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色のない君が、いちばん綺麗だった  作者: Studio SASAME
── Red

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14/27

感じないのか感じたくないのか

 木曜日の放課後、俺はいつもより少し遅れて美術準備室に向かった。

 昨日、志田(しだ)とファミレスで話した内容を、篠宮(しのみや)にどう伝えるべきか考えていた。伝える必要はあった。チームで動いている以上、情報は共有すべきだ。でも、どこまで話していいのか、言葉の選び方ひとつで志田の過去が軽くなってしまう気がして、階段を一段ずつ踏みながら、頭の中で文章を組み立てていた。

 4階の廊下は静かだった。音楽室からのピアノの音も今日は聞こえない。

 美術準備室の扉を開けると、篠宮は窓際の定位置で絵を描いていた。顔を上げて俺を見る。小さな会釈。それだけで、昨日の疲れのようなものが少し剥がれた気がした。


「......ただいま」

 自分でも少しだけ驚いた。「ただいま」なんて言葉、俺の口から出るとは思わなかった。

 篠宮も少しだけ目を見開いたが、すぐに柔らかく笑った。

「おかえり」

 それだけ言って、また鉛筆を動かした。

 ただいまとおかえりの交換。それだけで、今日の日常が戻ってきたような気がした。


 俺はいつもの場所に座って、少しの間、黙っていた。切り出し方を探していた。篠宮もこちらを急かさなかった。沈黙の中で鉛筆の音だけが、規則的に続く。

 結局、俺はまっすぐ話すことにした。

「......昨日、志田と話してきた」

「うん」

「中学の時のこと、聞いた」

 篠宮は鉛筆を止めた。顔はまだ俺のほうを向いていない。窓のほうを向いて、話を聞く姿勢になっている。

「話してくれた?」

「ああ。結構、ちゃんと話してくれた」

「......そっか」


 俺は昨日の話を、要点だけ篠宮に伝えた。中学3年の告白。動画を撮られた件。グループチャットの晒し事件。1週間の不登校。「明るい志田」に戻る決意。そして、去年の春から色が少しずつ薄くなっていったこと。

 篠宮は黙って聞いていた。途中で相槌も打たなかった。ただ、窓のほうを向いたまま、呼吸だけを聞かせていた。

 話し終わると、篠宮はゆっくり息を吐いた。

「......ひどい話だね」

「ああ」

「でもね、志田さんはよく話してくれたと思う。今まで誰にも言えなかったこと、水無瀬(みなせ)くんに話した。それは、志田さんなりの決意だと思うの」

「......そうだな」

 俺は少し迷ってから、続けた。

「あと、昨日、ファミレスに航平(こうへい)が偶然来てさ」

(ひいらぎ)くんも?」

「うん。志田の話聞いて、普通に怒ってくれた。『動画撮ったやつも、広めたやつも、振った男も、全員クソだろ』って」

 篠宮はその話を聞いて、ほんの少し笑った。

「柊くんらしいね」

「ああ」

「水無瀬くんも、そう思ったんでしょ?」

「......思った」

「でも、柊くんみたいに言葉が出てこなかった」

「......ああ」


 図星だった。図星なのに、篠宮の言い方には責める要素がなかった。ただ、「そうだよね」と確認しているだけの声。

 俺はその確認に、一つずつ頷くしかなかった。


 俺はそこで、自分が昨日からずっと考えていた洞察を、初めて言葉にした。

「志田はさ、"感じない"んじゃなくて、"感じたくない"んだと思う」

「......うん」

「何も感じないって言い張ってるけど、本当は全部感じてる。感じてるから、感じたくないって強く願って、その結果、赤が消えた。奈都(なつ)の言ってた脳の防衛遮断って、たぶんそういうこと」

