赤いもの探し
金曜日の放課後、俺は教室で志田を捕まえた。
と言っても、篠宮に「今日、志田連れて街に出よう」と提案されたのが朝のことで、俺はそれを伝達するだけの役だった。篠宮の発案は、昨日の美術準備室での重い会話を知っている俺にとって、意外なものだった。
「一緒に街を歩いてみない?」
朝、美術準備室に集まった篠宮が、眠そうな顔の俺にそう言ったのだ。
「......街? 先週の金曜も三人で街歩いたけど」
「うん。あの時は"確認"だったでしょ。信号とかポストとか、赤がどう見えないのか確かめるための時間」
「......それは、そうだけど」
「今日は違うの。確認じゃなくて、遊び。私と志田さんが赤が見えないって事実はもう確認したから、今度はそれを楽しむ方向に持っていきたい」
「楽しむ?」
「うん。昨日ずっと重い話ばっかりだったから、志田さんも水無瀬くんも、ちょっと呼吸したほうがいいと思ったの。深刻な顔で色のことを考えるんじゃなくて、遊びながら考えれば、別の角度が見えるかもしれない」
「......」
「だから今日は、"赤いもの探し"。ゲームみたいにやる」
「赤いもの探し」
「私と志田さんは赤が見えないでしょ。水無瀬くんは見える。三人で街を歩いて、水無瀬くんが赤いものを見つけて、私と志田さんが"こんな感じ?"って想像する。先週は水無瀬くんが案内したでしょ。今日は、私が言い出しっぺだから、私のペースで」
俺はしばらく黙って、それから聞いた。
「......それ、楽しいのか?」
「楽しいよ。私、前からやりたかったの。ただ、相手がいなかっただけで」
篠宮は真面目な顔で言った。冗談じゃないらしい。
俺はそれ以上反論する気も起きず、「分かった、志田に伝える」と答えた。
――この人の発想は、時々俺の想定範囲を超えてくる。
ただ、篠宮の意図は分かった。昨日の会話で、俺も志田も、少し息が詰まっていた。篠宮はそれを察して、一度"色"を軽い文脈に戻す時間を作ろうとしている。重さと軽さを行き来できないと、人は潰れる。それを知っている人の判断だった。
* * *
放課後、志田を教室に呼び止めて、篠宮の提案を伝えた。志田は最初、少しだけ驚いた顔をした。
「赤いもの探し?」
「うん。篠宮の発案だ」
「......なんで」
「さあ」
「さあって」
「俺も分からない。でも、篠宮が"楽しい"って言うんだから、たぶん楽しいんだろう」
志田は少し迷ってから、ゆっくり頷いた。
「行く。家で一人でぼんやりしてるより、よっぽどいいかも」
言いながら、志田は小さく笑った。昨日のファミレスでの「もう平気だよ」の笑顔とは違う、少しだけ軽い笑顔だった。
美術準備室に戻ると、篠宮が鞄を持って待っていた。俺が志田と一緒に戻ってくるのを見て、彼女は満足そうに頷いた。
「じゃあ行こう」
* * *
三人で校門を出て、駅前の商店街方向に歩き始めた。
5月に入りたての午後。風が少しだけ暖かくて、日差しが柔らかい。俺にとっては「薄い青の空、薄い黄緑の街路樹、白い雲」という色の組み合わせに見えている。篠宮と志田には、このうち何がどう見えているのか、正確には分からない。篠宮は全部グレーで、志田は赤だけが抜けた「少し色の少ない世界」なんだろう。
商店街の入り口で、篠宮が最初のターゲットを指差した。
「水無瀬くん、あれ何色?」
指の先には、郵便ポストがあった。
「赤」
「志田さんにはどう見える?」
志田はポストに近づいて、目を細めた。
「......黒に近い、濃いグレー。前にも話したけど、ポストは私にとって夜の色」
「夜の色かぁ」
篠宮は小首を傾げた。
「私にはポストは"凹凸の感じが独特な大きな筒"に見えてる。色は分からないけど、形と質感だけははっきり分かる」
