまだ、誰かを好きになるのは、ちょっと怖いんだ」

「......うん」

「赤は戻ったけど、『また笑われたらどうしよう』って気持ちは、まだある。全部消えたわけじゃない」

「......」

「でもね、怖くてもいいかなって、思えるようになった」


 俺はその言葉を、胸の奥でゆっくり受け止めた。

 "怖くなくなった"ではなく、"怖くてもいい"。これは大きな違いだった。

 怖くないふりをして生きるのと、怖いままで生きるのは、まったく別のことだ。前者は自分を騙し続ける。後者は自分を受け入れる。志田は二週間かけて、前者から後者に移ったらしい。

「前はね、怖いの嫌だったの。怖がってる自分がみっともないって思ってた。だから『感じないほうが楽』っていう道に逃げた。でも、今は、怖がってる自分もまあ、いいかなって思える。ちょっとだけ」

「......そうか」

「うん。それだけ言いたかった。ありがとう、二人とも」


 志田はもう一度ガーベラを見て、それからにこりと笑った。

 今度の笑顔は、屋上の夕焼けの時とも、朝のクラスの時とも違う、もっと静かで安定した笑顔だった。たぶん、志田が本当の意味で「志田真央(しだまお)」に戻り始めた顔だった。

「あ、そういえば」

 志田がふと思い出したように言った。

「篠宮さんからもらったノート、まだ持ってる」

「赤いものリスト?」

「うん。もう全部赤く見えるようになったんだけどね、でもしばらく持ってる。『戻ってきた時の地図』だって言ってくれたでしょ。地図、って言葉がなんか好きだから」

「......うん。好きなら、ずっと持ってて」

「そうする」

 志田はそう言って、もう一度軽く手を振った。

「じゃあ、また来週」

 そう言って、志田は軽く手を振って、美術準備室を出て行った。


 * * *


 扉が閉まった後、美術準備室には俺と篠宮だけが残った。

 篠宮は鉛筆を手に取って、また絵を描き始めた。今日描いているガーベラの絵。彼女にはその花は灰色に見えているはずだけど、その灰色の形を、彼女なりに正確に捉えようとしていた。

 俺はいつもの場所に座って、しばらくその後ろ姿を眺めていた。

「......水無瀬くん」

 篠宮が、描きながら声をかけてきた。

「ん?」

「すごかったね、昨日までのあれ」

「......どれ」

「志田さんに話したやつ。『恋心は嘘じゃない』って言ったの」

「......ああ」

「あんなにちゃんと気持ちの話できるんだって、ちょっとびっくりした」


 俺は少し黙った。

 胸の奥にじわっと熱が上がってきた気がしたが、それを表に出さないように、ゆっくり呼吸を整えた。

「......あれは、志田のことだから言えただけだ」

「そう?」

「自分のことだと、無理」

「どういう意味?」

「他人の感情の話なら、距離があるから言葉にできる。でも、自分の感情のことになると、途端に何も言えなくなる。何年もそうやって生きてきたから、もう癖になってる」


 篠宮は鉛筆を止めた。絵から目を離して、俺のほうを向いた。

 いつもののんびりした目じゃなく、少しだけ真剣な目。でも、責めるような硬さはない。ただ、何かを確かめるような眼差し。


「それね、水無瀬くん」

「ん?」

「自分で分かってるなら、半分、解決してると思うよ」

「......半分?」

「うん。自分のことが言えない、って分かってること自体が、もう一つの扉を開けてる。分からないままフタしてるのが一番遠くて、分かった上でフタしてるのは、ちょっとだけ近い」

「......」

「あとの半分は、たぶん、時間とタイミングの問題。焦らなくていいよ」


 篠宮はそれだけ言って、また絵に戻った。

 俺は彼女の横顔を、しばらくぼんやり眺めていた。

 半分、解決。

 その言葉を、何度か胸の中で繰り返した。


「......篠宮」

「ん?」

「篠宮のほうは、どうなんだ」

 俺は思い切って聞いた。

「え?」

「篠宮も、たぶん、似たような"半分"を持ってるんじゃないのか。先週、志田に話してた、"生まれた時から"の話」

 篠宮の手が一瞬止まった。

 それから、彼女はゆっくり振り向いて、小さく笑った。

「......水無瀬くん、意地悪だ」

「悪い」

「ううん、意地悪じゃないか。ちゃんと聞いてくれてるんだね」

 篠宮は鉛筆を机の上に置いた。

「私のも、たぶん、同じ"半分"なんだと思う。"失ってない"って自分に言い聞かせる半分と、本当はちょっと違うって知ってる半分。志田さんと二人だけの時に話したら、ちょっとだけ、知ってる半分のほうが大きくなった気がする」

「......」

「だから、水無瀬くんの言うとおり、私も半分解決してるのかもね。半分、解決してない」

「半分、解決してない、か」

「うん。でも、半分解決してる人間同士が一緒にいると、なんとなく安心するんだよね。お互い、あと半分あるって知ってるから」


 俺は少しだけ笑った。

 自分が笑ったことに、少しだけ驚いた。でも、今の場面で笑うのは、そんなに変じゃなかった。

 半分解決してる人間同士。その表現が、俺たち三人の関係を、静かに言い当てていた。


 * * *


 夕方、俺は家に帰って、ベッドに倒れ込んだ。

 天井を見つめながら、篠宮の言葉をもう一度反芻した。

 ――自分のことが言えない、って分かってること自体が、もう一つの扉を開けてる。

 そうかもしれない。

 今までの俺は、自分が何を感じていないかすら、分かっていなかった。何も感じていないと思い込んでいた。「別に」「普通」で全部を片付けていた。

 でも今、俺は「自分のことが言えない」という自覚を持っている。それは、少なくとも、"言いたい何かがある"という認識には繋がっている。

 言いたい何かが、ある。

 それが何なのか、俺はまだ名前をつけられない。でも、あることは、分かっている。

 ――半分解決か。

 残りの半分は、どうすればいいんだろう。

 俺は天井を見つめながら、その問いを自分に置いた。答えはまだ出なかった。でも、問いを置けること自体が、昨日までの俺にはなかったことだった。

 一歩ずつ、だ。

 ゆっくり、一歩ずつ、進めばいい。


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