恋は嘘じゃなかった
火曜日の朝、俺は志田にメッセージを送った。
『今日の放課後、ちょっと付き合ってほしい。美術準備室』
返信はすぐに来た。
『美術準備室? 私も?』
『ああ。篠宮もいる』
『......うん、行く』
"行く"と返してくれた一言に、少しだけ安心した。先週の志田なら、もしかしたら断っていたかもしれない。でも、先週の土曜日のあと、志田の中で何かが少しだけ動いた気がしていた。その動きの延長線上に、今日の"行く"があった。
昼休み、俺は篠宮に計画を伝えた。
「志田を美術準備室に呼ぶ。篠宮の絵を見せたい」
「え?」
「篠宮が志田に見せた絵――あれをもう一回、今度は俺のいる場所で見たい。ついでに、俺からも志田に話したいことがある」
篠宮は少しだけ考えてから、頷いた。
「......分かった」
彼女の目は穏やかだった。でも、何か重いものを受け取った後の穏やかさだった。
* * *
放課後。
俺は志田を連れて美術準備室に向かった。廊下を歩きながら、志田は少しだけ緊張していた。彼女にとっての美術準備室は、この前、篠宮と二人きりで過ごして、自分の過去を話した場所だ。戻るのには勇気がいるはずだった。
「水無瀬」
「なんだ」
「......何の話?」
「来てから話す。でも、悪い話じゃない」
「うん」
志田は短く答えて、俺の半歩後ろについてきた。
4階の突き当たり、美術準備室の扉の前で、俺は深呼吸をした。
一つ、扉をノックした。
「篠宮、入るぞ」
中から「どうぞ」と静かな声がした。
扉を開けると、篠宮は窓際の椅子に座って、膝の上に一枚の絵を置いていた。今日はクロッキー帳じゃない。ちゃんと額に入った、一枚の完成品。モノクロの絵だった。
俺は初めて見る絵だった。志田も初めて見る絵だった。たぶん、篠宮が今日のために、わざわざ家から持ってきたものだった。
「これ、見てほしいの」
篠宮はあっさり言って、絵をイーゼルの上に立てかけた。
俺と志田は、絵の前に立った。
絵の中にあったのは、一人の少女の背中だった。
小さな背中。たぶん、5歳か6歳くらいの子供。公園のベンチに座って、空を見上げている。長い髪が風でわずかに揺れている。
背景は、空と木々と、ベンチの周りの地面。全部がモノクロのグラデーションで描かれている。色はない。それなのに、絵の中の空は"広かった"。木々は"揺れていた"。光は"眩しかった"。
少女の背中は、何かを見上げている。その何かが、俺には「もう失われたもの」のように見えた。
――篠宮が、志田に見せた絵。この子のたぶん、自分の過去の絵。
「......これ」
志田が小さく呟いた。
「前にも、見せてくれたやつだよね」
「うん」
篠宮は絵に視線を送ったまま言った。
「でも今日は、水無瀬くんにも見てほしくて。もう一回、二人の前で、ちゃんと出したかったの」
俺は絵を見ながら、しばらく何も言えなかった。
先週、篠宮が志田にだけ見せたと聞いていた絵。あの時、篠宮は俺にも自分の過去の話を打ち明けたけれど、絵そのものは俺の視界の外だった。今日、それが俺の目の前にある。
色がない。でも、色が無いとは感じなかった。
"色がない絵"ではなく、"色を超えた絵"だった。見ている人の中に、勝手に色が立ち上がっていく絵だった。
――これを描いた時、篠宮は何を考えていたんだろう。
一度失った色の記憶を、光と影だけで必死に呼び戻そうとしていたのかもしれない。あるいは、失った色を"無かったこと"にするために、光と影だけの世界の中に自分の居場所を作ろうとしていたのかもしれない。どちらなのか、俺には分からない。でも、この絵の中の少女の背中には、確かに"何かを失った後の人間"の重みがあった。
それを、今日、篠宮は俺と志田の前に置いた。
――自分の一番奥にあるものを、もう一度差し出してくれた。
俺はその絵を見ながら、志田のほうを少しだけ見た。志田は目を細めて、じっと絵を見ていた。彼女の目には、この絵は"完全にグレー"ではなかったはずだ。志田はまだ、赤以外の色は見える。だから、この絵の中の空の薄い青、木々の緑、地面の茶色、それらは――いや、絵自体はモノクロだから、志田にとっても他の誰にとっても、モノクロに見える。
モノクロの絵を見て、志田がぽつりと言った。
「......すごい」
「え?」
「色がないのに、こんなに綺麗なの?」
その一言に、篠宮が小さく笑った。
「色がなくても、綺麗なものはあるよ」
それは篠宮の、いつもの穏やかな声だった。でも、今日の声は、先週の美術室で聞いた時よりも、ほんの少しだけ柔らかかった。
* * *
俺は志田のほうを向いた。
心臓が、少しだけ早く打っていた。
今日、ここに志田を呼んだのは、この絵を見せるためだけじゃなかった。俺が言いたいことを、言うためだった。
言わないといけないこと。言わないと、俺が俺じゃなくなる気がすること。
「......志田」
「うん?」
「ちょっと聞いてほしい話がある」
志田は絵から目を離して、俺のほうを見た。俺は志田の目をまっすぐ見返した。逃げたくなる自分を、今日だけは押さえた。
俺は、一度だけ深く息を吸った。そして、できるだけはっきりと、言葉を選びながら、話し始めた。
「志田がさ、中学の時に告白して、動画撮られて、晒されて、笑われたのは、本当に辛かっただろ」
「......うん」
「1週間学校休んで、戻った時には話題が終わってて、それで"明るい志田"を自分で選び直して、ずっとそれをやってきた」
「うん」
「それは、すごいと思う。本当にすごい。俺だったら、たぶん、戻ってこれなかった」