志田は思わず笑った。
「筒って」
「だって、筒でしょ」
「それはそうだけど」
「ね、水無瀬くん。赤ってどんな感じ? 熱い感じ?」
「......まあ、そういう話は前にも聞いた気がするけど」
「もう一回聞きたい」
篠宮が子供っぽく言った。
俺は少し考えて答えた。
「......炎の色って、よく言われるけど。俺の感覚だと、"目が自然と向く色"って感じだな。空の中に赤いものが一つあると、他のものを見落としてそれを見てしまう」
「目が自然と向く色」
志田が小さく繰り返した。
「そっか。私、今、その"目が向く色"が見えてないんだ」
「うん」
「なんか......寂しい言い方だね」
俺はすぐに何か返そうとしたが、言葉を見つけられなかった。代わりに、篠宮が横から答えた。
「寂しいけど、寂しい色のない世界もあるよ、志田さん」
「......そう?」
「うん。私の世界、寂しくないとは言わないけど、静かだよ。それはそれで、悪くない」
志田はしばらく篠宮を見ていた。
それから、ふっと肩の力が抜けたように、頷いた。
「......うん」
* * *
商店街を歩きながら、俺たちは次々と赤いものを見つけた。
消火器は「消火器って赤だよな」「私には黒っぽいグレー」「私にはただの"円柱の道具"」。
八百屋のりんごは「赤」「濃いグレー」「丸い果物」。
薬局の看板は「赤字に白」「コントラストの強い何か」「角ばった板」。
コーラの自動販売機は「赤」「あ、これは分かる。暗い大きな四角」「飲み物の箱」。
ランドセルの赤いやつは「小学生が背負ってる赤いランドセル」「えっ、あれも赤? 私、ずっとランドセルは黒しか見えてない」「......ランドセルって何かよく分からない、四角い鞄」。
信号機は「信号の赤」「位置で覚えてるから大丈夫」「光る丸が等間隔に三つ」。
どれを挙げても、俺と志田と篠宮で、まったく違うものが見えている。同じ街を歩いているはずなのに、目に入っているものの"語り方"が三人とも違う。
不思議なのは、違っていてもちゃんと会話が成立することだった。「これ赤いよ」「こう見える」「こう思う」と、それぞれが自分の感覚を差し出し合うだけで、世界が三重になっていく。三重の世界が一つの商店街に重なっている。
――こういう見方を、俺は今までしたことがなかった。
俺の見ていた色は、俺だけのものだった。誰かと色の話をするなんて、そんな時間を持とうと思ったこともなかった。でも、この二人と一緒だと、俺の赤は「共有するための言葉」に変わる。共有することで、初めて俺自身も自分の見ていた赤が何だったのかを、少しだけ分かり始める。
花屋の前では、志田が自分から立ち止まった。
「......これ、たぶん赤いバラだよね」
前に二人で街を歩いた時にも見た花だった。志田はあの時、「沼みたいな色。深くて重くて、底が見えない」と言っていた。今日も同じ感想かと思って聞いていたら、彼女は少し違うことを言った。
「前は沼って思ってたけど、今日は......なんか、意外と柔らかい」
「柔らかい?」
「うん。なんていうか、重いのは重いんだけど、"怖い重さ"じゃなくて、"眠い重さ"みたいな。......うまく言えない」
篠宮が嬉しそうに頷いた。
「それ、すごくいい表現だよ、志田さん」
「いいかな?」
「うん。色は見えないのに、志田さんは色のことを自分の言葉で捉え直してる。その言葉は、誰のでもない志田さんだけのもの」
志田は少しだけ照れた顔をした。
そういう顔も、久しぶりに見た気がした。
* * *
三人で商店街の奥の広場のベンチに座った。
篠宮がリュックからノートを取り出した。小さい、シンプルなノート。いつもスケッチに使っているやつらしい。
