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水路都市の記録係は、期限付きの契約から本当の恋を始めます  作者: 銀細工ナギ


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第8話 魔法石を運ぶ夜の荷車

 翌日の夕暮れ、雨は細い霧に変わっていた。


 ミナは記録局の裏口で、濡れた帳面を閉じた。昼のあいだに写し取った搬出予定表は、すでにレオンの手元へ渡っている。北門外の旧貯蔵庫へ向かう荷車は、鐘が九つ鳴ったあとに出る。運搬人は三人。荷は魔法石と帳簿、それから商会の印章。


 証拠を消すための荷物にしては、ずいぶん多い。


「考えごとか」


 背後から声がした。


 振り返ると、レオンが濃紺の外套を着て立っていた。いつもの監査官章は外している。代わりに、内側の襟へ細い銀板を留めていた。中央監査の臨時執行証だ。


「荷車の中身です。帳簿だけなら燃やせば済むのに、魔法石まで運ぶ理由が分かりません」


「売却先が別にあるのだろう」


「北門外の旧貯蔵庫は、冬の配給用に使われていた場所です。そこからさらに運ぶなら、街の外へ出すつもりかもしれない」


「商会は、明日の公開審査を恐れている」


 レオンは銀板を指で確かめた。


「だが、恐れているのは処分ではない。流れた魔法石の量が明らかになることだ」


 ミナは頷いた。魔法石は単なる商品ではない。水路の凍結を防ぎ、共同浴場を温め、貧しい家の明かりを保つ。帳簿の数字が消えれば、誰が何日寒さに耐えたのかも、どの区で明かりが消えたのかも分からなくなる。


「では、荷車を止めます」


「正面から?」


「あなたがそう言うと思っていました」


「私は、規則に従えと言っただけだ」


「規則に従って荷車を止めるには、北門の検査所を通らなければいけません。でも、商会の役人が先回りしている可能性があります」


「だから、別の道を使う」


 レオンは地図を広げた。古い水路と路地が細い線で描かれている。


「荷車は大通りを避け、南の水門沿いを通る。北門へ向かうなら、ここで一度、橋を渡る」


 彼が示した場所を、ミナは目で追った。


「橋の下に、荷車一台分の空間があります」


「知っているのか」


「配給石の臨時置き場でした。今は使われていません」


「そこで待つ」


「二人だけで?」


「応援を呼ぶ時間がない。商会の動きを知っている者が多ければ、情報が漏れる」


 ミナは少し考え、地図の端を指で叩いた。


「待ち伏せではなく、記録を取る役を分けましょう。私は荷札と刻印を確認します。あなたは運搬許可と積載量を確認する。もし偽の許可証なら、その場で執行証を提示して押さえる」


