感じないのか感じたくないのか
木曜日の放課後、俺はいつもより少し遅れて美術準備室に向かった。
昨日、志田とファミレスで話した内容を、篠宮にどう伝えるべきか考えていた。伝える必要はあった。チームで動いている以上、情報は共有すべきだ。でも、どこまで話していいのか、言葉の選び方ひとつで志田の過去が軽くなってしまう気がして、階段を一段ずつ踏みながら、頭の中で文章を組み立てていた。
4階の廊下は静かだった。音楽室からのピアノの音も今日は聞こえない。
美術準備室の扉を開けると、篠宮は窓際の定位置で絵を描いていた。顔を上げて俺を見る。小さな会釈。それだけで、昨日の疲れのようなものが少し剥がれた気がした。
「......ただいま」
自分でも少しだけ驚いた。「ただいま」なんて言葉、俺の口から出るとは思わなかった。
篠宮も少しだけ目を見開いたが、すぐに柔らかく笑った。
「おかえり」
それだけ言って、また鉛筆を動かした。
ただいまとおかえりの交換。それだけで、今日の日常が戻ってきたような気がした。
俺はいつもの場所に座って、少しの間、黙っていた。切り出し方を探していた。篠宮もこちらを急かさなかった。沈黙の中で鉛筆の音だけが、規則的に続く。
結局、俺はまっすぐ話すことにした。
「......昨日、志田と話してきた」
「うん」
「中学の時のこと、聞いた」
篠宮は鉛筆を止めた。顔はまだ俺のほうを向いていない。窓のほうを向いて、話を聞く姿勢になっている。
「話してくれた?」
「ああ。結構、ちゃんと話してくれた」
「......そっか」
俺は昨日の話を、要点だけ篠宮に伝えた。中学3年の告白。動画を撮られた件。グループチャットの晒し事件。1週間の不登校。「明るい志田」に戻る決意。そして、去年の春から色が少しずつ薄くなっていったこと。
篠宮は黙って聞いていた。途中で相槌も打たなかった。ただ、窓のほうを向いたまま、呼吸だけを聞かせていた。
話し終わると、篠宮はゆっくり息を吐いた。
「......ひどい話だね」
「ああ」
「でもね、志田さんはよく話してくれたと思う。今まで誰にも言えなかったこと、水無瀬くんに話した。それは、志田さんなりの決意だと思うの」
「......そうだな」
俺は少し迷ってから、続けた。
「あと、昨日、ファミレスに航平が偶然来てさ」
「柊くんも?」
「うん。志田の話聞いて、普通に怒ってくれた。『動画撮ったやつも、広めたやつも、振った男も、全員クソだろ』って」
篠宮はその話を聞いて、ほんの少し笑った。
「柊くんらしいね」
「ああ」
「水無瀬くんも、そう思ったんでしょ?」
「......思った」
「でも、柊くんみたいに言葉が出てこなかった」
「......ああ」
図星だった。図星なのに、篠宮の言い方には責める要素がなかった。ただ、「そうだよね」と確認しているだけの声。
俺はその確認に、一つずつ頷くしかなかった。
俺はそこで、自分が昨日からずっと考えていた洞察を、初めて言葉にした。
「志田はさ、"感じない"んじゃなくて、"感じたくない"んだと思う」
「......うん」
「何も感じないって言い張ってるけど、本当は全部感じてる。感じてるから、感じたくないって強く願って、その結果、赤が消えた。奈都の言ってた脳の防衛遮断って、たぶんそういうこと」
「うん。私もそう思う」
篠宮は静かに頷いた。
鉛筆をそっと机に置いて、ゆっくり俺のほうを振り向いた。穏やかな目。でも、今日の目は、いつもより少しだけ鋭かった。
「ねえ、水無瀬くん」
「......ん?」
「それ、水無瀬くんにも言えるんじゃない?」
俺は息が止まった。
いや、止まらなかった。呼吸はちゃんとしていた。でも、肺の中の空気が、一瞬冷たくなった気がした。
篠宮の声はとても穏やかだった。咎めるような調子も、挑発するような響きもなかった。ただ、事実を事実として差し出すような、いつもの篠宮の話し方。
だからこそ、逃げ場がなかった。
俺は目を逸らしそうになったが、今日はそれをしなかった。する意味がない気がした。この人には、どこを向いても見透かされている気がした。
「......かもな」
結局、俺が言えたのはそれだけだった。
「かも、じゃなくて、そうだよ」
「......」
「水無瀬くんも、"感じない"んじゃなくて、"感じたくない"って決めてるだけ。志田さんと形は違うけど、根っこは同じ」
俺は何も言えなかった。
反論する気力もなかった。
というより、反論する材料がなかった。篠宮の言葉は、俺が自分で薄々気づいていたことを、綺麗な形で言語化しただけだった。自分で気づいていたから、余計に刺さった。
篠宮は俺の沈黙を責めなかった。また鉛筆を取って、絵を描き始めた。しゅっ、しゅっ、という規則的な音が戻ってきた。
でも、しばらくしてから、手を止めずに、独り言のように続けた。
「私はね、感じたくないとかじゃないの」
「うん」
「本当に見えないの」
「......」
「だから逆に、見えるのに見ないふりをしてる人のことが――ちょっとだけ、もどかしい」
"もどかしい"。
その言葉の選び方が、篠宮らしかった。
怒っているわけじゃない。責めているわけじゃない。ただ、もどかしい。そう言われると、反論できないし、言い返せないし、謝るのも違う気がする。何の逃げ場もない。
俺は窓の外を見た。今日の空は曇っていた。灰色の雲が一面に広がっている。その中に、時々薄い青が覗いている。
――俺は、青を見ているのか? それとも、青を見ないふりをしているのか?
