もう一度好きになるのが怖い
土曜日の朝、目が覚めた瞬間に、昨日の「赤いもの探し」の余韻がまだ頭に残っていた。
志田の「見たかったな」という夕焼けへの一言。あの声がずっと残っていた。笑っているような、泣いているような、両方が同時にある声。俺はベッドの上で天井を見つめながら、その声をもう一度再生していた。
先々週の土曜日にも、俺は同じようにベッドから天井を見上げていた。あの時もまた志田のことで悩んでいて、結局ファミレスに呼び出して話をした。場所も、ホットミルクティーも、志田の「別に、もう忘れたし」も、鮮明に覚えている。
――また、同じパターンを繰り返すのか。
一瞬、そう思って、自分でちょっとおかしくなった。
たぶん、繰り返すんだろう。でも、先々週の俺と今日の俺は、少しだけ違う。
先々週の俺は「何かしないといけない気がする」で動いていた。義務感の延長線上の行動。今の俺は、もう少し違う。「聞いておきたい」が動機だった。聞きたいことがあって、それを聞くために動いている。自分で自分を動かす理由が、少しだけ変わっていた。
俺はスマホを取って、志田にメッセージを送った。
『今日、時間ある? 場所は、前と違うところで』
返信はすぐに来た。
『大丈夫。どこ?』
俺は駅前のファミレスじゃなく、近所の公園を提案した。ファミレスはもうこの二週間で二度使っていた。同じ場所では同じことしか話せない気がした。空気を変えたかったし、志田にも違う場所で違う顔を見せてほしかった。
公園は俺の家から徒歩10分、駅からは少し離れたところにある、遊具の少ない小さな公園だ。昼は小さい子供連れの母親が何組か来るが、午前9時頃の時間帯はほぼ無人になる。俺は9時の少し前に着いて、ベンチに座って待った。
空は晴れていた。5月の朝の空気は、気持ちよく涼しかった。俺の目には薄い青と白の空。志田の目にも、たぶんほぼ同じ色に見えているはずだ。赤がなくなっても、青と白は変わらない。それだけは、救いと呼べる情報かもしれなかった。
志田は9時5分くらいに、息を少し切らしながら現れた。
「ごめん、遅れた」
「いや、まだ早かった」
志田はベンチの俺の隣に座った。間に腰一つ分の距離を空けて。
髪を一つに束ねていて、普段の制服の時よりも少しだけ小さく見えた。昨日の「赤いもの探し」の時と同じく、私服だった。でも昨日より、少し疲れているように見えた。
「何、話?」
志田のほうから切り出した。普段の彼女らしい、テンポの良さで。
俺は少し黙って、公園の真ん中にある古びた鉄棒を見つめた。緑色に塗られた鉄棒。志田の目にはたぶん、普通に緑に見えている。赤が消えても緑はまだある。
何から話すべきか、いくつか順番を組み立てた。遠回しに聞くのと、直球に聞くのと。
結局、俺が選んだのは直球だった。
篠宮が「志田さんは志田さんのペースで」と言ってくれた言葉を裏切ることになるかもしれない。でも、今日の俺は、踏み込むべきだと思った。昨日の夕焼けを「見たかったな」と言った志田の顔が、まだ残っていた。
「......志田はさ」
「うん」
「もう一回、誰かを好きになりたいと思うか?」
志田の表情が、一瞬、固まった。
笑顔を作ろうとして、作り切れずに失敗したような顔。それから、笑顔の残骸をそのまま残して、彼女は膝の上の手を握った。強く握った指が、白くなっていた。
数秒、何も言わなかった。
公園の奥で、風が木の葉を揺らしていた。朝の光が、鉄棒の上にゆっくり動いていた。
「......ずるい聞き方だね、水無瀬」
志田は小さく笑った。笑うしかない、という種類の笑い。
「悪い」
「悪くない。聞き方としては、正しいのかもしれない。私も、自分に対してちゃんと聞いたことなかった」
志田はベンチの下の土を、靴先で軽くこすった。足元に視線を落とす。顔が少しだけ俺から遠ざかる。
そして、言葉を選ぶようにゆっくり話し始めた。
「......好きになりたい」
「うん」
「本当はね、好きになりたい。誰かを、ちゃんと好きになって、胸がきゅっとなって、夜眠れなくなって、スマホを握りしめて返信を待つ、みたいな。そういうのを、もう一度やりたいの」
「......うん」
「でも、怖い」
志田はそこで一度息を吸った。肩が小さく上下した。
「怖いの。また笑われたらって思うと、胸が......なんていうか、先にシャッターが下りる感じ。『感じようとする前に、感じちゃダメ』って、脳が勝手にストップをかける」
「......」
「で、しばらくそうやって生きてたら、気がついた。感じないほうが楽だって。感じたら傷つくけど、感じなければ傷つかない。すごく単純な話でしょ」
「......」
「最初はね、ずっとこのままはいけない、って思ってたの。でも、日が経つにつれて、"このまま"に慣れていった。慣れるって、すごく怖い。『いけない』って気持ち自体が薄くなっていくの。『このままでもいいかも』に変わっていく。そのうち、『このほうが、むしろ楽でいい』になる」
「......」
「本当はね、もう一回好きになりたい。今の私の中で、その声は、まだちゃんと聞こえてる。小さいけど、聞こえてる。でも、聞こえてる自分を、もう一人の自分が怒るの。『何言ってるの。また傷つきたいの? バカじゃないの?』って。そのもう一人のほうが、最近は強いの」
志田の声は、驚くほど冷静だった。でも、冷静すぎることが、彼女の苦しさを逆に示していた。本当に平気な人間は、こんなに整った言葉で自分を分析できない。彼女は、自分の感情を蓋越しに観察することで、自分と距離を取っていた。