「異論はない」


「それから、荷車を止める前に、鐘守へ合図を送ります」


「鐘守?」


「橋の近くの水門塔です。鐘が三つなら荷車を止めろ、五つなら逃がせ、七つなら人を呼べ。古い取り決めですが、今も水路区では通じます」


 レオンはミナを見た。


「君は、どれだけこの町の仕組みを知っている」


「記録官ですから」


「それだけではないだろう」


 雨の名残が、屋根の端から一定の間隔で落ちていた。ミナは返事をせず、帳面を外套の内側へしまった。


 夜の鐘が八つ鳴った。


 二人は水路沿いの路地へ向かった。石畳は湿って滑りやすく、運河には霧が浮かんでいる。橋の下へ身を隠すと、遠くから車輪の音が聞こえた。


 重い音だった。


 普通の配給荷車なら、魔法石を積んでもここまで沈まない。ミナは音の間隔を数え、眉を寄せた。


「車輪が歪んでいます。右後輪に荷重が偏っている」


「見ただけで分かるのか」


「音で分かります」


 やがて、二頭立ての荷車が霧の中から現れた。荷台には黒い布が掛けられ、側面に商会の紋章が描かれている。御者台には男が二人、後ろには短剣を帯びた男が一人いた。


 ミナは水門塔へ向けて、小さな鏡を一度だけ掲げた。


 塔の鐘が三つ鳴る。


「止まれ!」


 レオンが橋の陰から出た。銀板を掲げ、道の中央に立つ。


 御者が手綱を引いた。馬がいななき、荷車が大きく揺れる。黒布の隙間から、青白い光が漏れた。


「中央監査執行官レオン・アーデルの権限により、積荷と許可証を確認する」


「こんな夜に、何の権限だ」


 御者の男が怒鳴った。


「公開審査に備えた緊急搬送だ。邪魔をするなら、監査局へ正式に抗議する」


「抗議は受ける。だが、荷は確認する」


 レオンの声は静かだった。その静けさが、かえって相手を怯ませている。


 ミナは荷台へ近づいた。後ろの男が一歩踏み出したが、レオンが視線だけで制した。


「荷札を見せてください」


「記録官風情が指図するな」


「私は配給資源記録局のミナです。魔法石の搬出記録と実物を照合します」


 ミナは男の手から荷札を受け取った。紙には北門外、旧貯蔵庫とある。だが、隅の染みを見て、指を止めた。


「この荷札、雨に濡れていません」


「屋根のある場所で保管していたからだ」


「では、なぜ紐だけ濡れているのですか」


 男の顔が強張った。


 ミナは荷札を裏返した。紙の裏に、薄く別の文字が浮かんでいる。薬品で消された跡だ。指先で明かり石を近づけると、消えかけた文字が淡く浮かび上がった。


 第三水路区、二百箱。


「旧貯蔵庫向けの荷札ではありません。第三水路区から抜き取った魔法石を、別の場所へ運び出そうとしている」


「証拠は紙切れ一枚か」


「いいえ」


 ミナは荷台の布をめくった。


 積まれていた箱の側面には、削られた刻印が並んでいた。削り跡の下から、区名の文字がいくつも見える。第三水路区、南職人区、橋守区。どれも配給帳から消えた箱の印だった。


「この箱を開けます」


「許可なく触るな!」


 後ろの男が短剣を抜いた。


 その瞬間、レオンが男の手首を掴んだ。激しい動きではなかった。ただ、逃げ道を正確に塞いでいる。短剣が石畳へ落ちた。


「武器を抜いた時点で、君たちは単なる搬送人ではない」


 レオンは男を拘束し、ミナへ頷いた。


 ミナが箱の留め金を外す。中には魔法石が詰まっていた。表面は青く輝いているが、いくつかはひび割れ、光が不安定に揺れていた。


「劣化品です」


「売り物にならないのか」


「逆です。配給に回せば、今夜からでも使える。商会は良品を横流し、ひびの入った石だけを町へ戻していたんです」


 レオンの表情が変わった。


 そのとき、荷台の奥から小さな音がした。


 紙をめくる音だった。


 ミナは黒布の下へ手を伸ばし、隠し箱を引き出した。中には帳簿が三冊と、封蝋のされた手紙が入っている。封蝋には、商会の紋章ではない別の印が刻まれていた。


 王都財務院の印。


「商会だけの横流しではありません」


 ミナの声が低くなる。


「誰かが、中央から許可を出していた」


 レオンは手紙を見つめたまま、すぐには封を切らなかった。


「ここから先は、これまでの相手より大きい」


「だからこそ、公開審査に持ち込みます」


「君は怖くないのか」


「怖いです」


 ミナは帳簿を抱え直した。


「でも、怖いからといって、記録をなかったことにはできません」


 レオンは彼女の横に立った。


「明日、私が証言する」


「監査官として?」


「それだけではない。君の記録を、私が正しいと認める者として」


 ミナは彼を見上げた。霧の向こうで、荷車の魔法石が青い光を放っている。その光は不安定で、今にも消えそうだった。


 それでも、二人の足元を照らすには十分だった。


 水門塔の鐘が、九つ鳴る。


 夜の荷車は止まり、消されるはずだった記録が、ようやく町のもとへ戻り始めた。

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