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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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赤が戻る

 水曜日の朝、俺のスマホが鳴った。

 普段はほとんど使わないトーク画面が、朝7時過ぎに光っていた。送信者は志田(しだ)。俺はまだベッドの中だった。寝ぼけた頭で画面を開くと、志田のメッセージが連続して来ていた。


水無瀬(みなせ)、起きてる?』

『学校来たら、教室来て。私の席のところ』

『緊急じゃないけど、でもちょっと急ぎ』

『見てほしいものがあるの』


 文字の勢いが、普段の志田より2割くらい強かった。何かあった、と直感した。

 俺はベッドから体を起こして、いつもより少しだけ急いで準備を始めた。


 * * *


 教室に入ると、志田はもうそこにいた。

 普段の志田は朝のチャイムぎりぎりに駆け込んでくるタイプだから、こんなに早く教室にいること自体が珍しい。彼女は窓際の自分の席に座って、窓の外をじっと見ていた。普段と違うのは、その横顔が妙に明るかったことだ。緊張しているとか、興奮しているとか、そういう方向の明るさ。

 俺が近づくと、志田が振り向いた。

「水無瀬、ちょっと見て」

 挨拶より先に、彼女は校庭のほうを指差した。

「あの、花壇の端のとこ。赤い花、あるでしょ?」

 俺は窓の外を見た。校庭の隅に小さな花壇があり、そこに何種類かの花が植わっていた。俺の目には、白、黄色、赤、ピンクの花が混ざって見える。

「ある」

「......私にも、見える、今日」


 一瞬、俺は息を止めた。

「見える?」

「うん。まだ完全じゃないの。すごく薄い。紙に水をこぼして滲ませたみたいな、淡い赤。でも、確かに、他の花と違う色になってる」


 志田の声は、震えていた。

 嬉しさと怖さと、戸惑いと、それら全部が混ざった震えだった。彼女は、両手でスマホを握りしめていた。

「昨日までは、あれ、全部同じグレーに見えてたの。朝も、昼も、夕方も。同じ花壇を毎日見てきたのに、ずっと全部灰色だった。でも今朝、起きて、窓を開けて、校舎に着いて、この席に座って、なんとなく外を見た瞬間――」

 志田は言葉を切った。

「あの花の真ん中だけ、ちょっとだけ、違う色してる気がしたの」


 俺は黙って志田の横顔を見ていた。

 志田の目の中に、涙とは違う、もっと透明な水分が膜のように張っていた。泣きそうで泣いてない。彼女は感情の波が来る直前の、一番静かな瞬間にいた。

篠宮(しのみや)奈都(なつ)、呼んでくる」

 俺はそれだけ言って、廊下に出た。

 階段を駆け下りる間、俺は胸の中で一つだけ繰り返していた。

 戻り始めてる。

 戻り始めてる。

 昨日、美術準備室で志田に「怖いままでいい」と言った。その言葉が、志田の中の何かを少しだけ緩めた。張っていた糸の結び目を一つだけほどいた。そのほどけた場所から、赤が戻り始めた。

 奈都の仮説は、正しかった。


 * * *


 図書室から連れてきた奈都と、美術準備室からは連れてこられなかった篠宮(彼女はまだ登校していなかった)を、結局は昇降口で合流させた。篠宮は俺のメッセージを見て、少しだけ早足でやってきた。

 四人で教室の志田の席に戻り、窓の外の花壇を見た。

「......あの真ん中の花ね」

 志田がそう言うと、奈都は目を細めて花壇を観察した。奈都にとってはそれは普通に赤い花だ。志田が「見える」と言っていることが、意味するところを奈都はすぐに理解した。

「志田さん、他のものも見てみて。例えば、消火器」

 奈都は廊下に置いてある消火器を指差した。

 志田はそちらを見た。少しの沈黙の後、首を傾げた。

「......消火器はまだ、グレー」

「うん」

「花だけ見える」

「脳の遮断の解除は、段階的なの。一気には戻らない。強い感情と結びついた対象から順に見え始めるはず。たぶん、志田さんの脳の中で、『花』は今、何か大事な感情とリンクしてる」

