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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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17/28

篠宮の答え

 月曜日の放課後、俺はいつも通り美術準備室に向かった。

 日曜日は、一日中家にいた。テレビをつけていたが、ほとんど画面は見ていなかった。父さんは仕事で、家の中は静かだった。俺は自分の部屋のベッドの上で、土曜日に志田(しだ)と交わした会話を何度も頭の中で反芻していた。

 「感じないほうが楽」

 あの言葉が、月曜の朝になっても、まだ胸の奥に残っていた。電車に乗っても、朝のホームルームを聞いても、昼休みを過ごしても、その言葉はずっとそこにあった。

 放課後、俺は篠宮(しのみや)と話さないといけないと思った。土曜日のことを報告する必要もあったし、それ以上に――俺が今、何を考えているかを、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

 "助けてほしい"んじゃなくて、"聞いてほしい"。篠宮が前に言っていた言葉を、今は俺自身が体感していた。


 * * *


 美術準備室の扉を開けると、篠宮はいつもの場所で絵を描いていた。今日のモチーフは、窓辺の空の雲だった。白とグレーだけで描かれた雲。動きのある筆致で、薄い層の重なりがある。

 俺が入ってくると、篠宮は顔を上げた。

「おかえり」

「......ただいま」

 この二週間、俺はこのやり取りに慣れた。慣れたけれど、毎回少しだけ不思議な気持ちになる。「ただいま」と「おかえり」を交わす相手がいる、という事実が、俺にとっては久しぶりすぎて、まだしっくり来ていない。

 俺はいつもの場所に座った。文庫本は出さなかった。今日は、話すために来た。

 篠宮もそれを察したのか、鉛筆を机に置いて、こちらを向いた。

「土曜日、どうだった?」

「......話した」

「うん」

「志田は、ちゃんと本音を話してくれた」

「よかった」

 篠宮は短く言って、少し待った。俺が続けるのを待っていた。

 俺は、志田が言った言葉を、できるだけ正確に篠宮に伝えた。「好きになりたい。本当は。でも、怖い」。「もう一人の自分が怒る」。「感じないほうが楽」。

 篠宮は最後まで聞いて、それから静かに言った。

「......志田さん、ちゃんと自分のこと見てるね」

「見てる。見すぎるくらい」

「見すぎるのは、苦しいね」

「......ああ」

 篠宮は少しだけ窓のほうを向いた。雲の移り変わりを目で追っているようだった。


 * * *


 俺は少し迷ってから、自分の中にあった質問を口に出すことにした。

「......篠宮」

「ん?」

「篠宮は、色が見えたいと思うか?」


 質問が、自分の口から出た瞬間、俺は少しだけ緊張した。

 この質問は、たぶん重い。篠宮は前に俺に「色が見えないことを同情されるのは嫌だ」と言っていた。そして先週、志田に対しては「幼稚園の頃に色が見えていた記憶がある」と打ち明けていた。俺にしか話していなかった部分と、志田にだけ話した部分がある。

 その両方を知っている俺が、いま「見えたいか」と聞くのは、篠宮の一番柔らかいところに触れる質問だった。

 篠宮は少しだけ目を閉じた。それから、ゆっくり開けた。


「......見えたらいいなって思うことは、あるよ」

「うん」

水無瀬(みなせ)くんが話してくれる色の話を聞いていると、見てみたくなる。赤が"目が自然と向く色"だって聞いた時、どんな"目が向く"感じがするんだろうって思った。青が"広くて冷たくて寂しい色"だって聞いた時、その寂しさはどんな形だろうって考えた」

「......」

「でもね、見えないから嫌だ、とは思わない。だって、見えなくても、世界はちゃんと面白いから」

「面白い?」

「うん。私にとっての世界は、明るさと影と質感でできてる。色がない分、光の変化にすごく敏感になるの。朝の光と夕方の光の違いとか、曇りの日と晴れの日の空気の重さとか。そういうものが、私の世界の"色"になってる」

 篠宮は窓の外の雲を指差した。

「あの雲、水無瀬くんの目には何色?」

「......白。少しだけグレーが混じってる」

「私にはね、"柔らかい明るさ"に見える。触ったら指先が冷たくなりそうな、ちょっと湿った質感の塊。形が絶えず変わっていくから、ずっと見ていても飽きない」

 俺はその説明を聞きながら、窓の外を見た。

 篠宮の言葉を通して見ると、さっきまで"白い雲"でしかなかったものが、確かに"柔らかい明るさの塊"として目に入ってきた。色の情報を一度忘れて、光と質感だけで雲を見る練習を、俺は一瞬だけさせてもらった。

