第9話 契約相手は信用できない?
夜の荷車を押収したあと、ミナとレオンは記録局へ戻った。
捕らえた運搬人たちは、臨時拘置室へ送られた。荷台から見つかった帳簿と手紙は、封を切らずに監査局の保管庫へ収められることになった。だが、その手続きを終えたころには、東の空がわずかに白み始めていた。
明日は公開審査の日だ。
ミナは記録局の小さな机に帳簿を並べ、数字を一つずつ照合していた。第三水路区から消えた二百箱。南職人区から消えた百二十箱。橋守区から消えた八十箱。
配給帳の改ざん箇所と、荷車に積まれていた箱の数は一致している。
だが、安心はできなかった。
机の向かいでは、レオンが封蝋の手紙を見つめている。封筒に記された宛名は、王都財務院の高官だった。名前はミナも知っている。魔法資源の配分を決める部署の責任者であり、貴族商会と深い縁があるという噂の人物だ。
「手紙を公開すれば、商会だけでは済みません」
ミナが言うと、レオンは顔を上げた。
「分かっている」
「財務院から圧力がかかるかもしれない」
「すでにかかっている」
レオンは懐から一枚の紙を取り出した。そこには中央監査局の印が押されている。今夜付けで、レオンをリュネから召還する命令だった。
「いつ届いたのですか」
「荷車を止める前だ」
「なぜ言わなかったのです」
「言えば、君は一人で帳簿を運ぼうとしただろう」
「当然です。あなたが戻されるなら、私が証拠を守らなければ」
「それが危険だと言っている」
「でも、あなたがいなくなれば、証言する人がいなくなります」
ミナは立ち上がった。疲れで足が震えていたが、声は揺らさなかった。
「あなたは中央監査官です。命令に逆らえば、職を失うかもしれない。私との契約も、ここで終わりにできる」
「契約は、明日の審査が終わるまで有効だ」
「それでは足りないかもしれません」
レオンはしばらく黙っていた。
彼の契約は、ミナの調査を補佐し、必要な権限を貸し与えるためのものだった。期間は公開審査の終了まで。もし召還命令に従えば、契約相手としての責任を放棄したことになる。
ミナは、彼を信じてよいのか分からなくなっていた。
夜の橋の下で、彼は証言すると言った。けれど、中央の命令を前にしてまで同じ言葉を守る保証はない。監査官は規則を守る人だ。規則が彼女の敵になったとき、彼はどちらを選ぶのだろう。
「あなたは、命令に従いますか」
ミナが尋ねると、レオンは紙を折った。
「従う」
胸の奥が冷えた。
「そうですか」
「ただし、命令の内容が正当ならば、だ」
「中央監査局の命令を、あなたが正当かどうか判断するのですか」
「監査官の仕事は、命令を受け取ることではない。命令が規則に沿っているか確認することだ」
レオンは召還命令を机の上へ置いた。
「これは正式な召還ではない。発令者の署名がない。中央監査局長の印も、登録番号も欠けている」
ミナは紙を手に取った。確かに、いつもの命令書とは書式が違う。急いで作られたように見えるが、印だけは本物に近かった。
「偽造ですか」
「おそらく。私を審査から外すために作られた」
「それなら、あなたはここに残る?」
「残る」
即答だった。
「君が望むからではない。私自身が、ここで証言すべきだと判断したからだ」
ミナは返事をしなかった。
レオンはいつも、誰かに守られることを嫌がる。彼女に対しても同じだった。自分の判断で残ると言われたことが、なぜか嬉しかった。
しかし、その気持ちを認めるには、状況が重すぎた。
「手紙は、明日の審査で出しましょう」
「封を切らずに?」
「はい。中身が何であれ、封蝋と宛名だけで、中央との繋がりを示せます。開封は審査官の立ち会いのもとで行うべきです」
「君は、手紙の内容を知らないまま出すのか」
「記録に必要なのは、都合のよい文章ではありません。いつ、どこから、誰へ送られたかです」
レオンはわずかに目を細めた。
「だから、君の記録は強い」
「褒めても、契約金は増えません」
「増やすつもりはない」
「では、言わないでください。調子が狂います」
疲れているせいか、ミナは少しだけ笑った。レオンも、ほんのわずかに口元を緩めた。
そのとき、廊下から靴音が聞こえた。
記録局の扉が開き、局長代理のバルドが入ってくる。彼は青ざめた顔で、何度も背後を振り返った。
「ミナ、荷車の件は聞いた。だが、帳簿を公開するのは考え直せ」
「局長代理まで、誰かに脅されたのですか」
「脅しではない。忠告だ。公開審査が荒れれば、記録局そのものが閉鎖される。君一人の正義感で、職員全員を巻き込むな」
「職員を巻き込んだのは私ではありません」
ミナは消えた数字の並ぶ帳簿を指した。
「魔法石を必要とする人たちから、資源を奪った人たちです」
バルドは口を開きかけたが、レオンが静かに遮った。
「明日の審査で、記録局の職員が証言を拒むことはできる。だが、証拠の提出を妨げれば、中央監査規定違反になる」
「あなたは中央へ戻る命令を受けているはずだ」
バルドの視線が、机の上の紙へ落ちた。
「偽造された命令書だ」
レオンは答えた。
バルドの顔から血の気が引いた。彼は何も言わず、扉の外へ目を向けた。
「ならば、もう時間がない。審査官の一人が商会側へ買収されたという話がある」
ミナの指が止まった。
「審査官が?」
「確かな証拠はない。だが、明日の審査で証拠を棄却する権限を持つ者だ」
レオンは立ち上がった。
「名前は」
「エドガルド審査官」
その名を聞いた瞬間、ミナは荷車から見つかった帳簿の一冊を開いた。最後の頁に、細い文字で支払い先が記されている。
エドガルド審査官への謝礼。
金額は、記録局職員の数年分の給与に相当していた。
「証拠はあります」
ミナは頁を抜き取らず、帳簿ごと閉じた。
「でも、明日の審査で彼が議長なら、隠される可能性があります」
「議長を交代させる手続きはある」
レオンが言った。
「ただし、申し立てには複数の証言が必要だ」
ミナは窓の外を見た。夜が明けようとしている。水路の上には霧が残り、町の明かりが一つずつ灯り始めていた。
「集めましょう」
「誰を?」
「消えた魔法石を数えた人たちを。配給所の係員、橋守、水門塔の鐘守。それから、荷車を見た人も」
ミナは帳簿を抱えた。
「記録は一人では守れません。だから、町の人たちに返します」
レオンが隣に立つ。
「契約相手は信用できないと思ったか」
不意に問われ、ミナは彼を見た。
「少しだけ」
「今は?」
「まだ、完全には信用していません」
「それでいい」
レオンは扉へ向かった。
「明日、君が自分の判断で立てるなら、それで十分だ」
ミナはその背中を追った。
信頼は、契約書の署名だけでは生まれない。疑いを抱えたまま、それでも同じ場所へ立つこと。その積み重ねの先にしかない。
朝の鐘が鳴った。
公開審査まで、あと数時間だった。