 篠宮がぽつりと言った。

「昨日、あの絵の前で泣いた後、帰り道に花を見た?」

 志田は少し考えてから、頷いた。

「......見た。帰り道の花屋の前で。赤いバラのこと、また見た」

「そう」

 篠宮は短く言った。「関係あるかもね」とは言わなかった。でも、たぶん、関係があるんだろう。

 昨日、透が志田に「好きになった気持ちは嘘じゃない」と言った。その言葉を受け取った志田の中で、閉ざされていた何かが一つほどけた。帰り道に見た花屋の赤いバラが、その"ほどけた感情"の最初の受け皿になった。だから今日、花から戻り始めた。

 奈都は淡々とその仮説を組み立てていたが、目の奥には静かな興奮があった。


 * * *


 授業中、志田は落ち着きがなかった。

 1限目の国語、窓の外を何度もちらちら見ている。2限目の英語、机の上の赤いペンをじっと見つめている。3限目の数学、教科書の図に赤い矢印が描いてあり、それを指でなぞっている。

 俺は斜め後ろの席から、志田の背中を何度か見ていた。

 普段の「明るい志田」は、ちゃんと前を向いて授業を聞いているタイプだった。今の志田は、明らかに別のことに気を取られている。でも、それは決して悪い意味の"気を取られ"じゃなかった。ずっと閉じていた視界の一部が開き始めて、その新しい景色に見とれている。そういう"気を取られ方"だった。


 昼休み、志田は興奮した様子で篠宮と奈都と俺のところに来た。

「ノートの赤ペンの文字、見える」

「完全に?」

「完全じゃない。でも、他のインクと違う色してる。やっぱり、薄い赤」

「花と同じくらいの濃さ?」

「うん」

「じゃあ、次は――あれ見てみて」

 奈都は自分の水筒を指差した。赤い水筒。

 志田はそれを見て、しばらく目を細めた。

「......見える。けど、もっと薄い。花ほどじゃない」

「段階的に戻ってる」

 奈都は満足そうに頷いた。


 * * *


 放課後、俺は篠宮に言った。

「屋上行こう」

「屋上?」

「ああ。夕焼け、見たい」

 篠宮は少し驚いた顔をして、それから頷いた。


 放課後のチャイムが鳴って、俺は志田と奈都にも声をかけた。

「屋上に行かないか。夕焼け、見たい」

 志田は即答だった。

「行く」

 奈都も頷いた。

「興味深い実験になりそう」


 屋上に続く階段は、普段は施錠されている。でも非常階段の踊り場までは上がれる。昔、俺が一人で昼飯を食っていた場所だ。今日は、あの踊り場に四人で集まった。

 西を向いた踊り場。5月の夕方の空が、目の前に広がっていた。

 空はまだ完全な夕焼けにはなっていなかった。薄いオレンジと、薄い赤と、遠くに残る青。俺にとっては、平日の夕方の普通の空。

 志田はその空を、じっと見ていた。

 奈都が横で、小さく解説した。

「夕焼けは全天に広がる。花みたいな小さな対象じゃなく、大きな視界が赤に染まる。もし段階的な解除が進んでいるなら、これが今日一番大きな刺激になるはず」

 志田はその解説をほとんど聞いていなかった。ただ、空を見ていた。

 薄いオレンジと薄い赤が、少しずつ濃くなっていく。太陽が傾くにつれて、雲の縁が燃えるように光り始める。俺の目には、今日もいつもの夕焼けだった。

 志田の目の中で、何が起きているのか、俺には分からない。でも、時間が経つにつれて、彼女の呼吸が少しずつ速くなっているのが分かった。

 最初、志田の視界は半分だけ色がついていた状態だったんだろう。花と水筒と赤ペンだけが薄く赤く、他は依然として灰色。でも、夕焼けは空全体を覆う。これまで小さな対象でだけ戻ってきていた赤が、今日は一気に視界全体に広がろうとしている。