「うん。私もそう思う」

 篠宮は静かに頷いた。

 鉛筆をそっと机に置いて、ゆっくり俺のほうを振り向いた。穏やかな目。でも、今日の目は、いつもより少しだけ鋭かった。


「ねえ、水無瀬くん」

「......ん?」

「それ、水無瀬くんにも言えるんじゃない?」


 俺は息が止まった。

 いや、止まらなかった。呼吸はちゃんとしていた。でも、肺の中の空気が、一瞬冷たくなった気がした。

 篠宮の声はとても穏やかだった。咎めるような調子も、挑発するような響きもなかった。ただ、事実を事実として差し出すような、いつもの篠宮の話し方。

 だからこそ、逃げ場がなかった。

 俺は目を逸らしそうになったが、今日はそれをしなかった。する意味がない気がした。この人には、どこを向いても見透かされている気がした。


「......かもな」

 結局、俺が言えたのはそれだけだった。

「かも、じゃなくて、そうだよ」

「......」

「水無瀬くんも、"感じない"んじゃなくて、"感じたくない"って決めてるだけ。志田さんと形は違うけど、根っこは同じ」


 俺は何も言えなかった。

 反論する気力もなかった。

 というより、反論する材料がなかった。篠宮の言葉は、俺が自分で薄々気づいていたことを、綺麗な形で言語化しただけだった。自分で気づいていたから、余計に刺さった。


 篠宮は俺の沈黙を責めなかった。また鉛筆を取って、絵を描き始めた。しゅっ、しゅっ、という規則的な音が戻ってきた。

 でも、しばらくしてから、手を止めずに、独り言のように続けた。

「私はね、感じたくないとかじゃないの」

「うん」

「本当に見えないの」

「......」

「だから逆に、見えるのに見ないふりをしてる人のことが――ちょっとだけ、もどかしい」


 "もどかしい"。

 その言葉の選び方が、篠宮らしかった。

 怒っているわけじゃない。責めているわけじゃない。ただ、もどかしい。そう言われると、反論できないし、言い返せないし、謝るのも違う気がする。何の逃げ場もない。

 俺は窓の外を見た。今日の空は曇っていた。灰色の雲が一面に広がっている。その中に、時々薄い青が覗いている。

 ――俺は、青を見ているのか? それとも、青を見ないふりをしているのか?

 自分でも、答えが出なかった。


 * * *


 どれくらい黙っていたか分からない。

 鉛筆の音が続く中で、俺は自分の中の何かが少しだけほぐれていくのを感じていた。ほぐれた、という感覚は正確じゃない。もっと正確に言うなら、「自分の輪郭が少しだけ曖昧になった」だ。篠宮の言葉が、俺が長い間かぶっていた「別に」という薄い殻に、小さなヒビを入れた。

 ヒビが入ったからといって、すぐに割れるわけじゃない。でも、ヒビが入ったことは、もう無視できない。


 俺は小さく息を吐いて、やっと口を開いた。

「......俺が、どうすれば、志田の赤は戻るんだ」


 篠宮は鉛筆を動かしたまま答えた。

「分からない」

「......」

「でもね」

 ここで、篠宮は初めて手を止めて、俺のほうを向いた。

「見ないふりをやめることから始めるのは、志田さんだけじゃないかもね」


 俺はその言葉を、胸の奥にゆっくり落とした。

 見ないふりをやめる。

 俺が自分の感情の蓋を、少しでも開ける。

 そうしないと、志田に届かない言葉は、たぶん、一生見つからない。

 奈都も、篠宮も、同じことを違う言葉で言っていた。俺が最後に気づかないといけないことだった。

 でも、気づいたからといって、すぐに動けるわけじゃない。

 「見ないふりをやめる」と口に出すのは簡単だ。実際にやるのは難しい。俺は何年間も、感情の蓋を強固にするために毎日エネルギーを使ってきた。その蓋は、ちょっと意識したくらいで外れるものじゃない。

 それでも――少しずつでも、開けていくしかないのかもしれない。


 俺は床の一点を見つめて、ぽつりと言った。

「......航平が怒った時、俺、正直、羨ましかった」

「柊くんが?」

「ああ。あんなに素直に怒れたら、たぶん、いろんなことが楽だ。志田も、きっとああいう素直な怒りのほうが嬉しかったと思う。俺のずっしりした沈黙より」

「そうかな」

 篠宮は少しだけ首を傾げた。

「私は、水無瀬くんの沈黙も、別に悪いものじゃないと思うよ」

「......なんでだ」

「水無瀬くんの沈黙は、"無関心"じゃないから。うまく言葉にできないだけで、中身はちゃんとある。志田さんも、たぶんそれを感じ取ってる」


 俺は篠宮のほうを見た。

 篠宮は絵に向かっていて、俺の顔は見ていなかった。でも、その横顔の穏やかさは、俺の何かを掬い取ってくれているようだった。

 ――この人は、いつ俺のことをこんなに見ていたんだろう。

 そう思いかけて、すぐに答えが浮かんだ。

 毎日、この美術準備室で、光を見るのと同じ目で、俺を見ていたんだろう。

 俺はそれに、全然気づいていなかった。


「......しんどいな、それ」

 思わず漏れた弱音に、篠宮は少しだけ笑った。

「しんどいよ。でも、水無瀬くんなら、できると思う」

「......なんで、そう思うんだ」

「だって水無瀬くん、ここに毎日来るでしょ」

「......それは」

「見ないふりをしきれない人じゃないと、ここには来ないよ」


 俺は返す言葉を探したが、見つからなかった。

 窓の外の灰色の雲の隙間で、薄い青が、さっきよりも少しだけ広がっていた。

 その薄い青を見ながら、俺は篠宮に一つだけ質問した。

「......篠宮にとって、青ってどんな感じだった? ほら、前に聞いたやつの答え、まだちゃんと聞いてなかったから」

 篠宮は鉛筆を動かしながら、少し考えてから答えた。

「広くて、冷たくて、気持ちよくて、ちょっと寂しい色」

「孤独な色、って言ってたな」

「うん」

「......でも、寂しい色でも、綺麗なんだよな」

「どうだろうね。それは、水無瀬くんが判断すればいいんじゃない?」

 俺は窓のほうに顔を戻した。

 灰色の中の薄い青は、今日の俺には、少しだけ綺麗に見えた。

 ――そう思えるようになっただけでも、たぶん、何かが少し変わっている。


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