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水路都市の記録係は、期限付きの契約から本当の恋を始めます  作者: 銀細工ナギ


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第7話 雨宿りの倉庫で交わす本音

 青い粉が床に落ちた瞬間、ミナは袖で口元を覆った。


「息を止めて!」


 レオンの手が伸び、彼女の肩を引き寄せる。粉は石床に積もると、淡い光を放ちながら細い煙を上げた。喉の奥が焼けるように痛み、ミナは咳をこらえた。


「毒か」


「魔力を急激に奪う粉です。量が多ければ、明かり石どころか人の体も動かなくなる」


 レオンは剣を抜き、鉄扉へ向けて刃を差し込んだ。だが、錠前は扉の外側にある。斬りつけても、厚い鉄板が音を吸い込むだけだった。


 空洞の奥から、先ほどの足音が遠ざかっていく。


「閉じ込めた相手が、助けを呼ばないと思っているのでしょう」


「なら、呼ばせる」


 レオンは壁際の木箱を蹴り倒した。中から保温石が転がり、青い粉の上で不規則に明滅する。


「何をするつもりですか」


「この空洞は古い温水管につながっていると言ったな」


「ええ。けれど、管はずっと前に使われなくなっています」


「水が通らなくても、空気は通る」


 彼は箱の底板を外し、壁の隙間へ剣先を差し込んだ。石壁の向こうから、かすかな風が流れてくる。


 ミナは床に散った木札を拾い集めた。箱の側面には、区の名前と数字が小さく刻まれている。


「この箱は搬出記録ではありません」


「また数字か」


「はい。保温石一箱あたりの持続日数です。第三水路区へ送るはずだった箱に、貴族街向けの印が重ねて刻まれている」


 彼女は爪で刻印の縁をなぞった。


「最初に押された紋章を削り、その上から別の区名を刻んでいる。つまり、横流しのために箱そのものを偽装したんです」


「証拠になる」


「ここから出られれば、ですが」


 レオンは振り返った。薄暗い中でも、その目だけははっきり見えた。


「必ず出す」


「それは、私を守るという意味ですか」


「違う。君が必要だからだ」


 予想もしなかった言葉に、ミナは一瞬、息を忘れた。


 レオンは気まずそうに視線を壁へ戻した。


「君の記録がなければ、私はここまで辿り着けなかった。君の判断がなければ、先ほどの荷車も追跡できなかった。だから、君を失うわけにはいかない」


「それなら、私も同じです」


 ミナは木札を胸元へしまった。


「あなたの署名がなければ、中央監査の記録として扱われません。あなたがいなければ、私一人では商会の扉すら開けられない」


「君は、私に頼っているのか」


「頼っています。頼ることと、任せきりにすることは違いますから」


 レオンは少しだけ目を細めた。


「最初に会ったとき、君は私を嫌っていたな」


「今も、融通が利かないところは嫌いです」


「正直だ」


「あなたも、最初は私をただの下級官吏だと思っていました」


「訂正する。今は、ただの下級官吏だとは思っていない」


 冷たい風が壁の隙間から吹き込んできた。粉の煙がわずかに揺れ、空洞の奥へ流れていく。


 ミナはその風に顔を近づけた。湿った匂いがする。雪ではない。外はいつの間にか雨へ変わっていたらしい。


「外へ通じる場所が近い」


「分かるのか」


「雨の匂いと、川の匂いです。それから、古い木材の匂いも」


 二人で壁を探ると、石の一つだけがわずかに動いた。レオンが肩を押し当てる。石は軋みながら奥へ外れ、人ひとりが這って通れる穴が現れた。


 先にミナが身を滑らせ、レオンが続く。出た先は、水路沿いの古い倉庫だった。屋根を叩く雨音が激しく、窓の外は白い幕のように煙っている。


 倉庫の隅には、使われていない荷車と濡れた麻布が積まれていた。二人はその陰へ身を寄せた。ミナの髪から水が滴り、レオンの外套も重く濡れている。


「まるで、雨宿りですね」


「こんな場所でなければ、もう少しまともだった」


「まともな場所なら、本音は言わなかったかもしれません」


 レオンは黙った。


 雨音が、町のざわめきをすべて包んでいる。外を誰かが走っていく気配も、遠くの水門の音も、ここではぼやけていた。


「レオン」


「何だ」


「契約が終わったら、あなたはどうするつもりですか」


「中央へ戻る」


「それだけですか」


「監査官として働く。必要なら、商会の処分にも立ち会う」


「そうではなくて、あなた自身は?」


 レオンは濡れた手袋を外した。指先が冷えて赤くなっている。


「私は、職務以外のことを考えるのが苦手だ」


「知っています」


「君は、私が町を守ろうとしていると思っているか」


「いいえ」


 ミナは首を横に振った。


「あなたは町を守りたいのではなく、規則が壊されるのが嫌なのだと思っていました」


「今は?」


「少し変わりました。規則の向こうに人がいることを、あなたも見ようとしている」


 レオンは長い間、何も言わなかった。


「君は、よく見ているな」


「記録官ですから」


「それだけではない」


 彼はミナの方へ向き直った。


「君が町の人々を見ていることを、私は羨ましいと思う。私は数字を正しく並べることしかできない。だが君は、数字が誰の暮らしから生まれたのかを知っている」


「あなたにもできます」


「できないから、君と組んだ」


 胸の奥に、雨とは違う熱が広がった。


 外で雷が鳴った。倉庫の壁が震え、棚の上から一枚の紙が落ちてくる。


 ミナが拾い上げると、そこには商会の印と、明日の搬出予定が記されていた。


 最終搬出先――北門外、旧貯蔵庫。


 備考欄には、短い言葉がある。


 公開審査の前夜に、帳簿と現物を消去する。


「明日の夜です」


 ミナの声が震えた。


「証拠をすべて運び出すつもりだ」


 レオンは紙を見つめ、立ち上がった。


「なら、先に奪う」


「奪うのではなく、押さえます。正式な手続きで」


「君は本当に融通が利かないな」


「あなたに言われたくありません」


 ミナは木札を握りしめた。


 雨はまだ止まない。けれど、二人の間にあった冷たい距離は、いつの間にか消えていた。


「レオン。明日の夜、私を置いていかないでください」


「置いていかない」


「守るためではなく?」


「対等な調査官として、隣にいる」


 その約束だけで、ミナは十分だった。


 倉庫の外で、水路の鐘が鳴った。


 今度は、正しい回数で。

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