 志田が手すりをそっと握り直した。指が白くなるほど強く握っていた。吐く息が少しだけ震えていた。

 奈都は何も言わずに、その様子を見ていた。篠宮も同じく、何も言わなかった。三人で、志田の呼吸のリズムに合わせるように、空を見ていた。

 風が踊り場を吹き抜けた。志田の髪が揺れた。志田はそれにも気づかずに、ただ空を見上げていた。


 太陽が、遠い住宅街の屋根の向こうに沈みかけた。

 その瞬間、西の空が一気に赤く染まった。濃い赤、薄い赤、オレンジ、紫、そして雲の縁の金色。グラデーションの全部が一瞬だけ繋がって、夕焼けが完成した。

 俺でさえ「綺麗だ」と思わずにはいられない、完全な夕焼けだった。


「......赤い」

 志田が、小さく呟いた。

「うん」

 俺は相槌だけ返した。

「赤い。空が、赤い」

「うん」

「......赤いね、空ってこんなに赤いんだ」


 志田の目に、今日一日ためてきた何かが、ようやく溢れた。

 涙だった。

 静かな涙じゃなかった。ぼろぼろと、止まらない涙。

 志田は空を見上げたまま、頬を伝う涙を拭こうともしなかった。拭きたくなかったのかもしれない。今日の涙は、赤が見える目で流す涙だったから。


「......よかったね」

 隣で、篠宮が静かに言った。

 篠宮には、この赤は見えない。彼女の目に映るのは、薄いグレーから濃いグレーに変わっていく空だった。でも、篠宮は志田の涙を見ていた。涙の色は彼女にも見えないが、涙の温度と量は、きっと感じ取れる。

 篠宮は、志田が感じているものを、色ではなく別の何かで知っていた。

「......ありがとう」

 志田が掠れた声で答えた。

「ありがとう、篠宮さん」

「ううん」

「水無瀬も、奈都ちゃんも、ありがとう」

「うん」

 奈都は普段の「観察対象への興味」の顔じゃなく、ちゃんと「友達が嬉しい時の顔」をしていた。珍しい顔だった。奈都にもこういう表情が出せるらしい。

 俺は何も言えなかった。喉の奥に、何か熱いものが詰まっていた。

 俺も、感情が少しだけ戻り始めているのかもしれなかった。


 * * *


 志田は踊り場の手すりに手を置いて、夕焼けを見続けていた。涙はまだ止まらなかったが、口元には小さな笑みがあった。泣き笑い、というのが一番近い表情。

 俺は少しだけ後ろに下がって、四人の姿と、その向こうの夕焼けを眺めた。

 一話――じゃない。あの日。最初にこの非常階段の踊り場で一人で弁当を食べていた日。あの日、俺は同じ夕焼けを見ても、何も感じなかった。綺麗だとも、別にとも思わなかった。夕焼けは夕焼けで、それ以上でも以下でもなかった。

 今日、俺は同じ踊り場にいる。同じ空を見ている。同じような夕焼けだ。

 ――違うのは、俺の中の何かだった。

 少しだけ、綺麗だと、思った。

 少しだけだった。でも、確かに。


 その少しだけが、この二ヶ月弱で起きた一番大きな変化だった。

 志田の赤が戻った。それは、奈都の仮説が当たったということで、篠宮が見つけた異変が解決したということで、俺が昨日かけた言葉が届いたということで――

 そして、俺自身の中にも、少しだけ何かが戻り始めたということだった。


 西の空の赤が、ゆっくりと濃くなっていった。

 誰も何も言わなかった。

 風が、志田の髪を少しだけ揺らした。

 少しの間、四人ともそのままだった。志田の涙はゆっくり乾き始めていた。奈都は眼鏡を一度だけ外して、目元をそっと押さえた。泣いていた、のかもしれない。奈都が泣く姿は初めて見たかもしれないが、確信は持てなかった。

 篠宮はずっと穏やかだった。志田の肩の少し後ろに立って、同じ空を見上げていた。篠宮の目に映るのは薄いグレーの空。でも彼女の横顔は、どこか満ち足りていた。色を見るということが何なのか、彼女は今日、他人の涙を通じて少しだけ理解した気がした――そういう顔だった。

 俺も、自分の中で何かが静かに動いているのを感じていた。ただ、それに名前をつけるのはやめた。名前をつけると、壊れてしまう気がした。今はただ、この場所に自分もいるという事実だけを確認していれば、それで十分だった。

 太陽が完全に住宅街の向こうに沈んだ。

 赤は少しずつ薄れて、紫と濃い青に変わっていく。空の西端だけが、まだ最後の炎を残していた。

 志田が、小さく呟いた。

「......ありがとう、空」

 誰に向けたわけでもない、独り言のような声だった。

 その「ありがとう、空」に、俺はたぶん、今日一番心を動かされた。


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