「赤いものリスト作ろうよ」
「リスト?」
「うん。今日見つけた赤いもの、全部書いておく。そしたらいつか、志田さんの赤が戻ってきた時に、このリストを一つずつ見に行って、『ああ、これがあの時の赤だ』って確かめられるでしょ」
俺は篠宮の横顔をしばらく見ていた。
――この人は、赤が戻る前提で話している。
奈都は「戻らない可能性もある」と言っていた。篠宮もその話は聞いている。それでも、「戻る前提」で計画を立てている。それは無責任な楽観主義じゃなくて、「戻ると信じる」ための行動だった。
篠宮はノートに「赤いものリスト」と書いて、今日見つけたものを箇条書きしていった。
ポスト。消火器。りんご。薬局の看板。コーラの自販機。ランドセル。信号機。花屋のバラ。夕焼け。
書き出していくと、案外たくさんあった。普段意識していないけれど、この街は赤いものに溢れている。赤を自分の視界から切り離された志田にとっては、この街は今、少しだけ"穴"の開いた街なのだろう。
書き終わった篠宮は、ノートを志田に差し出した。
「はい、志田さん」
「え、私がもらっていいの?」
「うん。持ってて。戻ってきた時の地図」
志田はそのノートをしばらく見つめた。
それから、小さく笑った。
「......ありがと、篠宮さん」
笑顔の端に、少しだけ涙が滲んでいた。でも泣いているわけじゃない。むしろ、笑っているほうに近かった。
「ねえ、篠宮さん」
「ん?」
「篠宮さんにも、こういうリスト必要なんじゃない?」
志田がふと、思いついたように言った。
「篠宮さんは全部の色が見えないんでしょ。私より、もっと戻る場所があるはずじゃない?」
篠宮は少し驚いたように志田を見た。それから、ゆっくり首を振った。
「私のはちょっと違うの。戻るとか戻らないとかじゃなくて――もう、これが普通だから。私にはリストは要らない」
「でも、もし戻ったら?」
「もし戻ったら、志田さんのリストを借りて、一緒に見に行くよ」
「一緒に?」
「うん。その方が楽しいから」
志田は少し黙って、それから頷いた。
「......じゃあ、そうしよう。いつか、一緒に」
「うん、約束ね」
二人の会話の横で、俺は何も言わずに、ノートの文字を見ていた。
約束、という言葉が、今日の夕方の空気の中で、妙に重たく響いた気がした。
* * *
帰り道、商店街を駅のほうへ歩いていた時、志田がふと立ち止まった。
「あ」
俺と篠宮も立ち止まる。
志田は西の空を見ていた。
商店街の建物の隙間から、夕焼けが見えていた。薄い赤と紫が広がる、柔らかい夕方の空。俺の目には、今日も綺麗な夕焼けだった。
「......これ、赤いんだよね」
志田が小さく言った。
「そうだな」
「見たかったな」
短い言葉だった。
でも、その一言には、今日一日分の感情が全部乗っていた。笑っていたのも、赤いもの探しを楽しんでいたのも、全部本心だった。でも同時に、彼女は「見たかった」と思っていた。それも本心だった。
俺は「見えるようになるよ」と言いかけて、やめた。
奈都の言葉を思い出した。「戻らない可能性もある」。約束できないことを軽々しく口にするのは、違う気がした。
代わりに、俺は自分の見えている夕焼けを、できるだけ正確に言葉にしようとした。
「......ああ、綺麗だよ」
それしか言えなかった。
でも、それが今日の俺にできる、一番誠実な答えだった。
志田は小さく頷いた。篠宮は何も言わずに、志田の隣で同じ夕焼けを見ていた。彼女の目には、たぶん、薄いグレーのグラデーションが広がっているだけだったろう。
俺たち三人は、それぞれ違う色の夕焼けを、同じ場所で見ていた。