志田は黙っていた。
俺は続けた。
「でもさ。一つだけ、俺が言いたいのは――お前が誰かを好きになったこと自体は、嘘じゃないってことだ」
志田の目が、少しだけ見開いた。
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない。告白したことも、好きだったことも、夜眠れなかったことも、返事を気にしたことも、全部本物だ。お前が浮かれてたから起きた事件じゃない。お前が普通に人を好きになったから起きた事件でもない。あれは――」
俺は言葉を選んだ。間違えたくなかった。
「お前を笑ったやつらと、動画を撮ったやつと、『俺、あいつ無理』って言ったそいつが、お前の気持ちを軽く扱ったから起きた事件だ。お前の恋心が悪かったんじゃない。お前の恋心は、ただそこにあっただけで、悪くもなければ、正しくもなかった。ただの――"あるもの"だった」
「......」
「だから、好きになった気持ちまで消す必要はないんじゃないか」
自分の声が、少しだけ震えているのが分かった。
俺は生まれてこのかた、こんなに長く、こんなに真正面から、感情のことを誰かに話したことがなかった。両親の離婚のことですら、航平にほんの少し打ち明けただけだった。
今日、俺は他人の感情のことを話している。でも、その言葉は、自分の中のどこかから絞り出している。絞り出さないと、届かない気がした。
志田の目に、涙が浮かび始めた。
「......好きだった」
志田の声が、掠れた。
「本当に好きだったの」
「うん」
「バカみたいだけど、本当に好きだった。何ヶ月もずっと、あの人のこと考えてた」
「バカじゃない」
俺は否定した。自分でも驚くほど、はっきりした声で。
俺の中に「バカじゃない」と言い切れる強さがあるとは、今朝まで思っていなかった。でも、言ってしまっていた。言ってしまった後で、それが本心だったと気づいた。
「バカじゃない。本気だったなら、それは誰にもバカにする権利なんかない。本気だったから傷ついた。それは、本気だった証明でしかない」
「......うん」
「傷ついた事実は変わらない。笑われたことも、書き換えられない。でも――お前が本気で誰かを好きになれる人間だったっていう事実は、変わらない。それは、今のお前の中にも、まだある」
「......」
「そのままの気持ちで、赤は戻っていいと思う。怖いままでいい。怖くないふりをしなくていい」
志田の涙が、頬を伝って落ちた。
音もなく、ゆっくりと。
落ちた涙は、絵の前の床で、小さな点になった。
俺はその涙の色を、志田自身は見ることができないんだと思った。赤が消えている彼女にとって、自分の涙は透明か、薄いグレーに見えるはずだ。頬を濡らした感覚だけがあって、色は分からない。
でも、それでいいのかもしれない。涙は、色の問題じゃない。落ちてくる時の重さと、頬を伝う時の速さと、心の中のどこから出てきたかの遠さ。それだけで、涙は涙になる。
志田の涙は、たぶん、心のかなり深いところから出てきていた。
「......怖いままで、いい?」
「いい。怖いって思う気持ちと、好きになりたい気持ちは、一緒にあっていい。俺は今日、篠宮からそれを教えてもらった」
俺は篠宮のほうをちらりと見た。
篠宮は、何も言わずに、俺と志田を交互に見ていた。口元に小さな笑みがあった。でも、その笑みは、俺に対するものじゃない。志田に対するものでも、正確にはない。
彼女は、今この場所で起きていることそのものに、ひっそりと微笑んでいた。
志田は、両手で顔を覆った。
それから、声を殺して、泣き始めた。さっきまでの涙より、ずっと深いところから出てくる泣き方だった。
俺は何もしなかった。手を差し伸べることも、背中をさすることも、しなかった。篠宮から学んだことだ。こういう時、人は"助けてほしい"んじゃない。"聞いてほしい"のでもない。ただ、そこにいてほしいのだ。俺と篠宮は、その場に"いる"ことだけをしていた。
どれくらいそうしていただろう。5分か、10分か。
やがて、志田は顔を上げた。涙の跡が残っていた。でも、目の奥には、さっきまでなかった光のようなものが戻っていた。
「......ありがとう、水無瀬」
「ん」
「篠宮さんも、ありがとう」
「うん」
志田はもう一度、篠宮の絵を見た。
「この絵、すごく好き」
「ありがとう」
「私も、いつか、こういう絵を描きたい。色がなくても綺麗な絵を。......って、私、描けないか」
「描けるかもよ。試してみないと分からない」
篠宮が静かに言った。
志田は小さく笑った。今日初めての、本当の笑顔だった。
* * *
志田が帰った後、俺と篠宮は美術準備室に二人だけで残った。
篠宮は絵をそっと抱えて、また机の上に戻した。
そして、俺のほうをまっすぐ見た。
「水無瀬くん、さっきの話」
「......ん?」
「すごく、良かった」
「......」
「本当に、良かった」
篠宮の笑顔は、志田の前で見せた小さな微笑みとは、少し違った。もっと柔らかくて、もっと近くて、俺にだけ向けられているものだった。
俺の胸が、一瞬、小さく跳ねた。
跳ねたことに気づいて、俺はすぐに目を逸らした。意味を考えないようにした。考えたら、たぶん、逃げたくなる気がしたから。
窓の外の空が、少しだけ夕方の色に染まり始めていた。俺にとっては薄いオレンジの空。志田にとっては少しだけグレーが混じった空。篠宮にとっては、たぶん、柔らかい明るさだけが残る空。
三人で、違う色の同じ空を見た一日が、ゆっくり終わろうとしていた。