 ――この人は、俺の知らない見方で世界を見ている。


「......だから、見えないことを"失った"とは、普段は思わない」

 篠宮は続けた。

「思わないように生きてきたし、思わない方法を自分で作ってきた。今もそれは変わらない」


 俺はその言葉を聞きながら、先週の美術室で篠宮が志田に話した内容を思い出していた。「ずっと『生まれた時から見えない』って言ってた」と。あれも、篠宮が長年かけて作り上げた「思わない方法」の一つだったんだろう。

 見えなくても世界は面白い、という今の発言も、一見すると純粋な強さに見える。でも、もしかしたら、これも少しだけ、彼女なりの"整理の仕方"なのかもしれない。本当は寂しいけれど、寂しいと思わないように、自分の世界の枠組みを組み直してきた結果の言葉。

 俺はそれを指摘しようとは思わなかった。篠宮の整理の仕方は、彼女が自分を守るために必要なものだ。外から壊していいものじゃない。

 ただ、聞きながら、少しだけ胸が痛んだ。


 それから、彼女は少しだけ間を置いて、口調を変えた。少しだけ軽くなった声で、こう付け加えた。


「......でもね、最近は、ちょっとだけ違うんだ」

「違う?」

「最近ちょっとだけ、"見えたらいいな"って思う回数が、増えたかも」

「......なんで」

「水無瀬くんが、色の話をしてくれるから」


 俺は返事に困った。

 篠宮は俺のほうを見ていなかった。窓の外の雲のほうを見ていた。顔は横顔で、光が頬の輪郭を柔らかくなぞっていた。その横顔を見ているうちに、俺は自分の心拍数が少しだけ上がっていることに気づいた。気づいて、気づかないふりをした。

 篠宮は淡々と続けた。

「水無瀬くんが色の話をしてくれると、聞きながら、見てみたくなるの。見たことのないものを、どんなふうに見ることになるか、想像するのが楽しい。でもね、想像と本物はきっと違うでしょ? だから、本物を見てみたいって、少し思う」

「......」

「怖いんだよ。見たら、想像と違うかもしれないし。今の"私の世界"が変わってしまうかもしれないし。見えた後の私は、私じゃないかもしれない」

 篠宮は小さく笑った。

「でもね、怖いけど、見てみたい。そういう気持ち、志田さんも近いんじゃないかな」

「......え?」

「志田さん、『好きになりたい、でも怖い』って言ってたんでしょ? それって、『見てみたい、でも怖い』と同じなんじゃないかと思うの。怖いから避けてるだけで、本当は、見たい気持ち、好きになりたい気持ちは、ちゃんと残ってる」


 俺は、篠宮の言葉を、しばらく頭の中で噛み砕いた。

 怖いけど、見てみたい。

 怖いけど、好きになりたい。

 二つの文は、確かに同じ構造をしていた。主語が違うだけで、中身は同じだった。

 志田の問題の答えは、志田の中にあった。「好きになりたい」と「怖い」が同居している限り、彼女の中にはまだ赤が息づいている。それを「ダメだ」と抑え込んでいるだけで、なくなってはいない。

 ――そうか。

 志田に伝えるべきは、「怖がらないで」じゃなかった。「怖いままでいい。ただ、怖いだけじゃないことを、覚えていればいい」なのかもしれない。


「......篠宮」

「ん?」

「ありがとう」

「何が?」

「......いや、全部」


 篠宮は不思議そうな顔をして、それからまた鉛筆を取った。雲の絵の続きを描き始めた。

 俺は、彼女の横顔を見ながら、胸の中で一つの言葉を反芻していた。

 怖いけど、見てみたい。

 それは、志田のための言葉のはずだった。でも今、俺の中でその言葉は、俺自身にも向けられていた。

 俺は自分の感情を、怖いから見ないふりをしていた。でも本当は――もしかしたら――見てみたいと思っている部分が、まだ、ちゃんと残っているのかもしれない。

 篠宮が俺の横にいる時、俺は時々、その"残っている部分"が小さく動くのを感じる。それが何なのか、俺はまだ名前をつけられない。でも、なくなってはいない。

 確かに、まだ、ある。


 窓の外の雲が、ゆっくりと動いていた。

 篠宮の鉛筆の音が、静かに続いていた。

 放課後の時間は、毎日こうしてゆっくり過ぎていく。俺にとって、この時間は少しずつ"大事な時間"に変わり始めていた。「別に」で済ませたくない時間が、俺の一日の中に初めて生まれていた。

 ――次に志田と話す時は、「怖いままでいい」って伝えよう。

 俺は心の中で、そう決めた。

 それが正しい言葉かどうかは分からなかった。でも、今の俺に出せる言葉の中では、一番近い気がした。

 その言葉を伝えるためには、俺自身も「怖いままでいい」と思わないといけない。志田に言うためには、自分にも同じことが言えないといけない。

 ――怖いままでいい、か。

 俺は小さく呟いた。呟いてから、窓の外の雲をもう一度見た。

 柔らかい明るさの塊、と篠宮は言った。その言い方は、確かに悪くなかった。


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