自分でも、答えが出なかった。
* * *
どれくらい黙っていたか分からない。
鉛筆の音が続く中で、俺は自分の中の何かが少しだけほぐれていくのを感じていた。ほぐれた、という感覚は正確じゃない。もっと正確に言うなら、「自分の輪郭が少しだけ曖昧になった」だ。篠宮の言葉が、俺が長い間かぶっていた「別に」という薄い殻に、小さなヒビを入れた。
ヒビが入ったからといって、すぐに割れるわけじゃない。でも、ヒビが入ったことは、もう無視できない。
俺は小さく息を吐いて、やっと口を開いた。
「......俺が、どうすれば、志田の赤は戻るんだ」
篠宮は鉛筆を動かしたまま答えた。
「分からない」
「......」
「でもね」
ここで、篠宮は初めて手を止めて、俺のほうを向いた。
「見ないふりをやめることから始めるのは、志田さんだけじゃないかもね」
俺はその言葉を、胸の奥にゆっくり落とした。
見ないふりをやめる。
俺が自分の感情の蓋を、少しでも開ける。
そうしないと、志田に届かない言葉は、たぶん、一生見つからない。
奈都も、篠宮も、同じことを違う言葉で言っていた。俺が最後に気づかないといけないことだった。
でも、気づいたからといって、すぐに動けるわけじゃない。
「見ないふりをやめる」と口に出すのは簡単だ。実際にやるのは難しい。俺は何年間も、感情の蓋を強固にするために毎日エネルギーを使ってきた。その蓋は、ちょっと意識したくらいで外れるものじゃない。
それでも――少しずつでも、開けていくしかないのかもしれない。
俺は床の一点を見つめて、ぽつりと言った。
「......航平が怒った時、俺、正直、羨ましかった」
「柊くんが?」
「ああ。あんなに素直に怒れたら、たぶん、いろんなことが楽だ。志田も、きっとああいう素直な怒りのほうが嬉しかったと思う。俺のずっしりした沈黙より」
「そうかな」
篠宮は少しだけ首を傾げた。
「私は、水無瀬くんの沈黙も、別に悪いものじゃないと思うよ」
「......なんでだ」
「水無瀬くんの沈黙は、"無関心"じゃないから。うまく言葉にできないだけで、中身はちゃんとある。志田さんも、たぶんそれを感じ取ってる」
俺は篠宮のほうを見た。
篠宮は絵に向かっていて、俺の顔は見ていなかった。でも、その横顔の穏やかさは、俺の何かを掬い取ってくれているようだった。
――この人は、いつ俺のことをこんなに見ていたんだろう。
そう思いかけて、すぐに答えが浮かんだ。
毎日、この美術準備室で、光を見るのと同じ目で、俺を見ていたんだろう。
俺はそれに、全然気づいていなかった。
「......しんどいな、それ」
思わず漏れた弱音に、篠宮は少しだけ笑った。
「しんどいよ。でも、水無瀬くんなら、できると思う」
「......なんで、そう思うんだ」
「だって水無瀬くん、ここに毎日来るでしょ」
「......それは」
「見ないふりをしきれない人じゃないと、ここには来ないよ」
俺は返す言葉を探したが、見つからなかった。
窓の外の灰色の雲の隙間で、薄い青が、さっきよりも少しだけ広がっていた。
その薄い青を見ながら、俺は篠宮に一つだけ質問した。
「......篠宮にとって、青ってどんな感じだった? ほら、前に聞いたやつの答え、まだちゃんと聞いてなかったから」
篠宮は鉛筆を動かしながら、少し考えてから答えた。
「広くて、冷たくて、気持ちよくて、ちょっと寂しい色」
「孤独な色、って言ってたな」
「うん」
「......でも、寂しい色でも、綺麗なんだよな」
「どうだろうね。それは、水無瀬くんが判断すればいいんじゃない?」
俺は窓のほうに顔を戻した。
灰色の中の薄い青は、今日の俺には、少しだけ綺麗に見えた。
――そう思えるようになっただけでも、たぶん、何かが少し変わっている。