俺は言葉を返そうとして、喉が詰まった。
志田の言葉は、俺の中のどこかに、真っ直ぐ刺さっていた。
感じないほうが楽。
俺が何年も、何年も、自分に言い聞かせてきた言葉とまったく同じだった。違う形、違う傷、違う経緯でそこに辿り着いたのに、到着点は同じだった。
怒らないほうが楽。
泣かないほうが楽。
望まないほうが楽。
諦めるほうが楽。
「別に」と言ってしまえば、全部が一瞬で軽くなる。
俺はその軽さに依存していた。
「水無瀬?」
志田が俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? なんか、今、水無瀬のほうが辛そうな顔してるよ」
「......」
俺は言葉を探した。探したが、見つからなかった。
志田に「感じることを怖がらないで大丈夫だ」と言うべきだった。「また傷ついても、また好きになれるよ」とか、「傷は治るよ」とか、そういう"先輩風"の言葉を出すべき場面だった。
でも、俺はその言葉を持っていなかった。
俺自身が、まだその答えを見つけていないから。
――俺は、自分の問題を抱えたまま、この人を助けようとしている。
奈都の指摘が、胸の奥で跳ねた。篠宮の「それ、水無瀬くんにも言えるんじゃない?」が、さらに重なって響いた。
俺は何も言えなかった。言ってはいけなかった。中身のない言葉を、今の志田に差し出すわけにはいかなかった。
代わりに、俺は小さく言った。
「......ごめん」
「え?」
「気の利いたこと言えない」
「......」
「本当は、何か言わなきゃいけないはずなのに、何も言えない。俺が、まだ自分のことも解決できてないから」
志田は少し驚いた顔をした。
それから、ふっと息を吐いて、笑った。今度の笑いは、諦めの笑いじゃなかった。少しだけ、柔らかい笑いだった。
「......なんで水無瀬、自分のこと言ってるの」
「......言わないと、おかしい気がして」
「ふふ。変な人だね、水無瀬って」
志田は空を見上げた。
俺には薄い青に見える、5月の朝の空。志田には、赤が消えた少しだけ穴のある空。それでも、今日の空は彼女の目にも充分綺麗なはずだ、と俺は信じたかった。
「......水無瀬が自分のこと話してくれたのは、嬉しい」
志田は空を見たまま言った。
「同じ方向を見てる人がいるんだって思えた。一人で『感じないほうが楽』って呪文を唱えてるのは、私だけじゃないって分かった。それだけで、ちょっとだけ、楽になった気がする」
「......そうか」
「うん」
「......俺も、ちょっとだけ楽になった気がする」
俺は自分で言って、自分で驚いた。
嘘じゃなかった。志田が自分の痛みを言葉にしたことで、俺も少しだけ、自分の痛みを見ることができた。誰かに「あなたも同じだね」と言ってもらえるだけで、人は自分の中の痛みを少しだけ受け入れられる。そういう作用が、今、俺と志田の間で起きていた。
篠宮が言っていた「助けてほしい人じゃなく、聞いてほしい人」という言葉の意味が、ようやく少し分かった気がした。
俺たちはしばらく、並んで空を見ていた。話す必要はなかった。風が鉄棒を少しだけ鳴らした。
* * *
家に帰って、俺は部屋に入って、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめた。
普段の俺なら、こういう時にすぐスマホを取り出して、何か適当な動画を流して、頭を空にする。でも今日は、そうしたくなかった。天井の木目を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
感じないほうが楽。
志田の言葉が、ずっと頭の中で反響していた。
そうだ。俺もそうだ。
ずっとそうだった。中学の時から。両親の離婚が決まった日から。どちらと暮らすか選べと言われた日から。俺は感情に蓋をすることで、自分を守ってきた。蓋は便利だ。何も入ってこない代わりに、何も出ていかない。痛みも、喜びも、全部の波が凪いでしまう。
でも、その凪の中で、俺は志田にかける言葉を失ってしまった。
助ける側にいるつもりが、助けられる側と同じだった。同じ凪の中にいる人間同士で、どうやって相手を起こすんだろう。
――じゃあ、俺は、どうするんだ。
天井を見つめながら、俺は一つの問いを置いた。
答えは、まだ見つからなかった。
でも、問いが置けたこと自体が、昨日までの俺にはなかったことだった。
――志田の赤を戻したいなら、俺は俺の蓋を少しでも開けないといけない。
奈都もそう言った。篠宮も、遠回しに同じことを言った。志田自身も、今日、たぶん同じことを言っていた。『同じ方向を見てる人がいるだけで、楽になった』と。
俺は寝返りを打って、窓のほうを見た。
カーテンの隙間から、薄い青が覗いていた。今日も空は青い。色は普通に見えている。俺にとっては当たり前の青。志田にとっても、今は見える青。篠宮には見えない青。
同じ空を、それぞれ違う形で見ている俺たちが、それでも同じ場所に集まって、何かを一緒に探している。そういう時間を、俺は今、過ごしている。
昨日までの俺だったら、この時間を「めんどくさい」の一言で片付けていただろう。今日は、片付けたくなかった。
めんどくさいけど、大事だった。
めんどくさいから、大事だったのかもしれない。
俺はその感覚をどう扱えばいいのか、まだ分からないまま、もう一度天井を見上げた。




